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第四章 関係の変化
52. 泣いた紫陽花(下)
しおりを挟む驚き言葉を失っている泰然の後ろから現れたのは、美羽蘭だった。
つかつかと歩み寄って来る淑妃に、子墨は慌てて立ち上がる。
前に出た峰風は、深々と頭を下げた。
「助手が泰然殿下へ不躾な質問をしてしまい、大変申し訳ございません」
「樹医殿、誤解なさらないで。どうして彼がそれを知っているのか、気になっただけですの」
美羽蘭が立腹している様子はない。
純粋に答えを知りたがっているだけだった。
「紫陽花が、故人を偲んでいるような気がしまして」
「まさか! だから、あそこだけ赤を……」
絶句した泰然が「母上!」としがみつく。幼い我が子を、母はしっかりと抱きしめ返した。
「……人ではなく老犬ですが、先月の初めに死にました。この子にとっては血を分けた兄弟のような存在でしたから、すっかり落ち込んでしまって」
「洋はこの紫陽花が大好きだったから……見える場所に埋葬してやったのだ」
赤い目をこすり鼻をすすりながら、泰然は紫陽花を指さす。
「よく、そこで昼寝をしていた。ちょうど、その辺り……赤い装飾花が咲いているところの下でな」
子墨は黙とうするように目を閉じる。その横で、峰風は泰然の話を冷静に分析していた。
峰風にはなぜ紫陽花の色が変わったのか、その理由がわかっていた。
紫陽花は土壌の成分で色が変わる。同じ株でも、吸収した成分量の違いで色が異なることがあると書物を読んで知っていたのだ。
おそらくは、犬を近くに埋葬したことで土壌の成分が変化したことによるものではないかと仮説を立てた。
(しかし、ちょうどあの辺りの装飾花だけ、綺麗に色が変化するものなのか……)
子墨は話を聞く前から「泣いている」「偲んでいる」と発言をしていた。
峰風は、子墨の横顔をそっと見つめた。
◇
『子墨には何か特別な能力が備わっている。それは──巫女だから』
子墨の舞い姿を見たときから、この考えが峰風の頭を離れない。
毒草の摘発、薔薇の害虫駆除、何色の花を咲かせるか、枇杷の見分け、御前の難問への回答。
「その子も、それを望んでいます」「この子がそう言っていますので」「あの子たちのお薦めですから」──そして、今回の発言。
知識や経験だけでは、到底説明がつかないことばかり。
その正体が、あらゆる植物を掌る豊穣神の化身ならば、すんなり納得ができるのだ。
しかし、評議の際にお披露目された巫女は噂通り左手の甲に『麦の穂』の痣があり、『銀髪・紫目』の女性だった。
紫水晶のような瞳が美しく、峰風は目をそらすことができなかった。
たとえ髪色が変えられたとしても、瞳の色を変えることは不可能だ。
日の光の下で確認をした子墨の瞳は、やはり黒。紫ではない。
(君は何者で、一体何を感じ取っているんだ?)
子墨の横顔を見つめていた峰風は、再び紫陽花へ視線を戻す。
紫陽花が亡き老犬を想い、赤い花を捧げているように見えた。
◇◇◇
それから半月後、いつものように出仕した子墨の卓子の上に置かれていたのは、皿に載せられた可愛らしい小物だった。
よく見ると、花と犬の形をしている。
「峰風様、これはなんですか?」
「それは軟落甘(落雁)という干菓子で、淑妃と泰然殿下からの頂き物だ」
「こんな綺麗なお菓子を、初めて見ました」
「花は紫陽花、犬は洋を模してあるそうだ。わざわざ職人に型を作らせ成型した、特注品らしいぞ」
「手間がかかっているのですね。食べるのがもったいないですが、遠慮なくいただきます」
パクリと口に入れるとほろっと崩れ、上品な甘さが口いっぱいに広がる。
あまりの美味しさに、子墨はあっという間に二つとも食べてしまった。
「ごちそうさまでした!」
「あ~あ、子墨くんはもっと味わって食べないと、もったいないですよ。ちなみに、これ一つで幾らくらいすると思いますか?」
少々呆れ顔の秀英から問われ、子墨は真剣に考える。
菓子一つが、指先三本分くらいの小さな物であること。
きめ細かで口溶けのよい、上品な甘さの質の良い砂糖が使用されていること。
職人に型を作らせたこと。
(特注品だから、さらに色を付けて……)
「えっと、月餅二つ分くらいでしょうか?」
月餅と言っても、以前、梓宸殿下から頂いた高級なほうですよ!と付け加えた。
「アハハ!」
峰風が腹を抱えて笑っている。
少し高く言い過ぎたのだろうか。子墨は首をかしげる。
「東方国で特別な製法で作られている上質な砂糖を惜しげもなく使用した干菓子だからな、殿下の月餅でも五つ分はあるだろう。市井の物なら十五。いや、二十くらいは……」
「そんなにするんですか!!」
予想の、遥か遥か彼方をいっていた。
秀英の言う通り、もっとじっくり味わって食べるべき超高級品だった。
「そうそう、あの紫陽花だが、撤去するのは撤回となったそうだ。そもそも、撤去ではなく場所を移動させるという話だったらしいが……」
部屋から紫陽花を眺めては洋を思い出し悲しむ息子を見兼ねた母が、目に付かない場所へ移動させようと考えたことだった。
「あと、貴重な紫陽花を株分けしてくださることに…って、俺の話はまったく聞こえていないようだな」
衝撃のあまり放心状態の子墨を、峰風は苦笑しながら眺めていた。
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