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第三章 転機

37. 不思議な声

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「さて、雨が降り出してくる前に帰るとするか」

「はい」

 本日の予定はすべて終えた。峰風によれば、桑園には年に数回は訪れているとのこと。
 次回は果実の収穫の時期と重なり、「味見くらいは、させてやるぞ」と嬉しいことも言われた。
 桑の実は、皇后のお茶会で一度だけ食べたことがある。甘酸っぱい味を思い出すだけで笑顔になる。
 また一つ、楽しみが増えた。
 
 馬車へ向けて歩き出した二人のもとに、一人の農夫が慌ててやって来た。

「官吏様、あっちの桑の木に害虫らしきものがおって、一度確認してもらえねえか?」

「わかった、すぐに案内してくれ。子墨は、先に馬車へ戻っていろ」

「えっ、でも……」

「雨に濡れて風邪をひかれては、妃嬪の職務に差し障りがあるからな」

 つまり、子墨から欣怡へ病をうつされては困るということらしい。
 二人とも、竹笠に雨具を身に着けてはいる。しかし、雨量によっては万全とは言い切れない。
 長期間(表向きは)体調不良で休んだことで、子墨は体が弱いと認識されているようだ。
 でも、凛月は昔から健康優良児である。 

「わかりました」

 子墨としては気になることがあったため、同行したかった。
 しかし、峰風の命令には逆らえない。
 二人に付き添っていた護衛官は、当然のことながら峰風に付き従う。

「しかし、君を一人にするのも心配だな」

「大丈夫です。馬車はあそこに見えていますし、御者もいますから。では、先に戻っていますね!」

 そう言うと、子墨は走り出す。
 空はどんどん暗くなり、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
 峰風の気遣いを無にしてはいけない。子墨は全速力で駆ける。
 できれば、峰風も降られる前に戻ってきてほしい。

 もう少しで馬車に辿り着くところで、木の影から急に人が出てきた。
 行く手を塞がれ、止む無く足を止める。
 道に立っているのは農夫らしき男性だ。

「追いついてよかった。実は、あそこの桑の木が虫に食われていてね。ぜひ、あんたに見てもらいたいんだ」

「僕はただの助手ですので、峰風様がお戻りになるまでお待ちいただけますか?」

「いや、待てねえ。雨が降り出したら、虫が逃げちまうだろう?」

「それは、そうですが……」

 子墨は、不穏な気配を感じ取っていた。
 あちらでもこちらでも害虫が残っているなど、ありえない。
 現に今、再度確認をした。桑の木たちの悲鳴はまったく聞こえない。異常がないからだ。
 さっきは、もしかしたら見落としがあったかもしれないと思った。
 しかし、今ははっきりと断言できる。この人たちは嘘を吐いていると。
 彼らの目的は、一体何なのか。
 
⦅……ニゲテ⦆
 
 声が聞こえた。
 耳を通さず、頭に直接響くような不思議な感覚。
 辺りを見回すが、他に人はいない。
 農夫は反応していないので、子墨にしか聞こえていないようだ。

⦅カレラノ…ネライ…ハ…キミ⦆

「彼らって、(農夫)二人のこと?」

 思わず、空に向かって問いかけていた。
 農夫は訝しげな顔をしているが、気付かないふりをする。

⦅チガウ。モット…タクサン⦆

⦅ダカラ…カクレテ…キノシタ…ニ⦆

「わかった。ありがとう!」

 子墨は、来た道を取って返す。逃げるのに邪魔な笠と雨具は、早々に脱ぎ捨てる。
 誰が敵で、誰が味方かわからない。ならば、子墨は『あの子たち』の指示に従うまで。
 ポツポツと落ちてきた雨は、やがて本降りとなる。
 いきなり逃走を始めた子墨に呆気にとられた農夫だったが、「コラ、待て!」と追いかけてきた。
 女の足ではすぐに追いつかれてしまう。土砂降りの雨で、視界も足元も悪い。
 あの子たちは、『木に隠れろ』と言った。

「……ねえ、どこの木がいいの?」
 
 声を潜めて尋ねてみた。

⦅ソコ…ヒダリ!⦆

 迷わず左の木の陰に飛び込んだ。息を潜め、動かずその場に待機する。
 養蚕用に改良された桑の木は根元付近まで葉が生い茂り、小柄な子墨の姿は外からは見えない。
 その内、バシャバシャと複数の足音が聞こえてきた。

「おい、小僧はどこに行った?」

「すまねえ、見失った」

「高官の足止めは、長くはできない。早く見つけ出すぞ!」

 土砂降りの雨の中、雷鳴が響き渡る。
 動悸が激しく息苦しい。外まで音が漏れ聞こえそうだ。
 なぜ自分が狙われているのか、理由がまったくわからない。
 こんな下っ端宦官を、彼らはどうするつもりなのか。
 
⦅アトハ…マカセテ⦆

 離れた場所で、突然ガサガサと大きく木が揺れた。
 音は移動しているようで、子墨からはどんどん離れていく。

「奴がいたぞ!」

「あんな所に隠れていやがったのか」

「早く追え!!」

 四方から、さらに人が集まってきた。相当な人数に追われていたことがわかる。
 子墨は身を固くしながら、周囲に人が居なくなるのを待つ。
 しばらくして、足音は聞こえなくなった。
 張り詰めた空気が少しだけ和らいだが、子墨はまだ動かない。
 
⦅サア…イマノウチ⦆

⦅コノ…キノシタノミチ…マッスグ⦆

「助けてくれて、どうもありがとう」

⦅ドウイタシマシテ…ミコサマ⦆

 子墨は四つん這いで進んで行く。
 葉っぱで多少は雨が遮られているとはいえ、水滴が頭上から滴り落ちてくる。
 官服は所々が破れ、髪はグシャグシャ。くつは片方が行方不明に。
 全身泥だらけで、ひどい有り様だ。

 峰風は無事だろうか。狙われているのは子墨だと、あの子たちは言っていた。
 ただ、足止めをされているだけ。護衛官が付いているから大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 後宮まで、無事に帰れるのだろうか。

(峰風様……)

 無性に顔が見たかった。


 ◇

 
 ついに道は途切れた。しばらく待ったが、周囲に人の気配はない。
 様子を窺いながら木の下から這い出たところで、子墨は後ろからひょいと抱きかかえられる。
 あっという間の出来事に、声も出なかった。

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