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59 帰還

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「――――絶対に、行くな!」

 自分の怒鳴り声が朝の喧騒の中で、一際大きく響き渡った。
 廊下を行き交う生徒達がぎょっとした様子で振り返ったが、そんなものが全く気にならないくらいに頭が熱い。風邪の名残と怒りの感情が理性と体力を削り取り、声を抑える努力を忘れた。
 声を受けて目を見開く佐伯葵の肩を、空いた方の手で乱暴に掴む。怯えられたが、それさえ気にならないまま叫んでいた。
「行くんじゃねえぞ、絶対! 行こうなんて、考えんな!」
「あ……、で、でも」
「でもじゃねえよ! ろくでもない奴だっていうの、お前だって分かってるだろ! お前もう、十七じゃん! ……ふざけてるだろ! 十七年経ってから言う台詞じゃねえよ、こんなの!」
 ぐしゃっ、と手の中で紙が潰れる音がした。葵の物だからと言って躊躇する理由などなかった。むしろ葵のものだからこそ、尚更思ったのだ。こんなもの葵には要らない。むしろ葵の害になる。
 怒りも露わに紙片をぎりぎりと握り込んで――吉野泰介は、唐突に我に返った。

「……。は……?」

 いきなり、だった。
 急に、落ちた。
 何かが、自分へ。
 唐突に振ってきた認識と先程までの自分との折り合いが付けられず、感情の回路がショートしたかのように、思考が急激に停止する。
 途端に、シャッフルされた思考と認識と記憶と感情が激しく交錯し、ただでさえ病み上がりで落ちていた泰介の体力を凄まじい勢いで食い荒らし――全身に、嫌な汗が浮いた。
「……っ、う……!」
 何が起こったのか、瞬時に理解した。
 ――どうやら、成功したらしい。
 おそらく修学旅行まであと、三日か、四日。当初の予定ほど遡る事はできなかったらしいが、修学旅行前で尚且つ〝ゲーム〟前であるならばそれ以上は望まないし、むしろ好都合だった。二人の記憶の削れ方が、最小限で済む。
 そこまで思考が追いつくと、泰介は安堵したが――どうやらこの状況は、楽観できるものではないようだった。
「えっ? 泰介? ……どうしたのっ? ねえ!」
 怒鳴り声を張り上げたかと思えば茫然とする泰介を、葵は戸惑いと困惑が入り混じった目で見つめていた。だが泰介の顔に苦悶が浮かぶのを見た瞬間に、葵の声音が緊迫したものへと変わる。
「顔色、悪いよ。やっぱりまだ風邪、しんどいんじゃないの……?」
「葵」
 泰介は、顔を上げた。葵の言葉に返事をしないまま、きっぱりと言う。
「これ、本当に行くな。絶対に行くんじゃねえぞ」
「あ……」
 葵が、不意を衝かれたような顔になる。構わず、泰介は続けた。
「……自分の事を知りたいって思うのは、当然の感情だって俺も思ってる。そこまで否定するつもりは、ねーよ。……でも、行くな」
 乱れ始めた呼吸を気取られないよう意識しながら、泰介は俯いた。こめかみに汗が流れていくのが分かり、その熱っぽい感触が堪らなく不快だった。
「泰介っ……!」
「いいから、聞け!」
 葵の声が上ずる。泰介は俯いたまま乱暴に叫んだ。
「行くな、葵。……っ、行ったら、駄目だ、お前は」
 ――頭が、回らない。
 葵を留める為の言葉が、まるで出てこなかった。以前自分がどのように葵を説得しようとしたのかもよく思い出せず、朦朧とし始めた意識に気づくと、泰介はきつく奥歯を噛みしめてそれに耐えた。
 だが、駄目だった。悔しいが、認めないわけにはいかなかった。
 明らかに、泰介の体調が正常ではなかった。
 原因は、自分でも薄々見当がついている。おそらくはまだ治りきっていない風邪と、慣れない跳躍の後遺症。その両方に違いない。佐伯蓮香はけろっとした態度で跳躍をこなしているように窺えたが、実際の所この行為には、かなりの体力と精神力を消費するのではないだろうか。葵を溺愛する義姉の底知れぬバイタリティに慄きながら、泰介は歯噛みして俯き続けた。
 葵にこんな顔は、やはり見せられない。ただでさえ実母の手紙で参っているのだ。そんな葵に泰介の事まで背負わせる気はなかった。
 だがそんな泰介の意思に反して、呼吸はみるみる不確かになっていく。吸った息が、うまく吐けない。吐き出した途端に咽返る。乱れた呼吸は最早自分の耳にも明らかだ。苦悶が、もう隠せない。
 揺らぎ始めた視界の中に、白い手が伸ばされた。葵の指が、泰介の肩へ触れる。そして身体の熱さに驚いたように一度その指が離れ、慌てた様子で掴み直された。
「泰介! ……保健室、行こう!」
「いいから聞けって、言っただろ……行くな。葵。それ、絶対行くんじゃ、ねーぞ……行ったら、ぜったい、許さな……」
「行かないっ、分かったから! だからお願い! 保健室一緒に行って!」
 行かない、と、葵がはっきりと言った瞬間、自分の中で張りつめた緊張感が、一気に緩むのを感じた。
 力が、抜けた。いきなりだった。糸が切れたように、ぷつん、と弛緩する。
 前のめりになった身体が倒れ、驚く葵の身体にぶつかった。
 どんっ、と、鈍い音が、自分の鼓膜を緩慢に震わせて響く。覆い被さるようにぶつかった身体が、そのまま葵を巻き添えにしながら崩れ落ちて――葵が悲鳴のように自分の名を呼ぶのを、遠く、聞いた。
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