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 散歩の時と同じ緩やかさで、菊次はゆっくりと食事を取った。談笑しながら食べているとみんなも自然とゆっくり食べるのが常だったが、それでも菊次よりは早く食べ終えてしまう。一時間ほど経った頃、佳奈子が「淳美ちゃん、コーヒーを淹れてくるから」と言って立ち上がり、浩哉を伴って空いた食器を下げてくれた。和室を出る時に浩哉が、佳奈子に似た優しい笑い方で淳美たちを見たのが印象的だった。浩哉も日々大人になっていて、淳美が気づいていないと思い込んでいることなんて、案外見破られていたのかもしれない。淳美はベッドの脇に腰かけた。
 たとえ菊次が覚えていなくても、伝えたいことがあったのだ。
「おじちゃん。今日はお礼を言いにきたんだ」
「儂は、何かしたっけなぁ」
 菊次は、ふちが灰色がかった瞳をきょとんとさせた。あどけない幼子のような反応が、なんだか無性に寂しかった。リクライニングを起こしたベッドに背を預けた菊次は、また少し痩せたようだ。淳美は、元気に笑って「したよ」と答えた。胸が張り裂けそうだった。
「おじちゃんは、私を勇気づけてくれたんだよ。教師の仕事で少しだけ悩んでた私のことを。おじちゃんが教えてくれた勇気を、私も他の誰かに教えてあげられた。おじちゃんは、やっぱりすごい人だよ。昔から、本当に格好いい」
「浩哉が聞けば、さぞくだろうねえ」
 からからと豪胆に、菊次は笑った。それから、ふっと夕暮れ時のような哀惜を目に灯して「淳美ちゃん」と囁いた。
わしは今日、淳美ちゃんに謝らんといかんことがある」
 心臓が、乱れたリズムで鼓動を打った。言わせてはいけない。直感が警鐘を鳴らしている。それでも、言わないでほしいなんて聞き分けのないことは言えなかった。震えそうになる声を気取られないよう「何?」と陽気に訊き返すと、菊次は寂しい笑みを浮かべたまま、少しだけ申し訳なさそうに、それ以外には取り立てて不審なところがない、いつも通りの口調で言った。
「淳美ちゃん。ごめんなぁ。儂は淳美ちゃんに、嘘をついた」
「嘘……?」
 乾いた声が、喉から漏れた。嘘? 何を? いつ? 疑問が通り雨のように脳裏のアスファルトを叩くのに、どの疑問にも正しい答えを与えたくない。耳を塞ぎたくなる淳美へ、しかし菊次はひどく敬虔けいけんな慈悲深さを湛えた笑みで、それでいて無慈悲に告げたのだった。
予後よごのことさ」
 予後――鈴を転がすような言葉の響きに、頭を殴られたような衝撃を感じた。予後。予後。記憶の風鈴が涼しく鳴る。思い出せない祖父の顔を、一瞬だけ思い出せた。ぐいと寄せられた灰色の眉。気難しそうな眉間の皺。ごつごつした手のひら。お医者様は、本当にそう言ってらしたの? ――ああ、予後は良いと。
「儂は、前に淳美ちゃんに言ったろう? 医者も、予後は良いと言ってくれていると。医者の言葉自体は、本当さ。病後の見通しは明るい、と。それを言う表情は、秋の空みたいに澄んだ青色でねえ。一緒に話を聞いていた佳奈子さんと浩哉は、うちの庭に咲いている朝顔の葉を太陽にかざしたみたいな緑色で、どれほど医者の言葉にほっとして、儂を案じてくれているか、とってもよく分かる安堵の色を浮かべていたよ。でも、儂には医者の言った『予後』の言葉が、赤く見えたんだよ。その時に、わかったのさ。嗚呼ああ、お迎えが近いんだってね」
「どうして、そんなことを覚えているの」
 尖った声が、出てしまった。堪えていた一線がぷつりと鋏で断ち切られて、涙の盛り上がった目で菊次を睨んだ。浩哉が拾ったスイカ味の飴玉みたいな記憶の欠片を、菊次は達観と諦観が赤く染みついた声で、淳美に託そうとしている。どうしてそんな飴玉だけは、いまだに手のひらに残しているのだ。今の淳美は図工室に来た美里みさとと同じ顔をしていると気づいていたが、一度飛び出した言葉は取り返せない。意地でも泣くまいと歯を食いしばったが、涙は堪えられても言葉は堪えられなかった。
「お迎えなんて、言わないで。そんな言葉、きらいだよ。おじちゃんは、百歳まで生きるんだよ。百歳よりも、もっと長生きするんだよ。おじちゃんがそんなにひどいことを言うなら、もう赤いスパゲティなんて作らない」
「ああ、淳美ちゃん。泣かないでおくれ。笑っておくれ。じーちゃんが悪かった。じーちゃんが悪かったから」
 何度も何度も、じーちゃんが悪かったから、と菊次は繰り返して、夕暮れ時の空のような哀惜を湛えた笑みのまま、まだまだ幼い孫をあやすように、淳美に謝り続けた。淳美は言い返そうとしたけれど、飽和した悲しみに名前のつけられない感情が乗ってきて喉を圧迫したせいで、首を横に振るしかできなかった。
 ――おじちゃん、間違ってるよ。
 本当は、そう言いたかった。
 ――私と話す時は、いつも自分のこと『おじちゃん』って言ってるのに。
 でも、言えなくて安堵もしていたのだ。
 ――『じーちゃん』はだめだよ。私は浩哉になれない。おじちゃんの孫じゃないんだから。
 分かっていても、少しだけ、嬉しかった。
 ――それでも、『じーちゃん』って言ってくれるんだね。
 赤い予後を告げた人は、よしよし、と夏の夕暮れのように優しい声で、淳美の頭を撫でてくれた。乾いた手のひらは、記憶の切れ端に残った祖父の手よりも、ずっと華奢で小さくて、けれど淳美がもう忘れてしまった温もりがあった。
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