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 菊次きくじが病で倒れたのは、今から半年以上前。年の瀬が迫る冬の日だった。
 残務処理に追われ、二十時過ぎに帰宅した淳美あつみは、玄関先で違和感を持った。隣家の玄関灯がいていなかったからだ。窓からの灯りも一切漏れない暗すぎる家からは、重い澱みが流れている気さえした。その後、淳美は自分の家族から、菊次の入院を知らされたのだった。
 淳美が出勤したあとで、浩哉ひろやがのんびりと朝食を食べている時に、突然にそれは起こったという。菊次が、家族の呼びかけに反応しなくなったのだ。家族の中でただ一人だけ生活の基盤を海中へ移したかのように、全ての動きが緩慢で、こちらの呼びかけは聞こえているに違いないのに、唇が震え、声も低く掠れ、返事の輪郭が波打っていた。覚めたばかりの夢の中へ連れ戻されたような菊次へ、浩哉と佳奈子かなこは声を少し大きくして、やがて躍起になって呼びかけたという。ちょうど単身赴任中の浩哉の父が泊まりに戻っていたことが、この日の露原つゆはら家の命運を分けた。異変を見抜いた浩哉の父が速やかに呼んだ救急車で、菊次は病院へ運ばれた。そして、海にも夢にも連れていかれずに済んだのだ。
 淳美の家族は、菊次の入院準備を整えるために何度か帰ってきた佳奈子から、一連の事情を教えてもらった。佳奈子はその晩病院に泊まり、露原家には戻らなかった。
 戻ってきたのは、浩哉だけだった。
 ――『じーちゃん、脳梗塞のうこうそくだった』
 車がガレージに停まる音を聞きつけて庭へ飛び出した淳美へ、浩哉は憔悴した様子を見せずにけろりと言った。口ぶりの軽さとは裏腹に、庭の闇に紛れた表情は硬く、笑顔にも無表情にもならないように努めていると分かる顔だった。
 ――『しばらくは入院で、症状がよくなってきたら違う病院に転院して、リハビリに移るって聞いてるよ。あっちゃん、大丈夫だって。学校の先生が夜更かししちゃだめだよ。俺ももう寝るし、あっちゃんも早く寝てよ。俺のじーちゃんは強いから、絶対に元気になるよ』
 最後はしっかりと笑った浩哉の台詞を、淳美も心から信じることにした。
 菊次は細身の体格に見合わず健啖家けんたんかで、毎朝の散歩を欠かさず、時には山登りにも精力的に出かけるのだ。そんな菊次が、やまいに負けるわけがない。そう信じていなければ、露原家を包む黒々とした夜の闇に力を与えてしまいそうで、淳美も浩哉みたいな表情をむりやり作り、『うん』と力強く頷いた。
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