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2.過去
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どこまでも吸い込まれそうな青空の下、グラウンドのあちこちでは、黄色く甲高い声が飛び交い、白い砂埃が待っていた。
運動場の西の隅、半分がた埋めた古タイヤの列が二本、赤、青、黄、緑……と続いている。数人の男子児童が集まっていた。
タイヤの列を東から見てその右端には、男児二人が片足をタイヤに掛けてスタンバイしていた。レース前の緊張感が漂う。タイヤからタイヤへ飛び跳ね、最後まで渡り切る。もちろん早い方が勝ち。地面に落ちたら、スタートからやり直し。転落即敗北の可能性が非常に高い。
「用意」
レンズの小さな眼鏡をした子が、右手をピストルの形にして天に向けた。男児二人の足に力がこもったのがよく分かる。タイヤのゴムと靴底が擦れて、きゅきゅと音がした。
「どん!」
合図と同時に、二人は一つ目のタイヤに立ち、その勢いのまま、二つ目、三つ目と飛び移っていく。互角のスタート。いや、中程に差し掛かった段階でもまだ互角だ。周りの男児が囃し立てる。
二人は騒ぎ声にも動じたり焦ったりすることなく、軽快なジャンプを繰り返した。東側を飛ぶ有森礼一郎は集中力と冷静さを保ち、西側を飛ぶ遠藤直樹は直感とリズムで進んでいるところがあった。
あと三つ。まだ差はつかない。――と、そのとき。
「殺さないで!」
すぐ近くでした女の子の悲鳴に、片方の男児が足を踏み外した。有森だった。
遠藤はその事態に気付いたのか否か、一気に渡り切ると、ガッツポーズ。
有森は肘をタイヤに掛けた姿勢のまま、大きなため息をした。
「今の、なしだろう?」
敗者の気持ちを代弁するかのように、集まっていた男児の一人が言い出した。
「有森が落ちたのは、伊之上が叫んだからだ」
と、最前悲鳴を上げた女の子を指差す。当の伊之上由奈はタイヤの上に手をやり、何かしげしげと見ている。一番近くにいた有森はさらに近付き、彼女の視線の先を追った。
「てんとう虫か」
赤地に黒い星を背負ったドーム型の小さな虫が、黄色いタイヤの頂上付近をうろうろしていた。それも二匹。
「遠藤、やり直しだぞ」
「何でだよ」
異議を唱えた男児、牛木等と遠藤との間でちょっとした口論が始まっていた。
「だから有森が落ちたのは、叫び声のせいで」
「叫び声なんか、俺はちっとも気にならなかったぜ」
「そりゃあ、おまえの方が伊之上から遠いからだよ」
「関係ねえよ。あんなので驚いて落っこちるのが悪いんだ」
「そんなことあるか。近い方が驚くに決まってる。なあ、有森も思うだろ?」
牛木の声に、有森は振り返った。
が、その牛木の目線は有森を通り越し、伊之上に注がれている。
「だいたい何で伊之上、いきなり叫ぶんだよ」
「てんとう虫を踏まれたくなかったってさ」
察しを付けた有森は苦笑い。その返事は伊之上にも聞こえたらしく、跪いたまま振り向いた。大きな丸い眼鏡越しに、瞳が状況を探る風に見つめる。
「この子達が踏まれそうだったから、思わず」
静かだが、はっきりした物言いをした伊之上。
「たかが虫一匹で、大声出したのかよ?」
信じられんと言いたげに、牛木は目を丸くする。有森は有森で、「よく見つけられたなあ」とつぶやいていた。
「とにかく、おまえのばかでかい声のおかげで、有森は負けた。責任取れよな」
「どうやって」
「おまえからも、もう一回勝負しろって遠藤に言え」
傍らに立つ有森が「無茶な」と微苦笑をこぼす。
と、牛木が視線を戻し、「笑っている場合じゃないっ」と声を大にした。全身に力が入ったか、肩が震えていた。
「負けだと、俺達の班は修学旅行で荷物持ちだ。忘れてんのか?」
「覚えてる。でも、あいつが落ちずにゴールして、僕が落ちたのは事実だからなあ。どうしようもないんじゃないか」
「だから、その落ちたのは、大声にびっくりしたからだろってんだ」
片足で地面を踏み鳴らす牛木。同じ班の他の男児も、口々に不平を漏らした。
遠藤を見ると、俺の勝ちは動かないとばかり、腕組みをして、退屈そうに貧乏揺すり。
「ふーん」
伊之上は事態を飲み込めた風に息をつくと、てんとう虫二匹をタイヤから別の場所へ逃がしてやり、それから眼鏡の位置を直した。
「遠藤君。私からもお願い」
すいと近付いた伊之上に、遠藤は腕組みの姿勢のまま、反り返らざるを得なくなり、やがてバランスを崩した。よろめいて二、三歩後退し、腕組みを解く。
「な何だよっ」
「もう一回、勝負してあげて」
伊之上は小首を傾げてしなを作り、ウィンクまでした。
「どーしてだよ」
遠藤の反応の台詞は短くなりがちだ。その上、返事を聞かない内からそっぽを向いてしまった。
「分かってるくせにぃ」
今一歩接近し、手を取る伊之上。遠藤は火に触れたときみたいに、その手を引っ込めた。
「そりゃあもちろん、悪いのは私よ。けれど、私一人だと責任を取れない。だから、こうして頼んでいるの。お願い」
「……本当のこと言うと、俺はおまえの声、聞いてない」
「すごーい。集中してたんだ? それなら何遍やっても、きっと勝つわ」
「ででもなあ……班の連中のこともあるし、簡単には引き下がれねえな」
「そうよね。一回勝ったつもりなのに、また最初からやり直しなんて、馬鹿らしい。だったら、三本勝負の一本目ってことにならないかしら」
「三本勝負?」
「うん。遠藤君はあと一回勝てば終わり。有森君は二回勝たなくちゃだめ」
途中から、有森達の方にも目を向けた伊之上。本人にその気があるか否かは不明だが、なかなか交渉上手のようだ。
「それなら、まあ……」
遠藤が受け入れそうな素振りを示した。それを機に、有森も口を開く。
「こっちはそれで充分。やってくれるだけで助かるな」
「ね? 有森君もああ言ってるんだし、受けてあげてよ」
「うーん……」
「さっと受けたら格好いいわよ、男らしくて」
「そそうか」
話がまとまった。
昆虫がまた飛んで来ないよう、皆で厳重に注意する中、レースは続けられた。
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