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224話 神をも恐れぬ慈母

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褐色の肌、哀れなほどに痩せた子供が独り、初夏を想わせる蒼穹(そうきゅう)を仰ぐようにして、一面の向日葵(ヒマワリ)畑の真ん中に横たわっていた。

 この粗末な肌着のみの少年だが、辺りの萌える青い香りを乗せた、おおらかな風が流れてくるのも心地よく、もう少し微睡(まどろ)んでいたい、と再び目蓋(まぶた)を落とした。

 だが、一匹の小さな天道虫(てんとうむし)が、彼の額の上で這い回っては、羽根を広げて飛び立つような、そうでもないようなと、あんまり騒ぐので、つい平手を振って邪険にそれを追い払った。

「……うぅん。か、母さん……うぅう……」

 そう軽く唸りながら寝返りをうつと、二つの目蓋の隙間から二条の涙が真横に流れた。

「リ……イ……ロ……リロ、イ……」

 何者かを探し、喚(よ)ぶような、そんな幽(かす)かな声に少年はハッとして、ほとんど発作のように上半身を起こし、慌ただしく辺りを見回すが、無論、丈の高いヒマワリに囲まれているので、声の主を見つけることは叶わなかった。

「か、母さん!? ねぇ、母さんなの!?」

 遠いような、それでいてすぐ近いような、そんな奇妙な木霊(こだま)のような声には聞き覚えがあった。

 そうだ! ボクが、こ、この声を聞き間違えたりするもんか!

「母さんっ!! 母さぁん!! どこにいるの!? おーい! 母さぁーん!!」

 少年リロイは遂にすっかり立ち上がり、裸足でピョンピョンと跳ねて、必死になって声の主を探して喚く。

 すると、なんの前触れもなく、そのリロイの小さな双肩に、真後ろから両の手を乗せた者がいた。

「あぁリロイ……あたしはここだよ……リロイ、リロイや……あたしの愛し子」

「ッひゃあっ!!」

 当然、急に背後から抱きすくめられたリロイは激しく喫驚(きっきょう)して仰け反る。

「リロイ……あたしがどんなにお前に会いたかったか、わ、分かるかい?」

 リロイは母の声が震えているのと、自らの坊主頭に点々と何かの滴(しずく)が落ちて来るのを感じて奇妙に思い、抱きすくめられながらも、反射的に後ろを振り返ろうと身動(みじろ)ぐのだった。

「あぁリロイ、駄目。そればっかりは駄目なのよ。お前は決して振り返ってはいけないよ……」
 母親と思われるその謎の人物は、わずかにリロイにのし掛かるようして、何故(なぜ)だか彼の咄嗟(とっさ)の挙動を露骨に封じるのだった。

「え? な、なんで!? どうしてさ!!」
 リロイは謎の女の甘やかで温かな戒めの中で目を白黒させ、愛しい母の顔を一目見ようと生き生きと足掻(あが)くのだが、その彼を振り向かせまいとする抑止の力とは、決して苦痛ではないが、思いの外(ほか)強かった。

「リロイ……会いたかったよ、本当に、本当にぃ」

「あ、あぁ……う、うん……そりゃボクもだよ」

 こうなれば、か細いこの少年としては、ただ自分の腹の辺(あた)りで組まれた母の腕をじいっと見つめるだけしかできず、その小さな胸には、例えようのないほどの寂しさが去来して、暗雲の如(ごと)く膨らんでゆく。

「はぁ……はぁ、はぁ」

「え? 母さん? ど、どうしたの!?」
 少年は、背後の母親とおぼしき人物の浅い呼吸を耳にして、つい病人のそれを想った。

「……いや、だ、大丈夫だよ……。はぁ……それより、リロイ……よおく、お聞き……」

 自然、リロイは母の声音が絶え絶えなのに動揺して、自らを固定する腕を掴んで見下ろすが、その刹那、驚愕して痛いほどに眼を剥いた。

 なぜなら、そのつい今まで白く、ふくよかでさえあった女の腕二つが、なんと死人のような青白い細腕へと変貌しており、あまつさえ、その指先は彼の胴に食い込み、今や氷の冷たささえ伝えてくるではないか。

「ひゃあっ!! なっ! なにこれっ!!」

「はぁ……はぁ……あ、あんまり時間が、ないみたいだね。あたしゃ、決して信心深い方でもなかったから、ね。
 あぁリロイや、こんな母さんが怖いだろうけど……後生だから、よおくお聞き……」

 先程からして、なにかを必死に懇願するような母の声にも、リロイの恐慌はいやましに拡大するばかりだ。

 なぜなら、その女の奇怪なる変貌は、ダラリと提(さ)げた双腕のみならず、その声音さえもが、ただただ擦過音ばかりが耳障りな、まるで枯れ果てた老婆の嗄(しゃが)れ声にしか聞こえなかったから──

「母さん!? ど、どうしたの!?」

 リロイは未だかつて味わったこともない、禍々(まがまか)しき恐怖のどん底に叩き落とされ、即座に眩暈(めまい)に蹂躙され、襲いくる激しい動悸に胸が、いや喉まで痛くなってきていた。
 
 そして見渡せば、いつの間にか辺りはすっかり暗い、とっぷりとした不気味な逢魔時(おうまがとき)と化しており、あんなに生命力に充ちていた向日葵達も、煮すぎて駄目になったホウレン草のおひたしのごとく、しおしおに枯れ崩れ、噎(む)せかえるほどに露骨な腐臭すら放ってくるではないか。

 またそれに加え、リロイは自身の鼻を刺激する、ある酷い臭気に襲われていた。

(うわっ、く、くさいっ!! なんだこれ!?)

 それは間違いなく彼の背後から漂い流れてきており、その凄絶なる悪臭に、リロイは胸が悪くなり、顎が痺れるような吐き気すら催した。

(うわぁっ!! これ、これって、前に納屋で遊んでいたときに見つけた、あの可哀想なネズミの死骸、そうだ! あのとき嗅いだすごい臭いだ! で、でも、なんで母さんからこんな臭いが!?)

 いよいよ哀れなほどに、ガタガタと震え、極限まで混乱するリロイを余所(よそ)に、後ろの女は、手前勝手かつ絶え絶えに幽かな言葉を紡ぐのだった。

「リ、リロイや、お前はね、まだまだこっちに来るべきではないんだよ……」

 最早思考は散々に乱れ、狂乱の果てに絶望したような、そんなリロイの耳には、その言葉の意図など一言半句も届かなかったに違いなかっただろう。

「よぉくお聞きリロイ……お前はまだ生きて、生きて……そう、生き抜いて、○○○様をお助けするんだ、よ……
 あぁリロイ、リロイや。お前を死の淵からお救いくださるあのお方に、きっと、きっ、と、これを渡しておくれ……」

 今や息子と同じほどに痙攣する女が、さも億劫そうに少年の顔前に上げる、その食屍鬼グールのごとき手には、確かに煌めくような何かが握られていた。

「リロイ、頼んだよぉ……。母さんのことなんか忘れたって、か、構やしないんだ、よ。それより、そんなことより、○○○様に、きっと……きっとこれを……これ、を……お捧げするんだよ……」
 その声は、今にも掠(かす)れて消え入りそうに薄弱だった。
 だが、どんなに変貌しようとて、たった一人の愛する母。その声に狂おしき遺言の風を感じたリロイの中で、今や恐怖などというモノは木っ端微塵に弾けて飛んだ。

「いやだっ!! いやだよ母さん!! そんな、そんなお別れみたいなこと言わないでッ!!」
 リロイは、自らを包む冷たい木乃伊(ミイラ)の戒めが、唐突に失せて消えたのをきっかけに、大粒の涙を振り撒(ま)くようにして振り返った。

 ──だが、最早そこには母親の面影はなく、白い、夜目にも真っ白い灰のような粉が、すべてが怨めしいように漂い、そして降っている。
 ただ、ただそれだけだった──

「か、母さぁあぁんっ!!」
 独りにもどった少年は、堪らず、嗚咽の遠吠えのように、もう一度だけ大きく叫んだ。

 すると突如、瞼(まぶた)を固く閉じてもムダなほどの鮮烈なる乳白色の光が少年リロイを包んだ。

 そうして、顔前に両掌を開いたまま仰け反り、随分と長い間(リロイとしては)、茫然と固まっていると、なにか身体の真ん中辺りから、奇妙な気力、いや、恐ろしく爽やかな活力が湧いてくるのを覚えたので、これは何事か、と、つい再び濡れそぼる目蓋を開けると──

 ふと、なにやら、彼を見下ろすような、人らしきものが見える。

 よくよく視れば、それは、潤んだ鳶色(とびいろ)の瞳を露骨な好奇心で輝かせる、ひどく小柄な、サフラン色のローブを纏った、愛らしい若い女であった。

「いやぁ中々に危ないとこでしたねー、隊長さん。でも、きっともう安心ですよ。
 エヘ、こう見えて私、神聖治療魔法にはちょーっと自信がありますから。
 そそそ、それより、そのガントレットの手のひらにある、ピカピカーッと光るソレってなんなんですかね? 
 私の治療が完了した辺りで、突然あなたの手の中に現れたような……。
 ふぁあっー! スッゴく、スッゴく興味深いですねー!
 て、あえっ! い、いけない! 早く戻らなきゃ!!」
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