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207話 スリの懐からスルみたいな

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 そこは石造りのガランとした、だだっ広い部屋で、汗の臭いが染み付いた多種多様な防具類が四隅の棚に整然と飾られていた。

「へぇー、ココが調練室かい。しっかし、地面をくりぬいて、こんだけの部屋をこさえるとは、サスガは大都会ブルカノンってーとこかい」
 瞳をキラキラと輝かせるマリーナが、ホール全体を隅々まで見渡し、心底感心したように言った。
 
 この一辺が30メートル超の四角い空間には、すでに多くの灯火が点(とも)され、流石に"真昼のように"とまではいかないが、格闘訓練などを行うには充分過ぎるほどの光量が確保されていた。

 そして、そこの中央の床には、朱塗りの半径五メートルほどの円が描かれ、更にその中心にはサフラン色のローブをミニスカートのごとく大胆にアレンジしたユリア、そして真紅と漆黒のパーツが毒々しい、染め革の軽装のトーネとが対峙していた。

「あのさ、もう遅いからどこも店じまいでさ、あんまり贅沢は言えなかったよ」
 マリーナは無造作に左右に掴んだ髑髏(ドクロ)、いや飾り気のないツルリとした銅の兜をシャンに掲げた。

「あぁ。ご苦労だったな、渡してやってくれ」
 シャンは二人の女格闘家に熱い視線を送りながら、貫頭型マスクの顎をしゃくった。

「うん」

 マリーナは言われるままに、大股でズカズカと部屋の中央へと歩み、そこのユリア達に「ほいっ」と兜を差し出した。

「え!?あぁ、ありがとうございます、って、いやいやいやっ!なんで私がこんなモノを被らないといけないんですか!!?」
 ユリアは抗議するように小さな両掌でそれを押し退(の)ける。

「えっ?なんでって、そぉら新品じゃないと汗臭いでしょ?」
 
「フフフ……中々気が利くじゃあないか。でもねえ、折角のソレも出番なしだね」
 黄色い瞳に茶金色の兜を映しながらトーネが言った。

「えー?……クンクン。んん、まぁ多少銅の臭いはすっけど、んなに気になるほどじゃあないよ?」
 マリーナはヘルメットに鼻先を突っ込んでから怪訝な顔で小首を傾げた。

「あははは。そーじゃない、そーじゃあないんだよ。
 今日はね、ちょいと此方(こちら)さんの技を見てみたいってえだけで、そこまでお膳立てしてもらうほどの大袈裟な取っ組み合いにまではならないんじゃあ、てねえ」

「んはぁっ!そそそ、そうですよねっ!?ウンウン!そーそー!なにか食後の運動、みたいな?ウンウン!ホントかるーくお手合わせって感じですもんねー!?」
 ユリアはホッと安堵して、一気に捲し立てた。

「フフフ……そうそう。あのねお嬢ちゃん、さっきから何度も言ってるけど、こりゃ断じて"命の獲り合い"なんかじゃあなくて、言ってみりゃほんのかるーい腹ごなしみたいなモンさね。
 だから、お願いだからそんなに怯えないでおくれよ。
 そんなまんまじゃあ、肝心の"究極のアレ"が出てこなくなっちまうよ?」
 妖艶に微笑んでうなずくトーネだったが、その瞳には、ここで会ったが百年目の不倶戴天の仇を見るような、混じりっ気なしの殺意の炎が燃え盛っていた。

「そ、そっか……そ、そーゆうことなら、最近ちょっとだけ、お尻が大きくなってきた気もするので、よ、宜しくお願いしまーす」
 まさに不承不承といった具合でユリアがうなずき、マリーナから、つんつるてんの兜を受け取り、なんとも云えぬ眼で数瞬眺めてから、カポンと引っ被った。

「あー、あたしゃ結構。じゃ、早速と始めておくれよ」
 トーネは飽くまで兜を固辞し、ただゆっくりと腕組みを解いた。

「……うん。では今宵の一戦の勝敗だが、どちらかが戦闘不能に陥るか、或いは明確な降伏宣言によってのみ、その決着としようか。
 また、もしもの場合にも、脱臼程度ならこの私とマリーナが速やかに手当てにあたるし、またここにいる助手の二名は神聖治療魔法を得意とするので、対戦者のお二人にはどうか心置きなく闘って貰いたい」

 と、小躍りしたいのを必死で圧し殺したようなシャンにより、端的にルールと応急措置の解説とがなされた。

「プフッ!ウフフ……戦闘不能て、ホンットに大袈裟なんだからー。
 よーし!じゃあ何卒、お手柔らかにお願いしまーす!
 エヘヘ!でもでも、こー見えて私ったら意外と強いみたいですからー、貴女の方も出し惜しみなんてしないで、初めっから得意な技をバンバン出した方がいいかもですよー?なーんて!ウフフフフ」
 徐々に地を晒し始めたユリアは、早くも自分とさして変わらぬ背丈のスパーリング相手を軽視し始め、微妙に煽ってさえみせるのだった。

「頑張ってくださーい!」
 ユリアの秘匿された恐るべき実力に信頼をよせるアンとビスらの声援も飛ぶ。

「んよーし!じゃあ戦闘!開始ぃっ!!」
 マリーナが一声喚いて、いよいよ試合が始まった。

 さて、この二名の振るう、世にも特殊な格闘術のメカニズムからして、お互いが相手の先手を待ち合うという、まずまず膠着ありきの試合運びが予想されたのだが──

 なんと、開幕直後に出し抜けにトーネが動き、その小柄な姿が消えた。

「あえっ!?」

 まさしく虚を衝かれたユリアは、その忽然とした消失に眼をむいた。

 スパーンッ!! 

 その疾風となったトーネは、殆んど瞬間移動のごとくユリアの背後に回り込んでおり、そこの尻を思い切り叩いたのである。

「っひゃあっ!!」

 と、目玉が飛び出るほどに喫驚し、思わず仰け反って叫んだユリアだったが、その刹那、その小さな身体はグーッと天井方向へと伸びた。

 見れば、再び目にも止まらぬ迅雷の速さで駆けたトーネがユリアの正面下にて、やや屈んだ形で現れたかと想うと、そこから突き上げるように出した左の手で、ユリアの首根っこを掴み、それを真上へと掲げたのである。

「グッ!グウゥゥゥッ!!」

 何が起きたのかまったく把握出来ず、突然、信じられないような剛力にて絞め上げられたユリアは、堪らずトーネの手首を掴んでもがく。

「……あれ、もう仕舞いだよ……本当につまんない娘だねえ……」
 トーネが下から呆れ果てたように言った。

「うわっ!速っ!!ちょ、ちょっとー!あの人タダモンじゃないよ!
 ひゃーっ!!あれじゃーまるでカミラーだよ!!」
 
「うん……確かに驚異的な身のこなしだな。だが、あれでも、まだまだ小手調べだろう……。
 フフフ……暴力の化身ユリアよ、ここからどうひっくり返す?」

「あらあら」

「まあまあ」

 と、皆が固唾を飲んで見守る中、当のユリアの顔面は急速に真っ赤に染まってゆく。

「ッヒグッ!ヒグッ!」

「ハァ……さあて、お調子者のお嬢ちゃんには、ちょいとお仕置きが必要だねえ」

 酸素を求めて身も世もなく悶え、暴れるユリアの軽さに拍子抜けし、また真底落胆したトーネは、容赦のない喉絞めはそのままに、ゆっくりとユリアを降下させながら、空いた右腕を上げる。

 そして今や赤黒く鬱血した顔、その充血した目の端から涙を流すユリアの頬に、屈辱の往復ビンタを振るうのだった。

 だが──

 トーネが右腕を二度、三度と振る度に聴こえてくるのは、頬面を叩くあのビンタ特有の軽快な音(サウンド)とはまた随分とかけ離れた、ペチャ、パチャとかいう、なんとも間抜けな音ばかりである。

「──へぇー……やあるもんだ……ねえ」

 トーネは自らの右腕の先、その手首辺りを見ながら感心したように言った。

 あっ!と皆が見ると、その手首から先は甲の方へと折れ曲がり、そこで寒天か水風船のように、ブラブラと力無く揺れていた。

「えっ!?あ、あの人!て、手首の骨が外れてる!?
 ア、アハッ!アハハ……ア、アレッてさ、さっきのユリアが尻を叩かれながらやっちまったのかい!?
 オホッ!!コイツァ……コイツァスゴイ!スゴイよーっ!!アッハハッ!!」
 天晴れとマリーナが頭上で手を打ち鳴らす。

 その傍らのシャンは、ただ眼を細め、一見すると冷徹に黙然と勝負を見守っているだけのようにみえるが、その実、ユリアの恐るべきカウンターに腹の中で唸り、また全身には粟を立てていた。

「フフフ……驚いたねえ、こりゃ間違いなく、正真正銘"閂毀(かんぬきこぼし)"だよ……まったく、どこでどう覚えたんだい?
 こりゃあ俄然、愉しくなってきたねえ……」

 敵もさるもの、とばかりに余裕綽々(しゃくしゃく)と宣(のたま)ったトーネだったが、彼女も正直なところ驚愕し、その身には胴震いをさえ覚えていた。

 この修羅の一族で云うところの"閂毀(かんぬきこぼし)"とは、あらゆる技の中でも、ぶっちぎり最上級の超絶的難度を誇り、まさしく最終の秘奥義と呼ぶに相応しい究極の魔技であった。

 それをなんと、このちっぽけなユリアは、その奥義を体得した、技の仕組みを知っているとか、知っていないとかいう、断じてそういった次元ではない"正統継承者"相手に、それもまったく気取られずに確(しか)と極(キ)めてみせたのである。

 ゴクリと生唾を飲んだトーネは、外された利き腕のリストを戻す為、仕方なしに左手のユリアを解放し、無造作に床へと放った。

 受け身もなく倒れ付したユリアは、しばし死ぬほど咳き込みながらボロボロと涙の雨を落とした。

「ゴホゴホッ!!ばはぁっ!!……はぁ……はぁ……っはぁー!!
 し、し、し、死ぬかと思ったぁ──」

 白い右手首から嫌な音を発しつつ、ユリアを見下ろすトーネは、死人のごとく青ざめた顔で、この小娘の溢れる出る熱い血潮でしか、この大いなる恥辱をそそぐことは出来ない、と、そう念じるように強く想っていた。
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