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80話 ときに、精神は肉体まで変えるらしい
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狼犬のライカンスロープ、その双子の姉妹アンとビスは、華奢な身体を小刻みに震わせ、シャンの深紫に染め上げたレザーアーマー。
その飽くまでスレンダーな身体にフィットした、襟の高い、光沢のある、随所がプロテクターのような造りと隆起を見せる背中を見つめた。
そして、この女アサシンの体内の銀狼の血に呼応するように、二人の狼犬の血は嵐の叢(くさむら)のごとく、ザワザワと揺れ騒ぎ、この漆黒の髪を結い上げたシャンが味方であることは分かっていても、圧倒されるような畏怖と戦慄が二人の全身を駆け巡り、鋼鉄の六角棒にすがり付き、なんとかこの場に立っているのがやっとであった。
褐色の肌の姉が打ち合う歯を噛み締め、クッと食い縛ったままの幾分くぐもった声音で
「す、凄いね……。シャン様」
それにプラチナの頭髪が頬の辺りで内巻きとなったショートボブ、雪の肌の妹が同じ声音で
「う、うん。まだお若いのに、千年樹のような風格をお持ちだね。
きっと相手が魔界の住人であろうと、私達のような者の加勢なんか不用だろうね……。
この間の精神魔法から戻られ、一番お変りになられたのはシャン様ではないかしら。
ただ……シャン様、魔界の病毒の牙をどういなされるのか、それだけが心配だね」
アンもビスも、決戦を前に覚醒した神祖銀狼の血を全身で感じ、無意識的、かつ強制的に同調の獣人深化を興されそうであったが、フリルカチューシャの上、頭頂のドーベルマンみたいな犬耳を伏せ、震えながらもなんとか堪えていた。
だがそれでも、そのブルーグレイの双眸だけは人間らしい光を放つのを止めていた。
地獄の悪魔じみた風貌のラバルトゥは、ダンディズムとナルシズムの入り交じったような独特の雰囲気・佇まいで
「フム、キミハ何かのライカンスロープだナ。ソレもかなり、いやとてつもなく純度の高イナニカ……。
ウム、コレハ我輩からノ提案だガ、このようナ座興じみタ格闘ハ止めにシテ、リュージャン様ノ元で働く気はナイカネ?
少し磨けバ使えそうダヨ、キミ」
そう言って胸元の鈴なりのネックレスをかき分けて、深紅に濡れそぼる手で懐から銀色の封筒らしきものを出し、人差し指と中指の間に挟んで、キザなマジシャンのごとく、婉麗(えんれい)しなやかに手首を捻ってシャンに向けた。
やはり不思議なのは、そのシワのない銀紙封筒が、乾燥して固まる寸前のテンパリング中のフォンダンチョコみたいな、弛(ゆる)い血液らしきもののコーティングにより、少しも汚されていない所であった。
奇妙な魔界スカウトに聖女が何かを言おうと、ツイと金仮面を上げ、額の大ぶりなエメラルドを輝かせたとき
「イヤイヤ、使役者殿。コレハ冗談冗談。我輩も魔界の名士のはしクレ。勿論、契約ノ仕事を優先させルヨ。
デハ、マドモアゼル、ホットナ殺しアイを始めようデワないカ」
そう言ってナルシズムたっぷりに手首を返し、二本指で銀封筒を掲げると、それは瞬く間に緑の炎に包まれ、ボウッ!と音を立てて煙もなく焼失した。
その陳腐なマジックを映したシャンの瞳は殺伐とした光を湛え、マスクの下も無感情なままだった。
だが、ラバルトゥの姿の変化には気付いていた。
その背中からは、キラキラ生地の純黒法衣を突き破り、粘液にまみれた、赤褐色の八ツ目鰻(うなぎ)のような、巨大な蛭(ヒル)のごとき、パイプのような血管が絡み付く、飽くまで有機的な、腸管のようなものが無数に鎌首をもたげ、ラバルトゥの薄い肩、背中越しになついた毒蛇のごとく、その両肩の上、わきの下からギザギザとした微細な牙の口を開き、声のない大合唱を浴びせていた。
シャンはそれらのグロテスクな肉の管等に次いで、そのままラバルトゥの破れかぶれのローブの足元、その黄金砂漠がブルーチーズのカビみたいな、毒々しいグリーンに変色しているのにも気付いた。
どうやら、すでに魔界の病毒というやつは肉の管から排出・噴出されており、その足元の砂金は溶け合い始め、瞬く間にぬかるんだ緑地に成り果て、七色の油膜みたいな泡を膨らませ、ピチ、プチとその無数の泡を弾けさせて、煮たつようにして腐れていた。
その七メートル四方の淡い緑の陽炎(かげろう)の揺れる、極めて不潔な領域は、完全に汚らわしき病毒腐食の爆心地になっていた。
それを認めたシャンは、慌ててマスクの口を押さえて後退したかというと、その真逆で、その腐った地に紫のブーツで平然と分け入り、少し駆けて跳躍し、両手のアサシンダガーを振るって、ラバルトゥの水晶のごとき頭部と首筋、そして両肩の辺りを裂くように斬った。
その斬撃の衝撃に、ミイラみたいに痩せた身体は流され、平手打ちの往復を喰らったみたいに、左右に強制的なイヤイヤをさせられたラバルトゥは、微細なヒビで白く濁った顔で
「ナッ!ナンだトォ!?待テ待テ!シャンクン!キ、キミ、ナゼ動けル!?
スデニ病毒ノ、"苦蓬(にがよもぎ)の煤(すす)"ハ存分二撒かれたハズ。
キミ、ナゼ潰瘍(かいよう)と壊疽(えそ)にまみれナイ!?
ナゼ、鼻ハ溶け崩レ、目玉ハ半熟卵ノ垂れルがごときニ下がっていないノダ!!?」
魔人は、得意のおぞましき死の病毒に打たれた筈の健全な人間の女に、明らかに動揺、いや狼狽していた。
そして、そのダメージは精神のみに止まらず、その真っ赤な掌で押さえた、水晶のごとき頬、その蜘蛛の巣みたいな白いヒビは、グラスの氷に紫色の酒を垂らしたように、部分的に色ガラスのごとく染まっていき、そのクレバスの深部は虫歯のように黒ずんでいた。
どうやら、魔界の住人にも、シャンの里の秘伝の毒は有効であるようだ。
シャンは幽(かす)かに煙る、腐れと穢(けが)れの地にすっくと立ち、二段ベルトの細腰の前で優雅に腕をクロスさせ、一旦、二匹のアサシンダガーを鞘に戻し、そのケルベロスの牙を鞘内の毒液に浸していた。
これには後ずさる上級神官達、全長150メートルの長大なエスカレーター前の女勇者達も目を剥いて驚愕していた。
女戦士は、そこが病毒の感染エリアでもないのに、苦い顔で咳き込んで見せ
「シャン!ア、アンタ!だ、大丈夫なのかい?
ちょっとそのままそのままー!終わるまで絶対息しちゃダメだよー!
でもよかったねぇ。何かアンタの毒は効いてるみたいだから今がチャンスだよー!」
と一応は応援なのか、口に手をあてて叫んだ。
シャンは僅かにうなずき、また抜刀し
「ウフフフフ……私はすでに空(くう)になり、無となっている。
無になったものは、正しく無だ。それ以外の何ものでもない。
だから、私はもう、病毒が効くとか効かないとか、そういう次元にはいないのだ。
もっと分かりやすく言おうか?この宇宙の物質は、元々全てが一つ。
この病毒の風も、葡萄酒も、星も雲も……。
そして、お前も私もな……。ウフフフフ……。ただ、それさえ悟ればいい」
と、どこからつっこんでよいのやら、心底、訳の分からぬことを宣(のたま)い、水晶髑髏の魔人ににじりよる。
聖女コーサは、正しく沈思黙考でこの戦闘を静観していたが、やおら上級神官達の方を向き
「アタナシウス。この緑の中に入りなさい」
と、世にも恐ろしい命令を下した。
天空の巨大モニターに、この凄絶なる死闘を映すアロサスの向かいに立っていた、腹部を越えて垂れる長い顎髭、白髪の真ん中分けと、姿形もそっくりなアタナシウスは、ギョッとして
「なんと、聖女様。私を試金石に、この病毒をお確かめになりたいと、こう申されるか?」
聖女コーサは鷹揚に首肯し
「そうです。この女が平然としているところを見ると、金を腐蝕させるだけのさして有害な病ではないのかも知れません。
先程の雌蜥蜴(おんな)と同じく、魔界の疾病が見かけ倒しなのか、アタナシウス。あなたがその中に立って確かめるのです。
なに、もしも苦痛を覚えたならば、即、私が能えた防壁魔法で身を包めばよいではありませんか」
アタナシウス老は、ゴクリと喉を鳴らし、白髭まで揺らして
「で、ですが、もしも、その……万が一恐ろしい病毒であった場合……」
コーサは、イライラを沈めるよにう、金仮面の額を押さえ、中指でそこをテツテツ、コツコツと叩き
「それは大丈夫でしょう。その女を見なさい。少しでもただれや吹き出物がありますか?
良いでしょう。あなたが、そこの場に数呼吸の間立てば、信徒の中から選りすぐりの美なる少女、いえ、あなたの趣味からすると女児でしたか……。
その汚れなき乙女を新たに二人、従僕として与えます」
それを聴いたアタナシウスの老醜の顔面には、パッと喜色が湧いた。
「そ、それは誠ですか!?で、では……あ、あのー……。あ、あそこに立っている、世にも美しい子供を下され!
あの桃色の甲冑の幼き者を!」
歓喜に震える染みだらけの皺手で、腕を組んで立っている、眉目秀麗な不死王女カミラーを指した。
コーサは仮面の下で、うんざりした顔になり
「良いでしょう、好きにしなさい。そこから十数歩、ただ歩むだけで、あの娘はあなたのものです。
あなたの寝所でもどこでも身の世話をさせなさい」
「はっ!では聖女のお気の変わらぬ内に!」
とアタナシウス老は好色そうに顔を歪め、小躍りするように歩み、防衛(バリアー)呪文を唱えつつ穢れた地に向かったのである。
片翼、片角の水晶頭の魔人はコーサの方を向き
「使役者殿。我輩ヲ疑っテおられるノカ?
この病毒ハ、我輩ノ有スル最高峰の術デアリマスゾ?」
魔界の名士に名を連ねる、この俺の顔に泥を塗る気か?という想いで、ヒビ割れ、紫に変色した、すでにその顔に塗られた毒を撫でた。
それに聖女コーサは「では訊きますが、なぜその最高峰で、その女が倒れないのです?」と応えず、代わりにシャンが
「老神官よ、止めておけ。多分、お前にはまだ早い」
と、雀躍(こおど)りの老醜へ忠告した。
アタナシウスは殆どスキップで、ウキウキと歩みつつ、とろけそうな顔で、カミラーを熱っぽく見ていたが
「うるさい!ヒヨッ子餓鬼娘のお前に出来て、この歳まで肉体、精神のあらゆる修養・修行を積んだワシに出来んことがあるか!!
では、聖女様!今ぞ、確かにこのアタナシウスが参りますぞぉ!
グフフフフ……皆には何か悪いのお。
おい、少しでもワシの身に何かあれば回復呪文を頼んだぞ!?グフフフフ……」
仲間か兄弟か、遠巻きに眺める者達へと後方支援・応急手当を頼みつつ、少女趣味全開の変態好色老人は、黄金の砂地から緑の腐地に迫った。
流石に最初は恐る恐ると、その右足を境界線の先へ伸ばし、老人特有の猛禽類のごとき厚く白い爪の爪先で、黄金から変色した緑のヘドロを、ペチョペチョッと突っつき、気色悪そうな顔で天井を見上げるように左右を睨み、なにかしらの反応が現れるまでそこで少し待った。
だが、特に裸足の足裏には痒みも痛みも感じられなかったので、うむうむと幾度もうなずき
「うん。な、なんともないわぃ。あの餓鬼女のアサシンが何ともないのじゃから、当たり前といえば当たり前か……。
やれやれ、忽(たちま)ちに肉を腐らせる猛毒疾病のごとくに騒ぎ立ておって」
そう呟(つぶや)き、呆れ顔で魔人ラバルトゥを蔑(さげす)みの目で、ジロリと一瞥(いちべつ)して
「フンッ!この役立たずめ、何しに来おったか」
と吐き捨てるように言い、二歩、三歩と進み……。
「さて、ここいらで数呼吸ほど立つか」と立ち位置を定めた辺り、その四歩目で突然、ドッ!!と緑地に両の肘手をついた。
「んん?こいつは砂金が腐蝕し、ちょっとした沼になったようだの。
どれ、深いところにでも埋もれてしもうたか?」
と何気なく後方をうかがうと、そこには、何やら白い光沢のある布。
それと、プッチョッ!プッチョッ!と粘(ねば)い泡を弾けさせ、緑の地にグズグズになっている汚い水溜まりがあって、そこに数本の白い棒が見えたが、それも直ぐに端から白い煙を上げ、見る間に黒ずみ、溶け崩れて緑の汚物溜まりへと沈んだ。
アタナシウスは、それを特に気にもせず、沼のポケットから身体を引き抜こうとした。 が、今度は首まで漬かってしまった。
老人は皆の注目を浴び、気恥ずかしいのもあって、照れた笑いで、遠くに立っている、少し前より恋い焦がれた女バンパイアを見上げたが、そのピンクの盛り髪の美しい幼女にしか見えない者は恥ずかしいのか、それとも頭痛でもしたか、抜けるように白い額をガントレットの手で押さえている。
「フホホホ。ういやつだの。乙女とはそうでなくてはのぅ。
グフフフフ……今宵から毎晩、夜が明けるまでその白き幼い肢体を愛でてやるからな。
いやいや、これぞ役得、やくとく……ヤクトク……や、く……と……」
もうそこには老醜の姿はなく、肩も脛骨も頭蓋骨も溶け果て、穢(きたな)い緑の水溜まりに、剥き出しの灰色の脳が、ブクブクと泡を膨らませているだけであった。
シャンはそれを、平原を越え、谷へと追い詰めた獲物の鹿が、その持ち前の健脚に得意になって岩山を駆け上がったものの、つい蹄(ひずめ)を滑らせ、遥か崖下へと転落・落下し、その底で横倒しになって震えつつ、黒い鼻孔と上下がずれた顎の口腔から、こんこんと黒っぽい血液が溢れ出るのを、崖上から覗き見た狼のような、鋭くも哀しい黄色い目で見下ろし
「アタナシウスとやら、私は止めたからな。
まぁ最期に、お前なりに甘い夢が見れたようで、そこのところはせめてもの救いだった、といえんこともないか」
玉座の寝椅子上の聖女は、質屋に安物の時計を持って行き、それが期待以上でも以下でもなく、正に予想していた思った通りの小銭・小額にしかならなかったのに、ただ短く「じゃ、それで」と言う貧乏学生のようにタメ息を吐き、つるりとした黄金の額を右手で覆い、その薬指でマーキスカットのエメラルドを撫でた。
その飽くまでスレンダーな身体にフィットした、襟の高い、光沢のある、随所がプロテクターのような造りと隆起を見せる背中を見つめた。
そして、この女アサシンの体内の銀狼の血に呼応するように、二人の狼犬の血は嵐の叢(くさむら)のごとく、ザワザワと揺れ騒ぎ、この漆黒の髪を結い上げたシャンが味方であることは分かっていても、圧倒されるような畏怖と戦慄が二人の全身を駆け巡り、鋼鉄の六角棒にすがり付き、なんとかこの場に立っているのがやっとであった。
褐色の肌の姉が打ち合う歯を噛み締め、クッと食い縛ったままの幾分くぐもった声音で
「す、凄いね……。シャン様」
それにプラチナの頭髪が頬の辺りで内巻きとなったショートボブ、雪の肌の妹が同じ声音で
「う、うん。まだお若いのに、千年樹のような風格をお持ちだね。
きっと相手が魔界の住人であろうと、私達のような者の加勢なんか不用だろうね……。
この間の精神魔法から戻られ、一番お変りになられたのはシャン様ではないかしら。
ただ……シャン様、魔界の病毒の牙をどういなされるのか、それだけが心配だね」
アンもビスも、決戦を前に覚醒した神祖銀狼の血を全身で感じ、無意識的、かつ強制的に同調の獣人深化を興されそうであったが、フリルカチューシャの上、頭頂のドーベルマンみたいな犬耳を伏せ、震えながらもなんとか堪えていた。
だがそれでも、そのブルーグレイの双眸だけは人間らしい光を放つのを止めていた。
地獄の悪魔じみた風貌のラバルトゥは、ダンディズムとナルシズムの入り交じったような独特の雰囲気・佇まいで
「フム、キミハ何かのライカンスロープだナ。ソレもかなり、いやとてつもなく純度の高イナニカ……。
ウム、コレハ我輩からノ提案だガ、このようナ座興じみタ格闘ハ止めにシテ、リュージャン様ノ元で働く気はナイカネ?
少し磨けバ使えそうダヨ、キミ」
そう言って胸元の鈴なりのネックレスをかき分けて、深紅に濡れそぼる手で懐から銀色の封筒らしきものを出し、人差し指と中指の間に挟んで、キザなマジシャンのごとく、婉麗(えんれい)しなやかに手首を捻ってシャンに向けた。
やはり不思議なのは、そのシワのない銀紙封筒が、乾燥して固まる寸前のテンパリング中のフォンダンチョコみたいな、弛(ゆる)い血液らしきもののコーティングにより、少しも汚されていない所であった。
奇妙な魔界スカウトに聖女が何かを言おうと、ツイと金仮面を上げ、額の大ぶりなエメラルドを輝かせたとき
「イヤイヤ、使役者殿。コレハ冗談冗談。我輩も魔界の名士のはしクレ。勿論、契約ノ仕事を優先させルヨ。
デハ、マドモアゼル、ホットナ殺しアイを始めようデワないカ」
そう言ってナルシズムたっぷりに手首を返し、二本指で銀封筒を掲げると、それは瞬く間に緑の炎に包まれ、ボウッ!と音を立てて煙もなく焼失した。
その陳腐なマジックを映したシャンの瞳は殺伐とした光を湛え、マスクの下も無感情なままだった。
だが、ラバルトゥの姿の変化には気付いていた。
その背中からは、キラキラ生地の純黒法衣を突き破り、粘液にまみれた、赤褐色の八ツ目鰻(うなぎ)のような、巨大な蛭(ヒル)のごとき、パイプのような血管が絡み付く、飽くまで有機的な、腸管のようなものが無数に鎌首をもたげ、ラバルトゥの薄い肩、背中越しになついた毒蛇のごとく、その両肩の上、わきの下からギザギザとした微細な牙の口を開き、声のない大合唱を浴びせていた。
シャンはそれらのグロテスクな肉の管等に次いで、そのままラバルトゥの破れかぶれのローブの足元、その黄金砂漠がブルーチーズのカビみたいな、毒々しいグリーンに変色しているのにも気付いた。
どうやら、すでに魔界の病毒というやつは肉の管から排出・噴出されており、その足元の砂金は溶け合い始め、瞬く間にぬかるんだ緑地に成り果て、七色の油膜みたいな泡を膨らませ、ピチ、プチとその無数の泡を弾けさせて、煮たつようにして腐れていた。
その七メートル四方の淡い緑の陽炎(かげろう)の揺れる、極めて不潔な領域は、完全に汚らわしき病毒腐食の爆心地になっていた。
それを認めたシャンは、慌ててマスクの口を押さえて後退したかというと、その真逆で、その腐った地に紫のブーツで平然と分け入り、少し駆けて跳躍し、両手のアサシンダガーを振るって、ラバルトゥの水晶のごとき頭部と首筋、そして両肩の辺りを裂くように斬った。
その斬撃の衝撃に、ミイラみたいに痩せた身体は流され、平手打ちの往復を喰らったみたいに、左右に強制的なイヤイヤをさせられたラバルトゥは、微細なヒビで白く濁った顔で
「ナッ!ナンだトォ!?待テ待テ!シャンクン!キ、キミ、ナゼ動けル!?
スデニ病毒ノ、"苦蓬(にがよもぎ)の煤(すす)"ハ存分二撒かれたハズ。
キミ、ナゼ潰瘍(かいよう)と壊疽(えそ)にまみれナイ!?
ナゼ、鼻ハ溶け崩レ、目玉ハ半熟卵ノ垂れルがごときニ下がっていないノダ!!?」
魔人は、得意のおぞましき死の病毒に打たれた筈の健全な人間の女に、明らかに動揺、いや狼狽していた。
そして、そのダメージは精神のみに止まらず、その真っ赤な掌で押さえた、水晶のごとき頬、その蜘蛛の巣みたいな白いヒビは、グラスの氷に紫色の酒を垂らしたように、部分的に色ガラスのごとく染まっていき、そのクレバスの深部は虫歯のように黒ずんでいた。
どうやら、魔界の住人にも、シャンの里の秘伝の毒は有効であるようだ。
シャンは幽(かす)かに煙る、腐れと穢(けが)れの地にすっくと立ち、二段ベルトの細腰の前で優雅に腕をクロスさせ、一旦、二匹のアサシンダガーを鞘に戻し、そのケルベロスの牙を鞘内の毒液に浸していた。
これには後ずさる上級神官達、全長150メートルの長大なエスカレーター前の女勇者達も目を剥いて驚愕していた。
女戦士は、そこが病毒の感染エリアでもないのに、苦い顔で咳き込んで見せ
「シャン!ア、アンタ!だ、大丈夫なのかい?
ちょっとそのままそのままー!終わるまで絶対息しちゃダメだよー!
でもよかったねぇ。何かアンタの毒は効いてるみたいだから今がチャンスだよー!」
と一応は応援なのか、口に手をあてて叫んだ。
シャンは僅かにうなずき、また抜刀し
「ウフフフフ……私はすでに空(くう)になり、無となっている。
無になったものは、正しく無だ。それ以外の何ものでもない。
だから、私はもう、病毒が効くとか効かないとか、そういう次元にはいないのだ。
もっと分かりやすく言おうか?この宇宙の物質は、元々全てが一つ。
この病毒の風も、葡萄酒も、星も雲も……。
そして、お前も私もな……。ウフフフフ……。ただ、それさえ悟ればいい」
と、どこからつっこんでよいのやら、心底、訳の分からぬことを宣(のたま)い、水晶髑髏の魔人ににじりよる。
聖女コーサは、正しく沈思黙考でこの戦闘を静観していたが、やおら上級神官達の方を向き
「アタナシウス。この緑の中に入りなさい」
と、世にも恐ろしい命令を下した。
天空の巨大モニターに、この凄絶なる死闘を映すアロサスの向かいに立っていた、腹部を越えて垂れる長い顎髭、白髪の真ん中分けと、姿形もそっくりなアタナシウスは、ギョッとして
「なんと、聖女様。私を試金石に、この病毒をお確かめになりたいと、こう申されるか?」
聖女コーサは鷹揚に首肯し
「そうです。この女が平然としているところを見ると、金を腐蝕させるだけのさして有害な病ではないのかも知れません。
先程の雌蜥蜴(おんな)と同じく、魔界の疾病が見かけ倒しなのか、アタナシウス。あなたがその中に立って確かめるのです。
なに、もしも苦痛を覚えたならば、即、私が能えた防壁魔法で身を包めばよいではありませんか」
アタナシウス老は、ゴクリと喉を鳴らし、白髭まで揺らして
「で、ですが、もしも、その……万が一恐ろしい病毒であった場合……」
コーサは、イライラを沈めるよにう、金仮面の額を押さえ、中指でそこをテツテツ、コツコツと叩き
「それは大丈夫でしょう。その女を見なさい。少しでもただれや吹き出物がありますか?
良いでしょう。あなたが、そこの場に数呼吸の間立てば、信徒の中から選りすぐりの美なる少女、いえ、あなたの趣味からすると女児でしたか……。
その汚れなき乙女を新たに二人、従僕として与えます」
それを聴いたアタナシウスの老醜の顔面には、パッと喜色が湧いた。
「そ、それは誠ですか!?で、では……あ、あのー……。あ、あそこに立っている、世にも美しい子供を下され!
あの桃色の甲冑の幼き者を!」
歓喜に震える染みだらけの皺手で、腕を組んで立っている、眉目秀麗な不死王女カミラーを指した。
コーサは仮面の下で、うんざりした顔になり
「良いでしょう、好きにしなさい。そこから十数歩、ただ歩むだけで、あの娘はあなたのものです。
あなたの寝所でもどこでも身の世話をさせなさい」
「はっ!では聖女のお気の変わらぬ内に!」
とアタナシウス老は好色そうに顔を歪め、小躍りするように歩み、防衛(バリアー)呪文を唱えつつ穢れた地に向かったのである。
片翼、片角の水晶頭の魔人はコーサの方を向き
「使役者殿。我輩ヲ疑っテおられるノカ?
この病毒ハ、我輩ノ有スル最高峰の術デアリマスゾ?」
魔界の名士に名を連ねる、この俺の顔に泥を塗る気か?という想いで、ヒビ割れ、紫に変色した、すでにその顔に塗られた毒を撫でた。
それに聖女コーサは「では訊きますが、なぜその最高峰で、その女が倒れないのです?」と応えず、代わりにシャンが
「老神官よ、止めておけ。多分、お前にはまだ早い」
と、雀躍(こおど)りの老醜へ忠告した。
アタナシウスは殆どスキップで、ウキウキと歩みつつ、とろけそうな顔で、カミラーを熱っぽく見ていたが
「うるさい!ヒヨッ子餓鬼娘のお前に出来て、この歳まで肉体、精神のあらゆる修養・修行を積んだワシに出来んことがあるか!!
では、聖女様!今ぞ、確かにこのアタナシウスが参りますぞぉ!
グフフフフ……皆には何か悪いのお。
おい、少しでもワシの身に何かあれば回復呪文を頼んだぞ!?グフフフフ……」
仲間か兄弟か、遠巻きに眺める者達へと後方支援・応急手当を頼みつつ、少女趣味全開の変態好色老人は、黄金の砂地から緑の腐地に迫った。
流石に最初は恐る恐ると、その右足を境界線の先へ伸ばし、老人特有の猛禽類のごとき厚く白い爪の爪先で、黄金から変色した緑のヘドロを、ペチョペチョッと突っつき、気色悪そうな顔で天井を見上げるように左右を睨み、なにかしらの反応が現れるまでそこで少し待った。
だが、特に裸足の足裏には痒みも痛みも感じられなかったので、うむうむと幾度もうなずき
「うん。な、なんともないわぃ。あの餓鬼女のアサシンが何ともないのじゃから、当たり前といえば当たり前か……。
やれやれ、忽(たちま)ちに肉を腐らせる猛毒疾病のごとくに騒ぎ立ておって」
そう呟(つぶや)き、呆れ顔で魔人ラバルトゥを蔑(さげす)みの目で、ジロリと一瞥(いちべつ)して
「フンッ!この役立たずめ、何しに来おったか」
と吐き捨てるように言い、二歩、三歩と進み……。
「さて、ここいらで数呼吸ほど立つか」と立ち位置を定めた辺り、その四歩目で突然、ドッ!!と緑地に両の肘手をついた。
「んん?こいつは砂金が腐蝕し、ちょっとした沼になったようだの。
どれ、深いところにでも埋もれてしもうたか?」
と何気なく後方をうかがうと、そこには、何やら白い光沢のある布。
それと、プッチョッ!プッチョッ!と粘(ねば)い泡を弾けさせ、緑の地にグズグズになっている汚い水溜まりがあって、そこに数本の白い棒が見えたが、それも直ぐに端から白い煙を上げ、見る間に黒ずみ、溶け崩れて緑の汚物溜まりへと沈んだ。
アタナシウスは、それを特に気にもせず、沼のポケットから身体を引き抜こうとした。 が、今度は首まで漬かってしまった。
老人は皆の注目を浴び、気恥ずかしいのもあって、照れた笑いで、遠くに立っている、少し前より恋い焦がれた女バンパイアを見上げたが、そのピンクの盛り髪の美しい幼女にしか見えない者は恥ずかしいのか、それとも頭痛でもしたか、抜けるように白い額をガントレットの手で押さえている。
「フホホホ。ういやつだの。乙女とはそうでなくてはのぅ。
グフフフフ……今宵から毎晩、夜が明けるまでその白き幼い肢体を愛でてやるからな。
いやいや、これぞ役得、やくとく……ヤクトク……や、く……と……」
もうそこには老醜の姿はなく、肩も脛骨も頭蓋骨も溶け果て、穢(きたな)い緑の水溜まりに、剥き出しの灰色の脳が、ブクブクと泡を膨らませているだけであった。
シャンはそれを、平原を越え、谷へと追い詰めた獲物の鹿が、その持ち前の健脚に得意になって岩山を駆け上がったものの、つい蹄(ひずめ)を滑らせ、遥か崖下へと転落・落下し、その底で横倒しになって震えつつ、黒い鼻孔と上下がずれた顎の口腔から、こんこんと黒っぽい血液が溢れ出るのを、崖上から覗き見た狼のような、鋭くも哀しい黄色い目で見下ろし
「アタナシウスとやら、私は止めたからな。
まぁ最期に、お前なりに甘い夢が見れたようで、そこのところはせめてもの救いだった、といえんこともないか」
玉座の寝椅子上の聖女は、質屋に安物の時計を持って行き、それが期待以上でも以下でもなく、正に予想していた思った通りの小銭・小額にしかならなかったのに、ただ短く「じゃ、それで」と言う貧乏学生のようにタメ息を吐き、つるりとした黄金の額を右手で覆い、その薬指でマーキスカットのエメラルドを撫でた。
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第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
悪役令嬢の騎士
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スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
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ある日、神崎優斗は川でおぼれているおばあちゃんを助けようとして川の中にある岩にあたりおばあちゃんは助けられたが死んでしまったそれをたまたま地球を見ていた創造神が転生をさせてくれることになりいろいろな神の加護をもらい今貴族の子として転生するのであった
【不定期になると思います まだはじめたばかりなのでアドバイスなどどんどんコメントしてください。ノベルバ、小説家になろう、カクヨムにも同じ作品を投稿しているので、気が向いたら、そちらもお願いします。
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応援ありがとうございます。】
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