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53話 戦いの狼煙

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 突然のテロ勃発の少し前、ワイラー北区。

 ここの界隈では一番の長生き、今年113歳になるカメリア婆さんは、袖無しの花柄シャツ、巻きスカートで家の前の揺り椅子に腰掛け、ショボショボした目を擦り、女神聖典を小さな女児、曾孫(ひまご)のリルケに読ませていた。

 渋い健康茶をすすり、前の晩に煮た枝豆をくわえて歯茎で噛みながら、その拙(つたな)い朗読を聴くのが彼女の日課であり、幸せな一時であった。

 曾孫は5歳になったばかり、舌っ足らずで、つっかえつっかえしながらも懸命に先日の続きを読んでいる。
 
 不意に、その大判書籍の型をとった聖典のページが影になった。

 曾祖母に栗色の後ろ髪を三つ編みにしてもらっていた女児は、流れた雲塊が陽を遮(さえぎ)ったかと思い、ついと空を見上げると、そこには大きな顔、ちょび髭のちょんまげの男が優しく微笑んでいた。

 女児はその顔を見知っているようで、ペコリとお辞儀をして、聖典に栞(しおり)を挟んで椅子から降りて
 「アランちゃんこんにちは!どうしたの?ひーバーバにお弁当?」

 アランは輝く頭皮と、輝くような笑顔を継続させながら、オリエンタルな造りの白亜の三階建て、北区夜警神官詰所をバックにそこへ座り込み
 「リルケちゃん、カメリアさん、こんにちは!
 はい、お弁当。おかずは鶏の柔らか煮込みにしてあるわ。
 肉はいつものようにスプーンでもホロホロほぐれちゃうくらいにトロットロよー。
 カメリアさん、いきなりでホントに申し訳ないのだけれど、今日はね、お詫びしないといけないことがあって来たのよ。
 あ、あのね?ホント急なんだけど驚かないでね?
 えーと……貴女が見慣れたこの建物、神官詰所なんだけど、これが今からなくなっちゃうことをお詫びに来たの。
 ホントにゴメンなさい……。ビックリした?」
 心配そうな、さえない顔で老婆の乾物みたいな手をとって、ちょんまげのリボンを揺らした。
 
 カメリア婆さんは黙って枝豆を噛んでいたが
 「そうか……。やっとか、やっとこの見苦しいケダモノの巣を消してくれるのかい。
 うん?そっちの黒い方とやってくれるのかや?」
 アランのちょんまげリボンの後ろ、腕を組んで、すっくと立つ、暗黒色の禍々しいデザインの鎧姿の貴公子を見上げた。

 その絶望的に真昼の陽光が似合わない男は、一切の感情を感じさせない顔で
 「そうだ。俺は伝説の勇者ドラクロワ。
 老人よ聞け、今から俺はこの建物を灰塵に帰させる。
 だが、この手の魔法をこの規模で使うのは初めてでな。多少、欠片や粉塵が舞うかも知れん。
 怪我したくなければ耳栓をして、家屋の中に隠れていろ」
 魔王は大雑把に用件だけを言った。

 頭頂で毬のように白髪を丸めたカメリア婆は、ドラクロワの美しい顔を見上げ、もぐもぐを止めて
 「これが伝説の勇者様かい。はて、昨日辺り偽者が捕まったとか聞いたがの……。
 えぇ?灰塵やらなんやらをそんな細い体でかえ?
 あー、魔法か何かでやるのかのう?
 しかし勇者様よ、ちいとばかし遅かったのう。
 25年くらい前、ウチの人は、ここの神官等がおなごを打っているのを止めに入って、頭の横を殴り付けられて、一晩中苦しんで翌朝に冷たくなったで。
 そんで、この子の母親はえらく別嬪(べっぴん)さんでのー、孫が留守の夜、これまた神官等にてごめされて、あの馬鹿タレが、それを気にして一週間してそこ、その柱にぶら下がったで。
 ほんで孫は、コーサんとこへ訴えに行ったが未だに帰らん。2年も前だわい」
 伝説の勇者を訝しむ、ワイラーを長く映してきた皺に埋もれた眼は、深海の大魚のごとく白っぽい青になっていた。

 魔王は、じっとそれを聞いていたが、特に顔色を変えず、それを見下ろし
 「そうか。だが俺が来たなら、その曾孫は安泰だ。良かったな」

 そういうドラクロワは少しも同情的でなく、心からどうでも良さそうな口調で感想を述べた。

 カメリア婆さんは何度か瞬きし、シワだらけの干し固めたような手で、隙あらば目に飛び込んできそうなハエを追っ払って
 「うぅん?あんた……。勇者様というよりは、なんだか魔王様みたいだねぇ。
 あたしゃこの曾孫以外はさ、なーんも思い残すことはないでよ、構うこたぁない、気にせず好きにやっとくれよ。
 あー、魔王様。あのよ、せっかく逮捕覚悟でやりなさるならよ、ウチの人と孫嫁がお空の上からしっかり見えるように、思い切り派手にやっとくれよ。なぁ?できなさるかえ?」

 魔王の傍ら、ピンクのレースの日傘を差した、同じ色のロリータファッションが小さな手を口元にやり、クスクスと笑い
 「この100かそこらのシワガキ娘、中々に面白い事をいうわい。
 今から人間にしては長年見慣れた景色がなくなるのに、それを派手にやってくれとはのう。その根性気に入った!
 じゃが安心せい!ドラクロワ様に出来んことはない!
 じゃが、派手は良いが、それに驚いて死ぬでないぞえ?
 ん?アランよ、どした?」

 反コーサ派の革命コックは白いコックコートの肩を震わせ、声を圧し殺して泣いていた。

 カミラーが渡す真紅のハンカチを受け取りながら
 「グスッ……カミラーちゃんありがと。  な、何でもないのよ。ちょっと目にホコリが入っちゃってね……。
 ここの行方不明のお孫さんは、あたしの幼馴染みなの……。
 ゴメンね……カメリアさん。今までなーんにも出来なくて……あ、あたしがもっと強ければ、あたしにもっと力があれば!ご家族のこと、な、何とかして上げられたかもしれないのに……ホント……ホントにずびばぜんでじだぁー!!」
 大男が干からびた婆さんの膝にすがり付く姿は、すっかり近所の住民の注目を浴びてしまっていた。

 魔王は、その白鳩亭の弁当を手にした周りの住民等を見ながら
 「アランよ、何を言っておる。埃が舞うのはこれからだぞ?涙はそれまで取っておけ。
 さて、思い切り派手にやれと注文がついたが。
 ま、こいつが死なん程度に、適当にやってみるか」
 
 魔王は小規模な白い宮殿のような詰所へ、それより白い手をかざし、アメジストの瞳を細めた。

 今、ミニ宮殿は無人のようで、ただ静かにそびえ立っていたが、危険を察知したか、その中から斑(ぶち)の猫の親子が三匹、ミギャーッ!と無数のネズミと一緒に飛び出て、あっという間に近所のあちらこちらへ走り去った。

 住民等が遠巻きに眺める中、まず詰所の壁が、ビシッ!とひび割れ、まるで水中のごとく、ゆっくりとその欠片が真上に、真昼の蛍のように燐光を放ちながら天へと登った。

 建物は紅茶に入れた角砂糖のごとく、あれよあれよという間に、その角から大気に消失し始め、螺旋状ではなく、一直線に眩くエメラルド色に輝きながら、先の尖った金色のドーム状の屋根も、建材も、柱もその全てが光に変換されつつ、緑の閃光となって天空へ、逆さまの巨大な滝になったように遥か上空へと旅立って行く。
 
 巨大な円形の光の束の中に時折、星屑のような光の瞬(またた)きが混じりながら、一般家屋の四倍はあるミニチュア宮殿は、風も音もなく、地を揺らすことも一切なく、正に溶けるように天へと昇華されて行く。

 人の欲望と罪悪で穢(けが)された建物がやっと浄化させられ、永遠の旅に出るのを見送るような光景は、美しくも、どこかもの悲しく、人々は皆神妙な気持ちになり、手を合わせ、天を衝くエメラルド色に輝く大柱を涙を落としながら見上げた。

 その光の逆さ滝はグングンと空へと伸び、遂に雲を破って一直線に昇って、最後にその尻尾、詰所の敷地であった大地が、そこに太陽が墜ちたがごとく、半球型に光の炸裂を見せた。

 その余りに強烈な光の爆発的拡がりに、魔王以外は誰もそこを直視できなかった。


 光が去って、皆にようやく視力が戻ってきたとき、アランも北区の住民も声を失った。

 なんと、悪名高い夜警神官詰所のあった敷地の土場が、大軍の行進によって踏み固められたように、運動場の砂粒を徹底的に除去した後のような艶さえ見せ、黒光る鉄板のような面(おもて)を晒していたのだ。

 こうして時間にして5分ほどで、住民の見慣れた、あの小規模な神殿のような北区夜警神官詰所は、魔王の恐るべき分子破壊魔法によって、見事この世から消え失せたのである。

 住民等は初め、何が起きたか全く理解がついて行かず、ポカンと口を開け、空の雲海を見上げていたが、そのうち誰からともなく手を打ち始め、それは歓声を伴って大きなうねりとなり、今ここに北区の悪の巣窟が滅んだことを歓喜した。


 魔王はかざした右手を腕組に戻し
 「まぁ、こんなもんか?
 もっと振動や炎と雷(いかずち)、溶岩の噴出等、派手に装飾を付けてやっても良かったが、この老人まで天へと送っては俺の偉業を讃える者が、」

 ドンッ!!

 魔王の暗黒色の天鵞絨の背に猛烈なタックル、ブーツに、マントにすがり付く者達が居た。

 汁まみれのアラン、カメリア婆さんと、その曾孫であった。

 「ド、ドラちゃんステキー!!やっと、やっとこの街に本物の救世主が、コーサ様なんかじゃなく、ホントの勇者様がやって来たのねー!?
 やった!やったわ!!伝説は本当だったのよ!!」

 「ゆーしゃさま!ありがとー!ありがとー!ゆーしゃさまー!
 おーい!ママー!パパー!見てるー!?
 ゆーしゃさまがきたんだよー!かみさまみたいだよー!!
 ママー!ママー!!うぇーん!!」

 「おおお……魔王様ぁ。こ、こんな素晴らしい天への狼煙(のろし)をありがとーございます。 
 あたしゃ、いっぺんに胸がすーとしましたで。
 なんなら、もうこのまま死んでもいいですわい!
 何と強力な御力か!何と恐ろしき業か!!わー万歳!あー万歳じゃー!!あんだー!見たかー!?あんだー!達者でやってるかーい!?
 あ、あだじも直ぐに行くからよー!おーい!あんたー!あんたー見えとるかー!!?オホォー!アァアー!!オオオォー!」

 魔王は、天へと手を振る者等をうっとおしそうに眺めていたが、唐突に破顔して
 「フハハハハ!そーかそーか!恐ろしいか!?この子供、言うに事欠いて、かみさまみたいときたかー!?
 フハハハハ!老婆よ待て待て!そのまま死ぬでないわ!!
 もう少しこの子供と生きて、俺の素晴らしさを語り継ぐがよい!!
 いやいやカミラーよ!子供と老人は実に素直でよいな!!?
 フハハハハ!力無き者共よ!コーサとやらも、今にこーしてやるから待ってなさい!!フハハハハ!ハーッハッハッハー!!!」

 ただ一騒動起こして、駆けつけた者等に我こそは伝説の勇者だと名乗り、大人しく逮捕、連行されるつもりだった魔王は、この北区住民等の賞賛と賛美いう、思いがけぬ報酬に酔いしれた。
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