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◆ 拾 ◆
しおりを挟む通り過ぎた男にふと足を止めて振り返った。
見知らぬ若い男を寸の間だけ視線で追い、慌てて足を進める。
「おやまぁ」
驚いたような、面白がるような声。
「ああいう男が好みだったのかい?眉が濃くってきりりとしてて様子のいい男だったけどさ」
「そんなんじゃありませんよ」
揶揄う気が満々のお妙の言葉に苦笑いで弥生は応じる。
実際、弥生のほかにも目を向ける若い娘たちがいた。
日に焼けた体躯は逞しく、濃い眉に精悍な顔。きらりと光る白い歯も眩しい美男子だったが、弥生は別に見惚れていたわけではない。
「ただ、火消しの方のようだったので」
目を惹かれたのは、男の職業ゆえだ。
火事ともなれば法被に皮頭巾をかぶり、勇ましく火事場に駆け付ける火消しは花形だ。
打ち振られる纏いのばれん、木槌で建物を打ち壊すその姿は頼もしく、火事の多いお江戸だからこそ憧れる者も多いだろう。
「頼もしい存在だよねぇ」
静かに答えた弥生の声音に、お妙も声の質を変えてそれだけ答えた。
男の背はもう見えない。
菓子折りを入れた風呂敷包みを抱え直し、お得意様へと挨拶に伺うお妙の背に続いた。
「旬のものだからね。慎之介さんにも届けておくれ」
筍をたくさん頂いたからとお使いを言いつけられて店を出たのは夕暮れ前。
最前まで弥生自身が煮つけていた筍の煮物を持って生駒屋を出た。
濃い目の味付けでしっかりと煮て、かつお節をたっぷりと加えたそれは我ながらいい出来だった。
所帯もちならいざ知らず、独り者の職人たちでは手の込んだ手料理などなかなか口に出来ないから、機会があればこうして届け物をするのも珍しいことではない。
生駒屋からそう遠くない慎之介の住まいにはすぐに着いた。
戸口で声をかけるも反応がない。
出掛けているのだろうか?珍しい、そう思ったところで内から微かに音がした。
だけどすぐに足音は近づかず、ガタンと倒れるような音。一声かけ、戸を開いた。
よろけたように座り込み頭を押さえる慎之介の姿に慌てて駆け寄る。
「どうなさいました?お具合でも……」
煮物の入った器を置き、慎之介を支えようと伸ばした手と声が途中で止まる。
ふわりと漂う酒の臭いと火事場のように真っ赤な顔。
「もしかして……酔っておられます?」
ふらふらしながら顔を上げたがまたぐらりと揺れる。
慌ててそれを支えた弥生は慎之介を壁へと凭れかからせて水を汲みに走った。
見つけた茶碗一杯に水を汲んで差し出せばごくりと喉を鳴らして飲んだあと、ふぅと漏らされた息からもかすかに酒気が漂う。
すぐさま空になった茶碗に「もう一杯いりますか?」と問えば、申し訳なさそうながらも「お願いします」と返され再び水を汲みにいく。
人心地ついたのか、先ほどよりは落ち着いた様子で慎之介が頭を下げた。
まだ少し頭がふらふらしている。
「いやはやお恥ずかしい。大変なご迷惑を」
その恐縮した様子に少しだけ笑みが漏れ、「珍しいですね」と弥生は口にした。
こんな時間から酒を口にすることもそうだし、そもそも酒は不得手だと耳にしたことがある。
「親方のお嬢さんの縁談がまとまりましてね。目出度い話だからと親方に付き合わされてこのザマです」
頭を掻きながら恥ずかしそうに告げられら理由に得心した。
先だって独立した慎之介の元の親方には弥生と同じ年の娘が居た筈だ。一度だけちらりと顔を会わせたこともある。勝気そうな可愛らしい娘だった。
「それはお目出度いですね」
「はい。それで、弥生さんはどうしてこちらに?」
問われてすっかり置き去りにされていた器を手元に引き寄せた。
「筍の頂きものがあったんで、お内儀さんからお使いを頼まれたんです」
「や、これは美味しそうだ。有難うございます」
ほどよく色づいた筍の煮物を見て慎之介がほの赤い顔を笑み崩した。
「それではそろそろお暇します」
「お店までお送りいたします」
腰を上げた弥生に慎之介も習おうとしてまたふらりと身体が揺れた。
思わず口元に手をやりくすくすと笑ってしまう。
「一人で帰れますのでお気遣いなく。ごゆっくり休んでください」
心遣いは有り難いが、生駒屋まではすぐそこだ。夕暮れとはいえまだ人出もあるし、女の一人歩きを危ぶむほどの時間でもない。
千鳥足の足取りの方がよっぽど危うい。
申し出を断り一人で歩いていると、茜色の空の下で自分を呼ぶ声が響いた。
「やよい!」
腕を大きく振りながら駆けてくるのはおりんだった。
一緒に遊んでいた子らだろうか、数人の子どもたちが手を振っている。
「おつかい?」
「はい」
「慎之介さんのとこ?」
弥生が来た方向から当たりをつけたのだろう、期待に満ちた視線に苦笑いしつつもう一度頷く。
「筍の煮物をお届けしたんです。お嬢さんもお好きなかつお節で煮たやつです」
「やったぁ!」
夕餉の献立を知っておりんが小さく両手をあげる。
「おりんお嬢さんは今日はなにをして遊んだんです?」
「鬼ごっこよ。あたし、男の子だってみんな捕まえてやったんだから。駆けっこだって判じ物だって負けないわ」
「それはすごいですね」
褒められたおりんはふふんと胸を張ってから、ちょびっとだけ照れた様子で弥生の手をぎゅっと握った。
「ね、やよいは駆けっこや判じ物得意だった?」
覗き込むように聞かれ、困り顔の笑みが浮かんだ。
「あんまり。同じ年頃の子らよりどれも苦手でした」
「そうなの?やよいはきびきびしてるし、頭だっていいのに」
驚きを顔いっぱいに浮かべるおりんと弥生の手を繋いだ影が二つ、夕暮れに長く伸びていた。
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