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51:ジュリアの穏やかな日々①
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「はあ……」
廊下を静かに歩いていたジュリアは、何気なくため息をついてしまってから、慌てて口を閉ざした。
「いけない、いけない!
溜め息をつくと幸せが逃げてしまうっていうものね。
無意識に溜め息をつく癖、どうにかしてやめないと」
と独り言を呟きながら、窓に映る自分の姿に気がついて足を止めた。
意識して口角を上げ、にっこりと微笑んでみる。
ダニエルとの婚約を破棄した時から、もう一年が経っていた。
痩せ細り、いつまた倒れるのではないかと心配されていた体は、すっかり回復した。
頬は淡い紅色に染まり、瞳は太陽の日差しに輝いている。
しかし体とは違い、心の方はまだ完全に立ち直ったわけではなかった。
もう日中はほとんど、ダニエルやルイーズ、ケインのことを思い出すことはなくなったものの、夜には今でも時折夢に見るのである。
目覚めてしまえば内容など覚えてはいないのだけれど、そういう日は決まって一日中、何か酷く悲しい感情が胸に残るのであった。
3人があの後どうなったのかは、噂程度にしか知らなかった。
両親は決して口にしようとしなかったものの、物好きな知人が面白おかしく話して聞かせてきたせいだった。
それが事実なのか、尾ひれのついた単なる噂話なのかは分からない。
何しろ3人とも、あれ以来ぱったりと社交界へ姿を見せることはなくなってしまったのだから。
とにかく、皆が口を揃えて言うには、3人とも不幸な道を歩んでいるらしいということだった。
しかしジュリアには最早彼らがどうなろうと興味は無かった。
彼らの不幸を望むより、どうにかして自分が再び幸せになる道を見つけたい。
そう思えるまでには心が落ち着いてきていたのである。
ジュリアは再びため息をつきそうになったのに気がつくと、慌てて飲み込んで、ゆっくりと歩き出した。
そして両親の部屋の前を通り過ぎようとしたところで、ふと足を止めた。
彼らの話し声の中に自分の名前が出てくるのが聞こえたのである。
続いて『婚約』という言葉が出てくるのを聞くと、ジュリアは思わず体を強張らせて、そっと耳をすませた。
「とにかく、相手は公爵様だ。
まだお若いし、穏やかな性格だと評判も良い方だし、ジュリアのお相手としては申し分ない」
「そうね。それに公爵様からの婚約の申し出を断ることなんて、まず出来ないということも良く分かっているわ。
だけど、あの子の気持ちを考えると……」
ジュリアはすぐに理解した。
どうやら自分に婚約の申し出があったらしいということ、そして両親は承諾するかどうか悩んでいるらしいということを。
少しの沈黙の後、父親である伯爵の声が聞こえてきた。
「……とにかくジュリアにはまだ、この話はしないでおこう。
混乱させたくはないし、返事をする期日までにはまだ余裕が……」
ジュリアはゴクリと喉を鳴らすと、ノックもせずに扉を開いた。
そして両親が目を見開いて彼女を見るのをものともせず、きっぱりと言ったのである。
「大丈夫よ!私、婚約するわ」
「ジュリア!?聞いていたのかい?」
「ええ。部屋の前を通りがかったら聞こえてきてしまったの」
にっこりと微笑んで見せるジュリアに、両親は困ったように顔を見合わせた。
「でも……そんなすぐに決めなくても良いのよ。
もう少しゆっくり考えてみても……」
「お相手は公爵様なのでしょう?
だったら断ることなんて、そもそも出来ないじゃないの。
それに、すっかり噂話のタネになった私に、婚約の申込みをして下さるなんて、とてもありがたいお話だわ」
「それはそうだけれど……そもそも、まだお相手が誰なのかも言っていないじゃないの」
伯爵夫人に言われて、ジュリアは目を丸くしたが、すぐに笑い出してしまった。
「それもそうね!
いったい、その物好きな方はどなたなの?」
「物好きだなんて……まったく、あなたは。
お相手は、ハリー・ロンド様よ」
呆れたように伯爵夫人が口にした名前に、ジュリアは口をぽっかりと開けて固まってしまう。
「まさか!」
「信じられないでしょうけれど、本当よ。
それも、以前からジュリアに好意を持っていたとかで、この婚約を何としてでも成立させたいと、熱意のこもったお手紙を下さったの」
「そう……ハリー様が。
まあ、そんな熱意も社交辞令でしょうけれど」
誰もが振り返る、とまでは言えなくとも、十分端正な顔立ちのハリーは、その穏やかな性格と公爵令息という身分のおかげもあって、若い娘達に人気のある好青年だ。
そのハリーがまさか自分に好意を持っていたなんて、とても信じられない。
しかし彼に何か魂胆があっても、もう構わなかった。
ダニエルとの一件のせいで、もう自分には結婚など難しいとすら思っていたところなのだ。
散々両親に迷惑をかけた自分に出来ることは、黙って結婚することくらいだろう。
「だったら尚更よ。
ハリー様がお相手なら、文句のつけようもないもの。
婚約のお話はお受けするわ」
「……本当に良いのかい?」
「もちろん!」
廊下を静かに歩いていたジュリアは、何気なくため息をついてしまってから、慌てて口を閉ざした。
「いけない、いけない!
溜め息をつくと幸せが逃げてしまうっていうものね。
無意識に溜め息をつく癖、どうにかしてやめないと」
と独り言を呟きながら、窓に映る自分の姿に気がついて足を止めた。
意識して口角を上げ、にっこりと微笑んでみる。
ダニエルとの婚約を破棄した時から、もう一年が経っていた。
痩せ細り、いつまた倒れるのではないかと心配されていた体は、すっかり回復した。
頬は淡い紅色に染まり、瞳は太陽の日差しに輝いている。
しかし体とは違い、心の方はまだ完全に立ち直ったわけではなかった。
もう日中はほとんど、ダニエルやルイーズ、ケインのことを思い出すことはなくなったものの、夜には今でも時折夢に見るのである。
目覚めてしまえば内容など覚えてはいないのだけれど、そういう日は決まって一日中、何か酷く悲しい感情が胸に残るのであった。
3人があの後どうなったのかは、噂程度にしか知らなかった。
両親は決して口にしようとしなかったものの、物好きな知人が面白おかしく話して聞かせてきたせいだった。
それが事実なのか、尾ひれのついた単なる噂話なのかは分からない。
何しろ3人とも、あれ以来ぱったりと社交界へ姿を見せることはなくなってしまったのだから。
とにかく、皆が口を揃えて言うには、3人とも不幸な道を歩んでいるらしいということだった。
しかしジュリアには最早彼らがどうなろうと興味は無かった。
彼らの不幸を望むより、どうにかして自分が再び幸せになる道を見つけたい。
そう思えるまでには心が落ち着いてきていたのである。
ジュリアは再びため息をつきそうになったのに気がつくと、慌てて飲み込んで、ゆっくりと歩き出した。
そして両親の部屋の前を通り過ぎようとしたところで、ふと足を止めた。
彼らの話し声の中に自分の名前が出てくるのが聞こえたのである。
続いて『婚約』という言葉が出てくるのを聞くと、ジュリアは思わず体を強張らせて、そっと耳をすませた。
「とにかく、相手は公爵様だ。
まだお若いし、穏やかな性格だと評判も良い方だし、ジュリアのお相手としては申し分ない」
「そうね。それに公爵様からの婚約の申し出を断ることなんて、まず出来ないということも良く分かっているわ。
だけど、あの子の気持ちを考えると……」
ジュリアはすぐに理解した。
どうやら自分に婚約の申し出があったらしいということ、そして両親は承諾するかどうか悩んでいるらしいということを。
少しの沈黙の後、父親である伯爵の声が聞こえてきた。
「……とにかくジュリアにはまだ、この話はしないでおこう。
混乱させたくはないし、返事をする期日までにはまだ余裕が……」
ジュリアはゴクリと喉を鳴らすと、ノックもせずに扉を開いた。
そして両親が目を見開いて彼女を見るのをものともせず、きっぱりと言ったのである。
「大丈夫よ!私、婚約するわ」
「ジュリア!?聞いていたのかい?」
「ええ。部屋の前を通りがかったら聞こえてきてしまったの」
にっこりと微笑んで見せるジュリアに、両親は困ったように顔を見合わせた。
「でも……そんなすぐに決めなくても良いのよ。
もう少しゆっくり考えてみても……」
「お相手は公爵様なのでしょう?
だったら断ることなんて、そもそも出来ないじゃないの。
それに、すっかり噂話のタネになった私に、婚約の申込みをして下さるなんて、とてもありがたいお話だわ」
「それはそうだけれど……そもそも、まだお相手が誰なのかも言っていないじゃないの」
伯爵夫人に言われて、ジュリアは目を丸くしたが、すぐに笑い出してしまった。
「それもそうね!
いったい、その物好きな方はどなたなの?」
「物好きだなんて……まったく、あなたは。
お相手は、ハリー・ロンド様よ」
呆れたように伯爵夫人が口にした名前に、ジュリアは口をぽっかりと開けて固まってしまう。
「まさか!」
「信じられないでしょうけれど、本当よ。
それも、以前からジュリアに好意を持っていたとかで、この婚約を何としてでも成立させたいと、熱意のこもったお手紙を下さったの」
「そう……ハリー様が。
まあ、そんな熱意も社交辞令でしょうけれど」
誰もが振り返る、とまでは言えなくとも、十分端正な顔立ちのハリーは、その穏やかな性格と公爵令息という身分のおかげもあって、若い娘達に人気のある好青年だ。
そのハリーがまさか自分に好意を持っていたなんて、とても信じられない。
しかし彼に何か魂胆があっても、もう構わなかった。
ダニエルとの一件のせいで、もう自分には結婚など難しいとすら思っていたところなのだ。
散々両親に迷惑をかけた自分に出来ることは、黙って結婚することくらいだろう。
「だったら尚更よ。
ハリー様がお相手なら、文句のつけようもないもの。
婚約のお話はお受けするわ」
「……本当に良いのかい?」
「もちろん!」
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