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第4話 貴人からの依頼
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――どうしてこうなった?
後宮の奥にある執務室に通された翠花は、これまで座ったこともないようなフカフカな椅子に座らされて、後宮に呼び出された理由を、星澪から聞かされた。
四人の女官は翠花の背後に立たされたままである。まるで包囲網。自分よりずっと地位の高い女官たちを立たせたままというのは、あまりにも胃が痛む。だけど星澪はまったく気にしていない様子だった。ということは、星澪は後宮の女官たちよりもずっと高い地位にいるということだろう。
「まずは先日の窃盗に関して、礼を言いたい。盗品を取り戻してくれたこと、感謝する」
「――あ、いえいえ、当然のことをしたまでですし、――あ、ほら、偶然みたいなところもありますから」
そもそもお金欲しさに小芝居を打った面もあるから、お礼を言われても若干心が痛む面もある。さらに二週間前のあの日とは違って、今では星澪が相当地位の高い貴人だと分かっているのである。そこから「感謝」などという言葉が出る時点で、畏れ多いとしか言いようがない。
なんとなく背後の女官たちから、無言の圧力を感じたりもした。
「しかも、取り戻してくれたのはお前の弟君だというではないか。やはりあの時に、報奨金について即座に決定したのが良かったのだろうな」
実際には血の繋がった弟ではないけれど、今はややこしいからそういうことにしておこう。
「――はい。弟もあの時に、店で働いておりまして、報奨金に目がくらんで全力で盗人の捜索を始めたと言っておりました」
嘘ではない。ただ弟の目がくらんだ報奨金は翠花が前もって設定していた銅貨五十枚なのだけれど。そういう意味では、実際のところ銀貨一枚は翠花の懐に入っただけなのであるが、まぁ、まるっと全体で考えれば、銀貨を報奨金にしたおかげと言えよう。翠花は自分の心の中で辻褄を合わせて、純真無垢な町娘として善人の表情を浮かべ続ける。
「それにその件につきましては、私どもはすでに報奨金として銀貨一枚という十分なものをいただいておりますので、これ以上は何も求めません。ですので、お気遣いは無用でございます」
椅子の上で深々と頭を下げる。
「そうか。そう言ってもらえれば、私としては助かるがな。私にはまだどうやら『心』の『理』というものがわからなくてね。翠花よ」
その言葉に、翠花は「あちゃー」と心の中で冷や汗を流す。
あの日、一期一会であろうことを良いことに、調子にのって「心の理」についてマウントを取ってしまったのだ。今となっては大変恥ずかしい。その相手が紫銀国の宮廷人であったとは。二週間前に時間旅行して、両手で自分の口を塞いでやりたい。
「あの日、私が申し上げました『心』の『理』など、街で生きるものの浅はかな知恵にございます。天上人たる貴人の皆様にとっては、つまらないことでございましょう。――お忘れくださいませ」
意訳すると「あの日は立場もわきまえずにマウントしてすみませんでした。全力で土下座するのであの日の調子に乗った無礼は許してちょうだい」である。
そんな翠花の全力土下座に、一方で星澪はゆっくりと首を傾げた。彼の長くて美しい髪がはらりと揺れる。
「しかし、翠花よ。宮廷や後宮の者と、都に生きる街の者。それぞれが持つ心の理はただ宮廷と街を隔てる壁一つで異なるものであろうか? 天の理は、国は違えど同じであると聞くぞ?」
「――いいえ、同じでございいます」
「そうであろう?」
「はい。人の心の理は、心の表層よりより深きところにあり、それは地位や立場によって変化するものではありません」
一息に言ってから翠花は「しまった」と思った。ここは「違います。知りません」と言い切ってしまってこの場から無罪放免されることを最優先すべきだったと、言葉を放ってしまってから後悔した。
でもそんな心の理の学を貶めるような発言は、師匠から受けてきた薫陶が許してはくれなかった。そしてまた、そんな心の動きこそが、私の心の理であるのだろうなぁ、と翠花は思うのだった。
「――それは皇帝陛下ですら例外ではないと思うか? 翠花よ?」
「それに対する回答は、さすがにご容赦くださいませ。星澪さま」
本気で困って、翠花は頭を下げる。皇帝陛下に対する不敬は場合によっては、発言一つの失敗で首が飛ぶ。そんなリスクをこんなところで背負う気にはなれなかった。
星澪はそれを見て、可笑しそうに声を上げて笑った。涙が溢れたのか、その眦を人差し指の背で拭う。その後に作った笑顔がどこか可愛らしくて、翠花は少しばかり目を奪われた。
「意地悪はやめてくださいませ。星澪さま」
「意地悪でも冗談でもない。真面目な話だ」
そう言うと、星澪は人払いをするように、お付きの男性文官に命じた。それなりに体つきの良い男だったので、もしかすると武官かもしれない。
後宮は男子禁制だと聞いたが、この執務室だけは特例なのだろうか? とてもその男は宦官には見えなかった。目の前の美しい女男については、宦官だと言われても信じられそうだった。星澪はちょっと普通の男にしてはやはり容姿端麗すぎた。
男の指示にしたがって、四人の女官が部屋から退出していく。去り際に、静雅と目が合って、翠花は頭を小さく下げた。静雅は小さく手を振った。彼女はいい人だと思うので、また、お話できたらいいな、と翠花は思った。
「さて、今日、お前を呼んだのは、何も盗品回収の礼を言うためだけではない。少し試してみたい――というか頼み事をしたいと思ってな」
「――なんでございましょう? 私などがお役に立てることなど、何も無いとおもいますが」
面倒事の可能性しかないし、嫌な予感しかしない。だから「巻き込んでくれるな」という空気を全力で身体から迸らせるる。しかし目の前の男はどこ吹く風だ。どうも星澪は鈍感度が高いと言うか、天然というか、空気を読めない人間らしい。
それでも翠花はしばらく「気づいて、気づいて」と抵抗する空気を出し続けていたが、あまりにも無為なので大人しく放っていた抵抗の気配を仕舞うことにした。
「お前にあの日言われてから、『心』の『理』に関して考えるようになったのだ。そのようなことを私に教えてくれる者など、これまでに誰もいなかったからな」
「そうでございましたか」
人の気持ちを考えましょう、とかそういう話をしてくれる大人はどこにでもいるだろう。もっとも皇族などであれば、周囲が気を使いすぎて誰も教えてくれないのかもしれないが。それは皇族に近いほど地位の高い天上人でも同じかもしれない。
その一方で、人の「心」に「理」があるという考え方は、決してこの紫銀国において標準的な考え方ではない。人の心はもっと掴みどころがないもの。そういう風に漠然と思われているのだ。だからその「理」を前提として、いろいろな仕組みや仕掛けを考えるということもほとんどなされない。すべてが場当たり的なのである。
「実はあの時は、お忍びで街に出ていてな。――まぁ、戻ってから私自身がこってり絞られたわけだが」
そう言うと、星澪は視線を動かした。その先でさっきの文官が一つ咳払いをした。きっと「こってり絞った」張本人なのだろう。
「そうでしたか。まぁ、都に住む普通の住人とはとても思えませんでしたし、その上に、お付きの者もおられませんでしたので、変だとは思っておりましたが」
「まぁ、そのおかげで貴重な経験も出来た」
そう言って星澪は無邪気に白い歯を見せて笑った。
盗人にあったのだから、かなり嫌な思い出にもなり得るはずだけれど、その笑顔はお芝居には見えなかった。この男、典型的な「終わりよければ全てよし」の類なのかもしれない。
「――それに貴重な出会いもあったしな」
美麗な顔の上で、星澪はすっと目を細めた。
向けられたことのない種類の視線に、翠花は思わずビクッとする。
「それはもしかして……私のことでございましょうか?」
「他に誰がいる? 翠花自身のこともあるが、お前が言った『心』の『理』の話だな。――あの話は、なにやら大変、私の胸に響くものがあった。実は――かねてより私自身が頭を抱えていたことがあってな」
「――帰ってよいでしょうか?」
「どうしてそうなる?」
だってこれ、悩みとか聞いちゃったら絶対に逃げられなくなるやつじゃん?
「いえ、少し、酒場に置いてきた弟がちゃんと仕事をしているか気になりまして」
「――ほう。やはりお前は仕事熱心で、弟思いの優しい姉なのだな」
だめだ。全く伝わっていない。
翠花は覚悟を決めて、両膝の上に丸くした拳を押し当てた。
星澪がくいと顎を動かすと、隣に立っていた文官が口を開いた。
「星澪さまは、皇帝陛下から直々に命じられて、現在、後宮を管理なさるお仕事をなさっています。その内容は女官たちの部屋割りや、管理業務の仕組みづくり、それから各種の遊戯会やお茶会の設定など、多岐に渡ります」
ふと翠花は今日歩いてきた、後宮の様子を思い浮かべる。そこの風雅な様子や、繊細そうな女官や后たちの姿。その女の社会はまさに心が行き交う、複雑な心の世界だ。
その管理を、この空気を読めない美男子が行っていると考えると、それだけですでに頭痛がしそうになった。皇帝陛下も酷い人選をしたものである。それを口にすることは、さすがに不敬なのでできないけれど。
――きっと後宮内は、問題だらけ……になっているんだろうなぁ、と翠花は思う。星澪は悪い人間ではなさそうなのだけれど、空気が読めないのは、後宮という女の世界ではどう考えても致命的だった。
「実は後宮の運営がうまくいっていなくてな。皇帝陛下からも『最近、雰囲気が悪いし、后たちが楽しくなさそうだ』と、苦言をもらっているのだ」
やっぱりそれだった。そして駄目じゃん。皇帝陛下にそんなこと言わせるとか、正直にいってやばすぎる案件だと思うのですけれど。翠花は一人苦笑いを浮かべた。
「それがお前の言った『心』の『理』を、私が解さないためではないかと、考えたのだ」
「――なるほど」
どうやら空気は読めないが、反省は出来る人間らしい。人として悪くはない。
実態はわからないけれど、後宮が上手くいっていないということについては、彼が「心の理を解さない」ということときっと関係はしているのだろう、と翠花は思った。
この美貌だから女官たちからの人気は高いのだろうが、資質としては後宮のような複雑な社会を運営には全く向いていないように思った。
「そこで、翠花よ。お前の『心』の『理』の考えを、後宮運営に生かしてみる気はないか?」
「え、――嫌です」
条件反射で口にしてから、しまったと思った。言ってしまったと、斜め前を見ると、文官のお兄さんが怖い目で睨んできたので、思わず翠花は肩をすくめた。
ついつい酒場の延長線で、普通の街の男に対する言葉遣いになってしまった。
不敬で怒られるかと思ったけれど、おずおずと星澪の表情を伺うと、何一つ傷ついた様子はなく興味深そうに翠花のことを見つめていた。そうだった。この男は空気の読めない、鈍感男なのであった。
「とりあえずは現状、後宮にある問題を一つ提示するので、何でもよいからその解決策を『心』の『理』の考え方に基づい発案してほしいのだ。一緒に問題解決に取り組んでほしい。もちろん、褒美はとらせる」
「――問題解決と言われましても」
後宮の末席で床掃除をするとかいう仕事だけでも、町娘にとってみては天上のお話であり、身分不相応のこととさえ言えるである。それが後宮の運営に関わるなど、想像を絶する話なのだ。
「心」の「理」に注目してもらえるのは嬉しい。師匠からの教えを、皇帝陛下のお役煮立てられるならこんなに誉れ高いことはない。それでも「畏れ多い」という思いと、あと「面倒臭さ」が先行するのだった。
「そうだな。報奨金として、まず銀貨五枚を取らせよう」
破格である。さすがの翠花も鼻をひくつかせてしまう。
それだけのお金があったら、店の料理器具を一新できるかもしれない。軒先に桜の木を植えることだってできるかもしれない。ついでに自分自身のために翡翠の首飾りなんか買っちゃったりして。飛龍には羊の肉を食わせてやろう。男の子はだいたい肉を食わせておけば喜んで尻尾を振る生き物だ。
でもでも、と翠花は首を振る。こと後宮である。噂に聞く女の魔窟である。天上人の世界である。一歩間違えばかなりややこしいことになってしまいそうだ。
よし、断ろう! 銀貨のことは残念だけど。
そう思って顔を上げた翠花の目の前に、星澪は二本の指を立てた。
「もしこの案件を成功裏におさめた暁には、さらに銀貨二十枚を取らせよう」
「――やりますっ!」
そんな思いとは裏腹に、翠花の口からは元気良い応諾の言葉が漏れていた。
後宮の奥にある執務室に通された翠花は、これまで座ったこともないようなフカフカな椅子に座らされて、後宮に呼び出された理由を、星澪から聞かされた。
四人の女官は翠花の背後に立たされたままである。まるで包囲網。自分よりずっと地位の高い女官たちを立たせたままというのは、あまりにも胃が痛む。だけど星澪はまったく気にしていない様子だった。ということは、星澪は後宮の女官たちよりもずっと高い地位にいるということだろう。
「まずは先日の窃盗に関して、礼を言いたい。盗品を取り戻してくれたこと、感謝する」
「――あ、いえいえ、当然のことをしたまでですし、――あ、ほら、偶然みたいなところもありますから」
そもそもお金欲しさに小芝居を打った面もあるから、お礼を言われても若干心が痛む面もある。さらに二週間前のあの日とは違って、今では星澪が相当地位の高い貴人だと分かっているのである。そこから「感謝」などという言葉が出る時点で、畏れ多いとしか言いようがない。
なんとなく背後の女官たちから、無言の圧力を感じたりもした。
「しかも、取り戻してくれたのはお前の弟君だというではないか。やはりあの時に、報奨金について即座に決定したのが良かったのだろうな」
実際には血の繋がった弟ではないけれど、今はややこしいからそういうことにしておこう。
「――はい。弟もあの時に、店で働いておりまして、報奨金に目がくらんで全力で盗人の捜索を始めたと言っておりました」
嘘ではない。ただ弟の目がくらんだ報奨金は翠花が前もって設定していた銅貨五十枚なのだけれど。そういう意味では、実際のところ銀貨一枚は翠花の懐に入っただけなのであるが、まぁ、まるっと全体で考えれば、銀貨を報奨金にしたおかげと言えよう。翠花は自分の心の中で辻褄を合わせて、純真無垢な町娘として善人の表情を浮かべ続ける。
「それにその件につきましては、私どもはすでに報奨金として銀貨一枚という十分なものをいただいておりますので、これ以上は何も求めません。ですので、お気遣いは無用でございます」
椅子の上で深々と頭を下げる。
「そうか。そう言ってもらえれば、私としては助かるがな。私にはまだどうやら『心』の『理』というものがわからなくてね。翠花よ」
その言葉に、翠花は「あちゃー」と心の中で冷や汗を流す。
あの日、一期一会であろうことを良いことに、調子にのって「心の理」についてマウントを取ってしまったのだ。今となっては大変恥ずかしい。その相手が紫銀国の宮廷人であったとは。二週間前に時間旅行して、両手で自分の口を塞いでやりたい。
「あの日、私が申し上げました『心』の『理』など、街で生きるものの浅はかな知恵にございます。天上人たる貴人の皆様にとっては、つまらないことでございましょう。――お忘れくださいませ」
意訳すると「あの日は立場もわきまえずにマウントしてすみませんでした。全力で土下座するのであの日の調子に乗った無礼は許してちょうだい」である。
そんな翠花の全力土下座に、一方で星澪はゆっくりと首を傾げた。彼の長くて美しい髪がはらりと揺れる。
「しかし、翠花よ。宮廷や後宮の者と、都に生きる街の者。それぞれが持つ心の理はただ宮廷と街を隔てる壁一つで異なるものであろうか? 天の理は、国は違えど同じであると聞くぞ?」
「――いいえ、同じでございいます」
「そうであろう?」
「はい。人の心の理は、心の表層よりより深きところにあり、それは地位や立場によって変化するものではありません」
一息に言ってから翠花は「しまった」と思った。ここは「違います。知りません」と言い切ってしまってこの場から無罪放免されることを最優先すべきだったと、言葉を放ってしまってから後悔した。
でもそんな心の理の学を貶めるような発言は、師匠から受けてきた薫陶が許してはくれなかった。そしてまた、そんな心の動きこそが、私の心の理であるのだろうなぁ、と翠花は思うのだった。
「――それは皇帝陛下ですら例外ではないと思うか? 翠花よ?」
「それに対する回答は、さすがにご容赦くださいませ。星澪さま」
本気で困って、翠花は頭を下げる。皇帝陛下に対する不敬は場合によっては、発言一つの失敗で首が飛ぶ。そんなリスクをこんなところで背負う気にはなれなかった。
星澪はそれを見て、可笑しそうに声を上げて笑った。涙が溢れたのか、その眦を人差し指の背で拭う。その後に作った笑顔がどこか可愛らしくて、翠花は少しばかり目を奪われた。
「意地悪はやめてくださいませ。星澪さま」
「意地悪でも冗談でもない。真面目な話だ」
そう言うと、星澪は人払いをするように、お付きの男性文官に命じた。それなりに体つきの良い男だったので、もしかすると武官かもしれない。
後宮は男子禁制だと聞いたが、この執務室だけは特例なのだろうか? とてもその男は宦官には見えなかった。目の前の美しい女男については、宦官だと言われても信じられそうだった。星澪はちょっと普通の男にしてはやはり容姿端麗すぎた。
男の指示にしたがって、四人の女官が部屋から退出していく。去り際に、静雅と目が合って、翠花は頭を小さく下げた。静雅は小さく手を振った。彼女はいい人だと思うので、また、お話できたらいいな、と翠花は思った。
「さて、今日、お前を呼んだのは、何も盗品回収の礼を言うためだけではない。少し試してみたい――というか頼み事をしたいと思ってな」
「――なんでございましょう? 私などがお役に立てることなど、何も無いとおもいますが」
面倒事の可能性しかないし、嫌な予感しかしない。だから「巻き込んでくれるな」という空気を全力で身体から迸らせるる。しかし目の前の男はどこ吹く風だ。どうも星澪は鈍感度が高いと言うか、天然というか、空気を読めない人間らしい。
それでも翠花はしばらく「気づいて、気づいて」と抵抗する空気を出し続けていたが、あまりにも無為なので大人しく放っていた抵抗の気配を仕舞うことにした。
「お前にあの日言われてから、『心』の『理』に関して考えるようになったのだ。そのようなことを私に教えてくれる者など、これまでに誰もいなかったからな」
「そうでございましたか」
人の気持ちを考えましょう、とかそういう話をしてくれる大人はどこにでもいるだろう。もっとも皇族などであれば、周囲が気を使いすぎて誰も教えてくれないのかもしれないが。それは皇族に近いほど地位の高い天上人でも同じかもしれない。
その一方で、人の「心」に「理」があるという考え方は、決してこの紫銀国において標準的な考え方ではない。人の心はもっと掴みどころがないもの。そういう風に漠然と思われているのだ。だからその「理」を前提として、いろいろな仕組みや仕掛けを考えるということもほとんどなされない。すべてが場当たり的なのである。
「実はあの時は、お忍びで街に出ていてな。――まぁ、戻ってから私自身がこってり絞られたわけだが」
そう言うと、星澪は視線を動かした。その先でさっきの文官が一つ咳払いをした。きっと「こってり絞った」張本人なのだろう。
「そうでしたか。まぁ、都に住む普通の住人とはとても思えませんでしたし、その上に、お付きの者もおられませんでしたので、変だとは思っておりましたが」
「まぁ、そのおかげで貴重な経験も出来た」
そう言って星澪は無邪気に白い歯を見せて笑った。
盗人にあったのだから、かなり嫌な思い出にもなり得るはずだけれど、その笑顔はお芝居には見えなかった。この男、典型的な「終わりよければ全てよし」の類なのかもしれない。
「――それに貴重な出会いもあったしな」
美麗な顔の上で、星澪はすっと目を細めた。
向けられたことのない種類の視線に、翠花は思わずビクッとする。
「それはもしかして……私のことでございましょうか?」
「他に誰がいる? 翠花自身のこともあるが、お前が言った『心』の『理』の話だな。――あの話は、なにやら大変、私の胸に響くものがあった。実は――かねてより私自身が頭を抱えていたことがあってな」
「――帰ってよいでしょうか?」
「どうしてそうなる?」
だってこれ、悩みとか聞いちゃったら絶対に逃げられなくなるやつじゃん?
「いえ、少し、酒場に置いてきた弟がちゃんと仕事をしているか気になりまして」
「――ほう。やはりお前は仕事熱心で、弟思いの優しい姉なのだな」
だめだ。全く伝わっていない。
翠花は覚悟を決めて、両膝の上に丸くした拳を押し当てた。
星澪がくいと顎を動かすと、隣に立っていた文官が口を開いた。
「星澪さまは、皇帝陛下から直々に命じられて、現在、後宮を管理なさるお仕事をなさっています。その内容は女官たちの部屋割りや、管理業務の仕組みづくり、それから各種の遊戯会やお茶会の設定など、多岐に渡ります」
ふと翠花は今日歩いてきた、後宮の様子を思い浮かべる。そこの風雅な様子や、繊細そうな女官や后たちの姿。その女の社会はまさに心が行き交う、複雑な心の世界だ。
その管理を、この空気を読めない美男子が行っていると考えると、それだけですでに頭痛がしそうになった。皇帝陛下も酷い人選をしたものである。それを口にすることは、さすがに不敬なのでできないけれど。
――きっと後宮内は、問題だらけ……になっているんだろうなぁ、と翠花は思う。星澪は悪い人間ではなさそうなのだけれど、空気が読めないのは、後宮という女の世界ではどう考えても致命的だった。
「実は後宮の運営がうまくいっていなくてな。皇帝陛下からも『最近、雰囲気が悪いし、后たちが楽しくなさそうだ』と、苦言をもらっているのだ」
やっぱりそれだった。そして駄目じゃん。皇帝陛下にそんなこと言わせるとか、正直にいってやばすぎる案件だと思うのですけれど。翠花は一人苦笑いを浮かべた。
「それがお前の言った『心』の『理』を、私が解さないためではないかと、考えたのだ」
「――なるほど」
どうやら空気は読めないが、反省は出来る人間らしい。人として悪くはない。
実態はわからないけれど、後宮が上手くいっていないということについては、彼が「心の理を解さない」ということときっと関係はしているのだろう、と翠花は思った。
この美貌だから女官たちからの人気は高いのだろうが、資質としては後宮のような複雑な社会を運営には全く向いていないように思った。
「そこで、翠花よ。お前の『心』の『理』の考えを、後宮運営に生かしてみる気はないか?」
「え、――嫌です」
条件反射で口にしてから、しまったと思った。言ってしまったと、斜め前を見ると、文官のお兄さんが怖い目で睨んできたので、思わず翠花は肩をすくめた。
ついつい酒場の延長線で、普通の街の男に対する言葉遣いになってしまった。
不敬で怒られるかと思ったけれど、おずおずと星澪の表情を伺うと、何一つ傷ついた様子はなく興味深そうに翠花のことを見つめていた。そうだった。この男は空気の読めない、鈍感男なのであった。
「とりあえずは現状、後宮にある問題を一つ提示するので、何でもよいからその解決策を『心』の『理』の考え方に基づい発案してほしいのだ。一緒に問題解決に取り組んでほしい。もちろん、褒美はとらせる」
「――問題解決と言われましても」
後宮の末席で床掃除をするとかいう仕事だけでも、町娘にとってみては天上のお話であり、身分不相応のこととさえ言えるである。それが後宮の運営に関わるなど、想像を絶する話なのだ。
「心」の「理」に注目してもらえるのは嬉しい。師匠からの教えを、皇帝陛下のお役煮立てられるならこんなに誉れ高いことはない。それでも「畏れ多い」という思いと、あと「面倒臭さ」が先行するのだった。
「そうだな。報奨金として、まず銀貨五枚を取らせよう」
破格である。さすがの翠花も鼻をひくつかせてしまう。
それだけのお金があったら、店の料理器具を一新できるかもしれない。軒先に桜の木を植えることだってできるかもしれない。ついでに自分自身のために翡翠の首飾りなんか買っちゃったりして。飛龍には羊の肉を食わせてやろう。男の子はだいたい肉を食わせておけば喜んで尻尾を振る生き物だ。
でもでも、と翠花は首を振る。こと後宮である。噂に聞く女の魔窟である。天上人の世界である。一歩間違えばかなりややこしいことになってしまいそうだ。
よし、断ろう! 銀貨のことは残念だけど。
そう思って顔を上げた翠花の目の前に、星澪は二本の指を立てた。
「もしこの案件を成功裏におさめた暁には、さらに銀貨二十枚を取らせよう」
「――やりますっ!」
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