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第3話 裏返された三角形㊤
第3話 01
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「すいません、お待たせしました」
入り口脇の会計台まで小走りで駆け寄りながら、お客様へと声をかける。
見ればあちら様は、しばしの待ち時間に気分を害した様子もなく、「いえいえ」と軽く会釈を返してくれた。
「すぐに会計いたします」
口早に告げながら、下げたばかりのカップや小鉢で溢れるトレーを、会計台のすみに乗せ置く。
改めて姿勢を正して向き直れば、少し変わった男性のお客様の姿を正面に捉えた。
旅慣れを感じさせる装いに年季の入った外套を羽織った、私よりも一回りくらいは歳を重ねていそうな壮年の男性。
上等とは言えなさそうな旅装束をまといながらも、決してみすぼらしく見えることもなく。
細やかな手入れを伺わせる身だしなみや穏やかな物腰からは、彼の日常における誠実さすらも透けて見えるような気がしなくもない。
(旅人さんでしょうか?)
その割には手荷物が見当たらないけれど、まぁどこかに宿でも取ってのご来店なのでしょう。
などと、手前勝手な人間観察を端的にまとめ上げていると、
「お忙しそうで何よりですね」
男性がはにかんだ笑みを浮かべながら、私に向けて注文伝票を持った左手を差し出してきた。
私は「おかげさまで」と、手短ながらも抱えた慌しさを表に出さないように努めつつ、彼の手から伝票を受け取る。
書き込まれている内容にさっと目を通して金額を伝えれば、男性は左手を懐へと差し込んだ。
そんな彼の姿を視界の端に流しながら、私は改めて思う。
(変わった方もいるものですね)
随分と珍しいお客様。
それが私が受けた、彼に対する率直な印象だった。
柔らかな振る舞いや落ち着きのある雰囲気などを飛び越えて抱えた、少しばかり失礼とも言えそうな感想。
それは何も、彼の旅人風な装いだったりだとか、ましてや右腕の無い隻腕だという見た目に起因してのものではない。
(まさか、進んでコーヒーを注文する人がいるとは)
そうなのである。
なんとこの人、こちらから押し売りしたわけでもないのに、自ら進んで真っ黒で熱々な、リニア特性のあの飲み物をオーダーしたのである。
(苦いのが苦手なのですよね?)
注文を受けに行ったとき、メニュー表を指差して「これはどんな物か」と問われた。
だから私は、それが当店オリジナルの珍しい飲み物である事と、加えてとても独特の風味があることを口頭で伝えた。
その上で、苦い物は大丈夫なのかと伺いを立てて、彼はそれに対して「苦い物は苦手」だと答えたはずだったのだが。
(それでどうして「では、これを下さい」となるのでしょうか?)
などと。
注文決定までに見た一連の経緯に苦慮しつつも、左手を懐の中でゴソゴソと動かしている男性に、私は思わず問いかけてしまう。
「お口に合いましたでしょうか?」
すると男性は腕の動きを止めて、一瞬だけ両目をきょとんとさせる。
しかし次には投げられた問いかけが件の飲み物に付いての感想なのだと悟ったようで、
「ああ、そうですね。個人的には悪くないと思いましたよ」
社交辞令全開な感想と共に、少しばかり困り顔に見える笑顔を私へと向けた。
(これはやっぱり、口に合わなかった可能性が大ですかね)
笑顔の端で口元を引きつらせているわけでもないのだが、私は何となくそう察した。
まあ苦いのが苦手だという立場でのチョイスだったのなら、この反応も当然の帰結には違いない。
ならば感想の深追いは止めておこうかなどと考えた矢先に、お客様の方から会話を繋げてきた。
「ですが、お店のオリジナル商品というのは夢があって良いですね」
私も自分の店を持てたら、そういった商いに挑戦したいものです、と。
そんな言葉を口にしながら懐から左手を抜く男性。
握られていた金額分の銅貨が会計台に並べられる様を眺めつつ、何となく思う。
(旅の商人さんでしょうか?)
見るからに旅人風な出で立ちの、この男性。
自分のお店に夢があるなんて言い回しが出てくる辺り、彼の生業は押して知るべきと言ったところでしょうか?
なんて事に思考を流しつつも、
「丁度ですね。ありがとうございます」
と、お決まりの謝辞を声に乗せ、私は支払いに充てられた銅貨に指先を伸ばす。すると、
「ところで、物は相談なのですが」
少しばかり声色を落とした彼の声が聞こえた。
私は銅貨を拾い集めにかかっていた指先の動きを止めて視線を持ち上げる。
するとそこには、少し申し訳無さそうに歪められたお客様の顔。
「何でしょうか?」
問いかければ、彼は奇妙な頼みごとを申し出てきた。
「その伝票、譲ってもらう分けにはいきませんか?」
「はい?」
告げられた言葉の意味を理解できず、私は怪訝に眉根を寄せる。
すると彼は顔面に貼り付けた困り顔の色味を深め、「いや、実は」と説明を重ねる。
「その注文伝票の裏に、ちょっとメモ書きをしてしまいまして。それで出来れば、その伝票を譲ってもらえると助かるのですが」
との申し込み。
聞けばどうやら、店内で急に覚書をしたためる案件に出くわしたものの、ところがうっかり愛用の手帳を宿に忘れてきてしまったとの事らしく。
「筆記具は手持ちが合ったのですが、手頃なメモ用紙の持ち合わせがなく。それでつい」
という経緯のようである。
私は彼から受け取っていた注文伝票を何気なく裏返してみる。
すると確かに、手の平サイズで縦長な用紙の片隅に一つ、何やらへんてこな記号らしきものが書き込まれていた。
(何でしょう、これ?)
目にした瞬間、何日か前に降って沸いた本探しの一件が軽く頭を過ぎりはするものの、しかし。
(さすがに文字には見えませんね、これは)
上部がヘニョヘニョと歪んだ縦長の三角形を土台に、その上から何かを書き足しているような掴みどころの無い形。
目の当たりにしたそれは、やはり文字と言うよりも何かしらの記号や紋章のような物を硬筆でデタラメに写し書きしたような印象を受ける。
(というか。何だかどこかで見たことがあるような形な気が……)
などと一瞬考え込んでいると、男性が控えめな声で続けた。
「いやはや、勝手な真似をして申し訳ありません。手帳を忘れるとは、行商人失格ですね」
あ。やっぱり旅の商人さんでしたか。
何て感じで、想像通りだった彼の職業に一人で納得してみるも。しかし、これはどうした物でしょう?
男性が譲って欲しいと言う注文伝票。言うまでもなく、この一枚は店仕舞い後の採算合わせに使用する予定のものではある。が。
(まあ一枚くらいなら、私が覚えておけば問題はないですかね)
何せ注文内容がコーヒーだけという稀な内容なのだ。
それならこの一枚を譲った事さえ忘れないでおけば、採算合わせに支障が出ることもないようには思う。
手早くそんな考えをまとめ上げ、私はお客様に返答を告げる。
「お持ちいただいても構いませんよ」
小さく笑いかけながら「どうぞ」と伝票を差し出せば、男性は困り顔をパッと綻ばせた。
「助かります」
左手を丁寧に動かしてメモ用紙を受け取り、一つ深めに頭を下げる彼。
続けられた「また寄らせていただきます」とのお言葉に、私が「はい、よろしくお願いします」と返せば、もう一度だけ軽く頭を下げて寄こした。
そうして踵を返し、そのまま店の正面扉へ向かって歩き出すお客様。
後ろ姿の右側で揺れる空っぽの袖を何となく見送りながら、私は「さて」と視線を店内へと向け直す。
すると今度は、店奥のテーブルを利用していたお子様連れのご婦人が席を立つ様子が視界に飛び込んできた。
(おっと。あの感じなら、すぐに来そうですね)
あちらのお客様も退店されるつもりなのだろうと察し、それならばこの場所で待機した方が効率的かと判断する。
一時の手持ち無沙汰を持て余し、意味もないのに下げ物で満載のトレーを、もう少しだけ会計台の端に寄せてみたりする。
すると続けて、また他のテーブルのお客様も退店される気配を見せ始めたことに気が付いた。
(うわ。いっぺんに来るパターンですか、これは)
お店が賑わった後などに不思議とありがちな、まるで申し合わせでもしているかのようなタイミングで群がってくる怒涛の退店ラッシュ。
その訪れの気配を感じ取りながら、私はその場でもう一つだけ姿勢を正すのだった。
入り口脇の会計台まで小走りで駆け寄りながら、お客様へと声をかける。
見ればあちら様は、しばしの待ち時間に気分を害した様子もなく、「いえいえ」と軽く会釈を返してくれた。
「すぐに会計いたします」
口早に告げながら、下げたばかりのカップや小鉢で溢れるトレーを、会計台のすみに乗せ置く。
改めて姿勢を正して向き直れば、少し変わった男性のお客様の姿を正面に捉えた。
旅慣れを感じさせる装いに年季の入った外套を羽織った、私よりも一回りくらいは歳を重ねていそうな壮年の男性。
上等とは言えなさそうな旅装束をまといながらも、決してみすぼらしく見えることもなく。
細やかな手入れを伺わせる身だしなみや穏やかな物腰からは、彼の日常における誠実さすらも透けて見えるような気がしなくもない。
(旅人さんでしょうか?)
その割には手荷物が見当たらないけれど、まぁどこかに宿でも取ってのご来店なのでしょう。
などと、手前勝手な人間観察を端的にまとめ上げていると、
「お忙しそうで何よりですね」
男性がはにかんだ笑みを浮かべながら、私に向けて注文伝票を持った左手を差し出してきた。
私は「おかげさまで」と、手短ながらも抱えた慌しさを表に出さないように努めつつ、彼の手から伝票を受け取る。
書き込まれている内容にさっと目を通して金額を伝えれば、男性は左手を懐へと差し込んだ。
そんな彼の姿を視界の端に流しながら、私は改めて思う。
(変わった方もいるものですね)
随分と珍しいお客様。
それが私が受けた、彼に対する率直な印象だった。
柔らかな振る舞いや落ち着きのある雰囲気などを飛び越えて抱えた、少しばかり失礼とも言えそうな感想。
それは何も、彼の旅人風な装いだったりだとか、ましてや右腕の無い隻腕だという見た目に起因してのものではない。
(まさか、進んでコーヒーを注文する人がいるとは)
そうなのである。
なんとこの人、こちらから押し売りしたわけでもないのに、自ら進んで真っ黒で熱々な、リニア特性のあの飲み物をオーダーしたのである。
(苦いのが苦手なのですよね?)
注文を受けに行ったとき、メニュー表を指差して「これはどんな物か」と問われた。
だから私は、それが当店オリジナルの珍しい飲み物である事と、加えてとても独特の風味があることを口頭で伝えた。
その上で、苦い物は大丈夫なのかと伺いを立てて、彼はそれに対して「苦い物は苦手」だと答えたはずだったのだが。
(それでどうして「では、これを下さい」となるのでしょうか?)
などと。
注文決定までに見た一連の経緯に苦慮しつつも、左手を懐の中でゴソゴソと動かしている男性に、私は思わず問いかけてしまう。
「お口に合いましたでしょうか?」
すると男性は腕の動きを止めて、一瞬だけ両目をきょとんとさせる。
しかし次には投げられた問いかけが件の飲み物に付いての感想なのだと悟ったようで、
「ああ、そうですね。個人的には悪くないと思いましたよ」
社交辞令全開な感想と共に、少しばかり困り顔に見える笑顔を私へと向けた。
(これはやっぱり、口に合わなかった可能性が大ですかね)
笑顔の端で口元を引きつらせているわけでもないのだが、私は何となくそう察した。
まあ苦いのが苦手だという立場でのチョイスだったのなら、この反応も当然の帰結には違いない。
ならば感想の深追いは止めておこうかなどと考えた矢先に、お客様の方から会話を繋げてきた。
「ですが、お店のオリジナル商品というのは夢があって良いですね」
私も自分の店を持てたら、そういった商いに挑戦したいものです、と。
そんな言葉を口にしながら懐から左手を抜く男性。
握られていた金額分の銅貨が会計台に並べられる様を眺めつつ、何となく思う。
(旅の商人さんでしょうか?)
見るからに旅人風な出で立ちの、この男性。
自分のお店に夢があるなんて言い回しが出てくる辺り、彼の生業は押して知るべきと言ったところでしょうか?
なんて事に思考を流しつつも、
「丁度ですね。ありがとうございます」
と、お決まりの謝辞を声に乗せ、私は支払いに充てられた銅貨に指先を伸ばす。すると、
「ところで、物は相談なのですが」
少しばかり声色を落とした彼の声が聞こえた。
私は銅貨を拾い集めにかかっていた指先の動きを止めて視線を持ち上げる。
するとそこには、少し申し訳無さそうに歪められたお客様の顔。
「何でしょうか?」
問いかければ、彼は奇妙な頼みごとを申し出てきた。
「その伝票、譲ってもらう分けにはいきませんか?」
「はい?」
告げられた言葉の意味を理解できず、私は怪訝に眉根を寄せる。
すると彼は顔面に貼り付けた困り顔の色味を深め、「いや、実は」と説明を重ねる。
「その注文伝票の裏に、ちょっとメモ書きをしてしまいまして。それで出来れば、その伝票を譲ってもらえると助かるのですが」
との申し込み。
聞けばどうやら、店内で急に覚書をしたためる案件に出くわしたものの、ところがうっかり愛用の手帳を宿に忘れてきてしまったとの事らしく。
「筆記具は手持ちが合ったのですが、手頃なメモ用紙の持ち合わせがなく。それでつい」
という経緯のようである。
私は彼から受け取っていた注文伝票を何気なく裏返してみる。
すると確かに、手の平サイズで縦長な用紙の片隅に一つ、何やらへんてこな記号らしきものが書き込まれていた。
(何でしょう、これ?)
目にした瞬間、何日か前に降って沸いた本探しの一件が軽く頭を過ぎりはするものの、しかし。
(さすがに文字には見えませんね、これは)
上部がヘニョヘニョと歪んだ縦長の三角形を土台に、その上から何かを書き足しているような掴みどころの無い形。
目の当たりにしたそれは、やはり文字と言うよりも何かしらの記号や紋章のような物を硬筆でデタラメに写し書きしたような印象を受ける。
(というか。何だかどこかで見たことがあるような形な気が……)
などと一瞬考え込んでいると、男性が控えめな声で続けた。
「いやはや、勝手な真似をして申し訳ありません。手帳を忘れるとは、行商人失格ですね」
あ。やっぱり旅の商人さんでしたか。
何て感じで、想像通りだった彼の職業に一人で納得してみるも。しかし、これはどうした物でしょう?
男性が譲って欲しいと言う注文伝票。言うまでもなく、この一枚は店仕舞い後の採算合わせに使用する予定のものではある。が。
(まあ一枚くらいなら、私が覚えておけば問題はないですかね)
何せ注文内容がコーヒーだけという稀な内容なのだ。
それならこの一枚を譲った事さえ忘れないでおけば、採算合わせに支障が出ることもないようには思う。
手早くそんな考えをまとめ上げ、私はお客様に返答を告げる。
「お持ちいただいても構いませんよ」
小さく笑いかけながら「どうぞ」と伝票を差し出せば、男性は困り顔をパッと綻ばせた。
「助かります」
左手を丁寧に動かしてメモ用紙を受け取り、一つ深めに頭を下げる彼。
続けられた「また寄らせていただきます」とのお言葉に、私が「はい、よろしくお願いします」と返せば、もう一度だけ軽く頭を下げて寄こした。
そうして踵を返し、そのまま店の正面扉へ向かって歩き出すお客様。
後ろ姿の右側で揺れる空っぽの袖を何となく見送りながら、私は「さて」と視線を店内へと向け直す。
すると今度は、店奥のテーブルを利用していたお子様連れのご婦人が席を立つ様子が視界に飛び込んできた。
(おっと。あの感じなら、すぐに来そうですね)
あちらのお客様も退店されるつもりなのだろうと察し、それならばこの場所で待機した方が効率的かと判断する。
一時の手持ち無沙汰を持て余し、意味もないのに下げ物で満載のトレーを、もう少しだけ会計台の端に寄せてみたりする。
すると続けて、また他のテーブルのお客様も退店される気配を見せ始めたことに気が付いた。
(うわ。いっぺんに来るパターンですか、これは)
お店が賑わった後などに不思議とありがちな、まるで申し合わせでもしているかのようなタイミングで群がってくる怒涛の退店ラッシュ。
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