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第30章 ファジャルたち姉妹とともに不安な夜を過ごした、あの広間だった
30-4 剥奪
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血しぶきが吹き上がったりはしなかった。
リニはまるで父親を抱きしめるかのように、腕で頸動脈と気管を絞めて国王の命を執行した。
かつて港務長官カシム・ビン・アルイスカンダリーであった肉体は、今や九十九の魂が飛び去った単なる物体となって床に転がっていた。
誰ひとり、声ひとつ上げなかった。
王女は国王のかたわらに棒立ちのまま、ファジャルは床に倒れ伏したまま、身動きひとつしない。
クンボカルノ王子が「この国はおしまいですな」とつぶやいて、巨体を揺すって広間を出ていった。
アディはリニの隣にしゃがみ、
「姐さん……」
と声をかけて彼女の肩に手を置いた。
リニは振り向かず、亡骸に向かい、両掌を天に向けて祈りを唱え始めた。
「……主はいとも偉大なり。主より他に主なる者なし……」
僕は、肩を震わせているファジャルのそばまで行った。でも言葉をかけることも、手を伸ばして肩や髪に触れることもできなかった。
国王の声が聞こえた。
「キャプテン、本日はまことに申し訳ないが、いったんお引取り願えまいか。貴国との条約については後日、新たに摂政となる妹から改めて話をさせましょう」
王の言葉がよく分からなかったキャプテンに、マコーミック氏が英語で説明して、「大佐、私の日本人の友人は、王女の側近です」と付け加えた。「わが帝国にも、この島にも、双方に利益をもたらす道が、必ずあると思います」
「後で聞こう」
キャプテンは出て行き、またリニの祈りの声だけが響いた。
「ムラティ、ファジャルに裁きを申し渡しなさい」
「……はい、お兄さま」
王女はファジャルのそばに立って、静かに言った。
「ファジャル。あなたから、臣民としての地位を剥奪し、奴隷身分とします」
「王女」僕は声を上げた。「それでは、あまりにも――」
「かわいそうなファジャル」と王女はつぶやいた。「女奴隷ファジャル。あなたの身柄を、王室から、日本国人ミナミに下げ渡します。あとはあなたの主人の命に従いなさい」
それだけ言うと、王女は玉座に戻り、王の膝に顔を埋めてすすり泣き始めた。
「ミナミ様」泣き疲れた声で言って、ファジャルは顔を上げた。「形は違えど、ようやくわたくしは、ミナミ様のものになることができましたね」
僕は彼女を抱き起こし、手首の縛めをほどいた。
「ファジャルさん、あなたを自由の身にします。僕があなたの主人なら、その権利があるはずです」
「いいえ。わたくしを手放すならば、ワニたちの顎門に戻してください。それがわたくしの本来の運命だったのです」
僕はやりきれなくて、腹が立って、僕の所有物になってしまった、熱帯の果実の匂いのする甘やかな体を抱きしめた。
ファジャルは、僕の耳のそばでささやいた。
「……ミナミ様、わたくしを、あなたのお国へ連れて帰ってください。一緒に来いとお命じになってください……」
熱い息が、そして冷たく濡れた唇が、僕の耳に触れた。彼女の左手の五本の指が、一本一本、僕の髪の毛の間に分け入ってくる。
かきっ、と金属の音がした。
「ファジャル様、おやめください!」
「ミナミ、馬鹿、何やってる!」
リニとアディの声を聞いて、僕はファジャルから体を離した。
いつの間に奪ったのか、ファジャルの右手にはマコーミック氏の拳銃があった。
僕に抱かれながら彼女は、撃鉄を上げ、引き金に指をかけていたのだ。
銃口を玉座に向けるつもりなのか、僕に、あるいは彼女自身に向けるつもりなのか。
分からなかったけど、僕は反射的に叫んでいだ。
「茉莉! あぶない!」
アディとリニが走ってくる。僕は夢中で、拳銃を持ったファジャルの腕を捕えてねじ伏せようとした。
僕とファジャルの間で、ぽん、と何かが弾けた。
そして静かになった。
リニはまるで父親を抱きしめるかのように、腕で頸動脈と気管を絞めて国王の命を執行した。
かつて港務長官カシム・ビン・アルイスカンダリーであった肉体は、今や九十九の魂が飛び去った単なる物体となって床に転がっていた。
誰ひとり、声ひとつ上げなかった。
王女は国王のかたわらに棒立ちのまま、ファジャルは床に倒れ伏したまま、身動きひとつしない。
クンボカルノ王子が「この国はおしまいですな」とつぶやいて、巨体を揺すって広間を出ていった。
アディはリニの隣にしゃがみ、
「姐さん……」
と声をかけて彼女の肩に手を置いた。
リニは振り向かず、亡骸に向かい、両掌を天に向けて祈りを唱え始めた。
「……主はいとも偉大なり。主より他に主なる者なし……」
僕は、肩を震わせているファジャルのそばまで行った。でも言葉をかけることも、手を伸ばして肩や髪に触れることもできなかった。
国王の声が聞こえた。
「キャプテン、本日はまことに申し訳ないが、いったんお引取り願えまいか。貴国との条約については後日、新たに摂政となる妹から改めて話をさせましょう」
王の言葉がよく分からなかったキャプテンに、マコーミック氏が英語で説明して、「大佐、私の日本人の友人は、王女の側近です」と付け加えた。「わが帝国にも、この島にも、双方に利益をもたらす道が、必ずあると思います」
「後で聞こう」
キャプテンは出て行き、またリニの祈りの声だけが響いた。
「ムラティ、ファジャルに裁きを申し渡しなさい」
「……はい、お兄さま」
王女はファジャルのそばに立って、静かに言った。
「ファジャル。あなたから、臣民としての地位を剥奪し、奴隷身分とします」
「王女」僕は声を上げた。「それでは、あまりにも――」
「かわいそうなファジャル」と王女はつぶやいた。「女奴隷ファジャル。あなたの身柄を、王室から、日本国人ミナミに下げ渡します。あとはあなたの主人の命に従いなさい」
それだけ言うと、王女は玉座に戻り、王の膝に顔を埋めてすすり泣き始めた。
「ミナミ様」泣き疲れた声で言って、ファジャルは顔を上げた。「形は違えど、ようやくわたくしは、ミナミ様のものになることができましたね」
僕は彼女を抱き起こし、手首の縛めをほどいた。
「ファジャルさん、あなたを自由の身にします。僕があなたの主人なら、その権利があるはずです」
「いいえ。わたくしを手放すならば、ワニたちの顎門に戻してください。それがわたくしの本来の運命だったのです」
僕はやりきれなくて、腹が立って、僕の所有物になってしまった、熱帯の果実の匂いのする甘やかな体を抱きしめた。
ファジャルは、僕の耳のそばでささやいた。
「……ミナミ様、わたくしを、あなたのお国へ連れて帰ってください。一緒に来いとお命じになってください……」
熱い息が、そして冷たく濡れた唇が、僕の耳に触れた。彼女の左手の五本の指が、一本一本、僕の髪の毛の間に分け入ってくる。
かきっ、と金属の音がした。
「ファジャル様、おやめください!」
「ミナミ、馬鹿、何やってる!」
リニとアディの声を聞いて、僕はファジャルから体を離した。
いつの間に奪ったのか、ファジャルの右手にはマコーミック氏の拳銃があった。
僕に抱かれながら彼女は、撃鉄を上げ、引き金に指をかけていたのだ。
銃口を玉座に向けるつもりなのか、僕に、あるいは彼女自身に向けるつもりなのか。
分からなかったけど、僕は反射的に叫んでいだ。
「茉莉! あぶない!」
アディとリニが走ってくる。僕は夢中で、拳銃を持ったファジャルの腕を捕えてねじ伏せようとした。
僕とファジャルの間で、ぽん、と何かが弾けた。
そして静かになった。
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