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第29章 ジャスミンのノート(その3)

29-5 次の週に わたしは休みをとって

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 次の週に わたしは休みをとって 手紙の指示の通りに 兄が卒業した 外国語大学の 高石教授に会いに行った。

 教授は白髪の ちょっと変わった おじさんだったけど 声とか話し方は優しかった。
 研究室の壁いっぱいの本棚には 外国語の本がならんでいて 刀とかきれいな布とか アジアの民芸品があっちこっちに 飾ってあった。

 インドネシアの地図を染めたテーブルクロスに 教授はコーヒーを置いてくれた。

「トラジャコーヒーですよ。トラジャはご存じでしょう?」
「すみません わたし あんまりくわしくなくて……。」
「いやいや。」

 教授は言った。
 なにが いやいや なのか 分からない。

「お兄さんは とんだことになりましたね。」と 教授は残念そうに 言った。「大学院に残ってれば 今ごろ ねえ。」

 何て答えたらいいのか 分からなかった。
 教授も 困ってるみたいだった。なんとなく 子どもみたいな人だ。

「あなたのことは お兄さんから よく聞いてましたよ。妹には苦労させたくないので って いつも言っててね。」
「そうですか……。」
「メールに書いとられた件ですが。」と言って 教授はコーヒーをずるずると 吸った。「クンバンムラティ島という島は 今は存在しません。」
「今は――?」
「しかし インドネシア 北ヌサ・トゥンガラ州に マリムラティ島という島があります。このあたりです。」

 教授はテーブルクロスの一点を 指さした。

「その島が むかしクンバンムラティ島と呼ばれていたんですか?」
「そういう記述は 調べた限りでは ないのですよ。しかしここに 20世紀初めまで カンバンマラティ王国という国があったと イギリスの記録にあります」
「それは――」
「表記は少し違うが 同じ名と言っていいでしょう。ムラユ語 すなわちいわゆるマレー語ですが この言語では あいまい母音のeは しばしばaに通じます。」

 と言って 教授はホワイトボードに字を 書きだした。

「すみません わたし 語学は 苦手で……。」
「それは残念。でも妹さんも 大学進学をお考えなら――。」
「あの わたし もう短大卒業して 社会人なので。」
「いやいや。とにかく このマリムラティ島が あなたが言うクンバンムラティ島である可能性は高いですな。『クンバン』は『花』 『ムラティ』は『ジャスミン』という意味です。『マリムラティ』の由来は分かりませんが 中国語でジャスミンは『茉莉マーリー』と言いますから 関連があるかもしれません。」
「わたしの名前です それ。」
「は?」
茉莉まつりと書いて 茉莉まり。わたしの名前です。南茉莉。」
「そうですか。いやいや。」

 と答えたけど 教授はあんまり 興味がなさそうだった。

「北ヌサ・トゥンガラ州立大学に友人がいますから マリムラティ県庁の観光担当者に声をかけてもらいます。案内してくれるでしょう。まあいくらか謝礼はお渡ししてください。」
「ありがとうございます。」
「どうぞ飲んでくださいよ。」と言って 教授はまた コーヒーをすすった。「いやいや お兄さんの手がかりがあればいいですな。今のままでは 妹さんを残して彼も無念でしょう。」

 ──────────────

 シンガポールで乗り換えて 2時間で クンティラナック空港に 着いた。

 大きめの駅くらいの ほこりっぽいターミナルに スタバっぽいカフェがあったので そこで4時間 時間をつぶして お兄ちゃんの手紙を何回も 読み返した。

 マリムラティ島行きの便は バスに つばさとプロペラをつけたみたいな ちっちゃい飛行機だった。
 熱い地面から階段を上って 中に入ったら シートは破れてるし 窓も汚い。ちゃんと飛ぶのか ちょっと心配になった。

 化粧の濃い 美人のCAさんが ものすごい早口の英語(ぜんぜん 分からない)で安全説明をしながら通路を歩いてきて わたしのシートベルトを 乱ぼうに ぐいぐいひっぱってから 100点のかわいい笑顔で 「OK!」って言った。

 プロペラが 回りはじめる。
 ものすごい音。
 お兄ちゃんが乗ったのも こんなのだったんだろうか。
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