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第10章 何が起きたのか、その瞬間にはたぶん誰もわからなかった

10-3 真珠

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 どちらにしても、明治三十七年の日本に帰ったところで、僕は生きてはいけないだろう。
 どうせ、僕が百二十何歳かになるまで茉莉は生まれてこないのだ。
 ならばいっそこの島に残って、ムラティ王女に仕えて生きるのもいいかもしれないという気もした。未来を知っている僕は、何かの役に立てるかもしれない。

「今わが国の近海はやや危険なのだ。報告によると、海民オラン・ラウトの海賊船団がこの海域を遊弋ゆうよくしている。そしてこれを隣国ドゥルハカ島の水軍が追っているとのことだ。今船を出すのは――」

 話の途中で、花模様が彫刻された扉が開いて、ファジャルが黙礼しながら入ってきた。
 ガラスの器を二つ手にしている。色と香りで、それがコーヒーであることが分かった。
「君は珈琲コピを知っているかね」
「はい。国でもよく飲みます」

 ファジャルは化粧を落としていた。テーブルに器を置く時、結われていない髪の先が、ほんのちょっとだけ僕の腕に触れた。

 コーヒーは、舌触りはざらざらしていたが、香りも味も良かった。飲み下すと急に肩の力が抜けて、まぶたが開けていられなくなり、僕は自分でも驚くほど深くて長いため息をついた。
 今日は色々ありすぎた。もう何も見たくない。何も聞きたくない。

「ファジャル、下がっていい」
 港務長官の声が聞こえて、僕は目を開けた。
 給仕の用は済んだはずなのに、ファジャルは何か言いたげに、僕と父親の顔に交互に目を向けていた。僕は「コーヒー、ありがとう」と言った。彼女は結局何も言わないまま合掌して一礼し、部屋を出ていった。

 港務長官が口を開いた。
「あの子は四人の中でも最も頭が悪い。だが心根は清らかだ。それ故に私の手には負えん」
「お綺麗なお嬢さんです」
「あれ達の母親が美しかったからな。しかし私には女の美しさというものが理解できん。金銀や真珠などと同じようなものとしか思えない。もちろんあの子たちの財産ではあるのだが――」
 港務長官は器を置き、僕をまっすぐ見た。
「君は今後とも、やしきの中では自由にしてもらって構わない。しかし申し訳ないが、当分は外に出ないようお願いする。それだけだ。君の立場は何ら変わらん」
「はい」
「君の国とロシアルシアとの間に戦争が始まれば、君の帰国はさらに延びよう」と港務長官は言った。「君の国は英国イングリスの友邦だそうだな。君は英国の言葉が分かるか?」
「少しは」
「我が国は未だ英国とは交渉が無いが、我々とて彼らの強大さを知らぬわけではない。印度ヒンディアシンガポールシガプラのみならず、いずれは中国チナやジョホールも彼らの手に落ちる」

 ちゃんと国際情勢を知ってるんじゃないか。僕はあきれた。王都では何も知らないふりをしていたらしい。

「もちろん君の帰国のために我々はできる限りの手を尽くす。しかし君の滞在が長引けば、我々もまた君の力を借りることもあるかも知れない」そう言って、港務長官は笑った。「ファジャルなどは、愚かにもそれを願っているようだよ」
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