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第5章 見知らぬ大人たちの間を歩く子どもたちのように

5-3 夢(部屋)

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 茉莉の夢を見た。

 気がついたとき、僕はベッドの上に横になっていた。部屋は暗かったが、ヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計の光でぼんやりと様子が分かった。出張のときの定宿にしているシンガポールのホテルの部屋のようだった。

 時計の数字は「7:76」を示していた。今に「7:77」になるだろうと思ってしばらく見つめていたが、変わらなかった。
 サイドボードの上にあるスイッチを探り当てて明かりをつける。電圧が低いのか、ぼんやりと暗いオレンジ色の光に、白い壁に取り付けられたテレビと抽象画の額、書物机の上の鏡、黒いミニバーが浮かび上がった。

 本当にここはシンガポールなのか。窓の外の景色を確かめようとベッドを降りて部屋を一周してみたが、右も左も白い壁で、窓は無かった。クローゼットとバスルームの間の通路の奥にあるのも、ドアではなかった。ドアがあるべき場所にドアは無く、大きな全身鏡がはめ込まれているだけだった。鏡に写った僕はバスローブを着ていて、顔には表情が無かった。
 振り返ってヘッドボードの時計を見ると、表示された数字はまだ「7:76」のままだった。
 書物机の上のリモコンを取り、テレビの電源スイッチを押してみる。ぷつんと音がして画面が少し明るくなったが、それだけだった。ベッドに腰掛けて目を凝らし耳を澄ませてみても、何も見えず、何も聞こえない。

 何も入ってこない、何も出ていかない部屋。この部屋には、外側というものがないらしい。ここがシンガポールかどうかなんてことに、どうやら意味は無いようだった。

 ベッドに腰掛けて目を閉じる。何も聞こえない。空調の音すら。自分の呼吸の音ばかりがやたらに大きく聞こえる。
 でもしばらくそうしているうちに、目でもなく、耳でもなく、鼻から入ってくる情報の存在に気がついた。お香をくような匂いが、どこからか漂ってきていたのだ。

 匂いのもとを嗅覚だけでたどるというのは、口で言うほど簡単ではない。気流にはむらがあり、匂いは強まったり弱まったり、ややもすれば全く消えてしまったり、身動き一つ、呼吸一つでめちゃくちゃにかき乱されてしまったりする。しかしこのあやふやな部屋の中で、この匂いだけは確かなもののように感じられた。

 デジタル時計はまだ「7:76」を示している。
 僕は時間をかけて、匂いが流れ出て来る源を探し出した。それはクローゼットだった。
 合板の戸を開くと、匂いはさらにはっきりとする。東洋的な、あるいは日本的な、白檀のような香木の香りだった。
 クローゼットの奥の壁の、木目調の化粧板には、ちょうど僕の目の高さに、短冊大の黄ばんだ縦長の布がられていた。
 そして板の向こうから、何かが聞こえる気がした。

 はっきりさせるためにテレビを消し、ハンガーをかき分けて壁板に耳を当ててみると、かすかに人の声のようなものが聞こえる。抑揚のついた声が、高くなったり低くなったりしながら続く。
 板に貼られた黄ばんだ布には、うっすらと模様のようなものが見えた。縦長の、白っぽい人物像のようなものがあり、その頭部と思われるあたりから、放射状の線が出ている。何かの絵を裏側から見ているらしかった。
 今度はその布に耳を当ててみる。すると声はさっきよりも明瞭に聞こえた。人の声、それも女性。何を言っているかまでは分からないけど、抑揚のパターンや母音の響きは日本語のもののように思えた。

「おいあん、いいえあええ、いええ、おえあえ、え」

 そんなふうに聞こえる音の連なりの中に、耳が慣れるにつれて「…ても…」とか「…るから…」といった日本語の断片が聴き取れるようになった。
 少女に近いような、若い女の声。
「まさか」と思うのと同時に、その声が「おにいちゃん」と言うのを聞いた。と、僕は思った。
「茉莉!」僕は夢中でその壁をどんどんと叩いた。「茉莉! ここだ! ここにいるよ! 茉莉! お兄ちゃんはここだ! 茉莉ちゃん!」
 しかし茉莉は答えなかった。声は聞こえなくなった。僕は爪を立てて、壁にしっかりと貼られた布をばりばりと引きがした。
 手のひらを開いてみて、僕は、その布が何だったかを知った。
 それはわが家の仏壇にまつられている、小さな掛け軸の阿弥陀如来立像だった。

 その瞬間、僕は体を引き裂くような理不尽で激しい恐怖に襲われ、自分の叫び声で目を覚ました。
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