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Prologue

ユーマ 星釣の記憶 2

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『その記憶だけは』

『私が封じるよ』

『何かが無ければ想い出す事は無い』

『幸せだと思える記憶だけを持って』



『君は死んだよ』



 遡る様に、記憶が戻って来る。

 雪景色を過ぎ去り、幾つもの硝子…記憶の破片が景色を映し出す中で、一つの硝子に収束していく。真っ暗な中で輝きを放つその記憶へ、僕の意識は飛び込んだ。






 大きな音が室内に響いた。

 軽い何かが壁にぶつかり、勢い良く跳ねかえり床に倒れ込む音だ。軽いけれども速度を伴ったソレは、身に着けた僅かな布の内に痣を作りながらも立ち上がろうとした。

 その場所、その家でソレはおおよそ人としての扱いを受けてはいなかった。

 もとい、自身が人である事さえも忘れる様な暴虐の中に過ごしていた。

 長髪を結った切れ長の眼をした女性が、小さな少年の近くへと歩いて行く。

 僕は覚えている。この景色が何なのか、そっか…傍から見れば一目瞭然の光景だったんだ。



 ソレは僕だ。確か八歳、僕が死を迎える数年前の僕だ。

 僕は、過去の僕自身を一歩引いた位置から眺めていた。



 だとすればきっとこの記憶は、あの日の記憶―――。


 ユーマ 星釣の記憶 2


 立ち上がるという動作に必要な筋力は、自分の上半身や下半身を支えるだけの筋肉があって初めて出来る事だ。

 一日の大半を座って過ごす僕にそんな筋肉はまともに無く。一日に三度立ち上がれるかという筋肉しか無い。すぐに疲労する僕に、抗う術もある筈は無い…。

 考えてみれば、僕はこの状況を自分にとって幸せだと思う為に…。

 いや、駄目だ。

 考えちゃ駄目だ。

 僕は、幸せだったんだ。

『あははっ、あはははは!本当、便利よね!』

 勢い良く蹴られ、僕は再び床を転がる。

『掃除する時もあんたがいれば楽よねぇ、蹴ってるだけで掃除になるんだから!』

 こんな事を、言われていたんだ。

 あの世界で僕が身に着けた人の感情を読み取る能力が、僕に嫌でも現実を教える。

 ―――死ねばいいんだ―――

 聞きたく無い現実が、僕に届く。

 ―――価値が無いんだ―――

 自分の過去が、自分の信じた幸せを壊して行く。

 ―――どうなってもいい―――

 何も無くても、真っ白だった筈の僕の精神世界に黒い影が差し始める。

 優しさが欠片も無いその空間、暴力だけが支配する空間は見ているのも辛い物だった。

 扉が開かれ姉様が出て行き、入れ換わりで一人の青年が姿を露わした。

 それが、僕に唯一、優しさを教えてくれた青年、優しさの可能性を教えてくれた。その人だ。

 ―――なんてことを―――

 今の僕でも、その青年が優しい人なのだと確信できる。いつも僕に優しくしてくれる人だ。

 ―――怪我をしているけれど、やっぱり彼は―――

 僕の介抱をいつもしてくれた。何度も傷を作る僕を心配してくれていた。

「ありがとう…ございます…」

 僕の怪我した部分に優しく手を添えながら、僕の言葉を受けて静かに頷いてくれた。

 ―――やっぱり、彼はお礼を言えるんだ―――

 優しい彼は、小さな事に感動を覚えてくれていた。

 怪我した部分に添え木をしたり、消毒や包帯による保護を終えて僕を寝かせてくれた。

 僕が眠る場所は段ボールの上だ。それ以外に眠る事が出来る環境なんて存在しないから。

 一度彼は、本を破いて紙で暖かい環境を作ってくれようとした。

 だけど、本は父様から貰った優しさの証拠だから、それを破る事は辞めて欲しかった。

「君は、どうして…」

―――こんな状況から連れだそうとしない僕にお礼を言えるんだ―――

 その本心が、彼の優しさを物語っていた。

 だけど、今の僕は知っているんだ。

 この介抱するという行為が許されていない事を、その、許されていない行為を彼が誰にもバレずに行っていると、勘違いしている事を。

 星釣の家は外では美しき一族だと本にさえ残される偉業を打ち立てて来た。

 だけどその内情は酷い物なんだ。使用人が入れ換わる事は多くある。

 見てはいけない物を見てしまった人や、反抗的態度を取った人、与えられた権限以上の事をしてしまった使用人は皆、行方不明になっているんだ。
 
 そして彼も、この日…。









『良い物を見たんだ』

 夕方頃、僕の部屋に訪れた兄様が眠っていた僕の頭を掴んで持ち上げて、それまで見た事が無い満面の笑みをしていた。

『悠馬、良い事を教えてやるよ』

 痛みの中で僕は、楽しそうな兄様の様子に笑みを漏らしてしまった。

 兄様が楽しそうだと不思議と嬉しい気持ちになったから、だけど、教えられた事実に僕は言葉を失った。

『お前に優しい青年、誰の事だか分かるか?』

 僕は、その当時彼の事が大好きだった。

 だから、兄様が僕に語りかけてくれている事実と、共通の話題でお話が出来る事が嬉しくて満面の笑みで頷いた。

『あいつな、親父の秘書候補だったんだぜ』

 兄様が話してくれたのは彼の星釣の家での役割だった。

 父様の秘書候補として雇われ、僕に本を届けるだけの役割、その職務をしながら父様の関わっている事業計画などを段々と把握するのが彼の役割だった。

 だが、彼はそれ以上の事をしてしまった。

 僕の部屋を清掃する事は許されていたらしく僕の部屋に入る事は問題無かったという。

 だけど、僕を介抱する事は誰にも許されていないんだと言う事も教えてくれた。

 ―――悠馬が死のうが生きていようが、俺達にはどうでもいい事だからな―――



 そして彼が連れて来られた。その光景は、先程見たばかりの『足』の人達を思い出す物だった。



『お前の部屋にいるのが好きそうだからな、それならお前の部屋から出られなくても問題無いだろう?』

 引き摺られてやってきた彼は、苦しそうに呻きながら、それでも僕を見て怒りの感情を覚えはしなかった。

 ただただ僕を心配する感情だけが彼から伝わってきた。

 そして、この夕方の時から僕と彼は共に過ごす事になったんだ。

 ロクな止血もされずに血を垂れ流す彼と、小さな僕の部屋で二人きり。

『悠馬、良い事を教えてやるよ』

 そして、兄様は僕の眼を見て凄く楽しそうに告げたんだ。



『お前に優しくした結果、この青年はお前の目の前で死んで行くんだ』



 それから始まる。地獄の様で、優しさに満ちた時間が何を意味するのかを―――。
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