悪徳令嬢と捨てられない犬

犬咲

文字の大きさ
上 下
5 / 7

生きて、知らない朝にいる。

しおりを挟む
 
 
 頬をなでる陽ざしに目を開いた。

「……ん」

 天窓から差しこむ光の温もり。もぞりとふれた敷き布は、シャボンの匂いがした。
 洗いたての木綿の心地よさに目を細めて、ハッと身を起こす。

「……ここは……?」

 いつのまに眠ったのだろう。覚えていない。

 昨夜、ジャックに抱かれて小さな馬車に乗りこみ、毛布にくるまれて。
 それから、彼は私の背を撫で、出ていった。
 曳き馬にかける声に耳をすましていると蹄の音がして、回る車輪。
 少しのあいだ遠くで人々のざわめきが聞こえていたが、どこかの門を抜け、跳ね橋を渡ったあたりから、人の声が消え、鳥や虫の声へと変わっていった。
 ガタゴトガタゴトと揺られているうちに、ウトウトしてきて。

 そうして、目が覚めたら今。
 シンプルな木枠の寝台で身を起こし、そうっとあたりを見渡す。
 四角い上げ下げ窓からは鳥の声。
 ふらりと寝台から足をおろして、とたとたと近付いた窓から外をのぞけば、窓をふさぐように青々と葉をしげらせた木が見えた。
 どこかの商家の二階だろうか。
 窓枠に手をかけ、視線をおとすと、昨夜ジャックから渡された衣装とは違う、リネンの夜着を身につけていることに気がついた。

「…………」

 首筋に手をやり、さらさらと揺れる毛先にふれる。少年のように短くなった髪に。
 そうして、もう一度、窓の外をみた。
 きらめく陽ざし。小鳥のさえずり。揺れる緑。

「……朝」

 ぽつりと呟く。

「朝なのね」

 窓枠と茂る葉の輪郭がぼやけ、頬を熱い滴が伝う。
 夜は明けた。
 約束された破滅の日は過ぎ、私は生きて、知らない朝にいる。
 ジャックと生きる未来のはじまりの朝に。

「……っ」

 あまりのまばゆさに言葉もなく、きらめく光と揺れる緑を見つめつづけた。



 あふれる涙をぬぐっていると、控えめなノックの音が響いた。
 すん、と鼻をすすって、背を伸ばす。

「はい、どなた?」
「ジャックです……入ってもよろしいですか、お嬢様」
「ええ、もちろん」

 きい、と扉を開けて入ってきたジャックの顔をみてハッとする。

「どうしたの? 目が赤いわ。それに隈も……」

 かけより、手を伸ばして、寸前で思いとどまる。

「あ、ご、ごめんなさい……馴れ馴れしくて……」
「いえ」
「あっ」

 下げようとした手をつかまれ、ぐいと引き寄せられて、とすんと彼の胸にぶつかる。
 おずおずと見上げれば、戸惑ったような瞳が私を見おろしていた。

「ジャック?」
「泣いていたのですか?」
「え?」
「あまりにも貧相な部屋でガッカリしたのですか? こんなやつに付いてきてしまって、失敗だったなぁ、と? もっと金のある男をたらしこんでおけばよかったとでも思ってしまいましたか?」

 くすり、と笑われ、カッと頬が熱くなる。

「そんなこと、あるわけがないじゃない! バカなことを言わないで!」
「では、何の涙です?」
「それは……」
「言えないのですか」
「……嬉しかったの」
「何が?」
「……この朝を迎えられたことが」
「え?」
「ずっと私は、この朝を待ちのぞんでいたの。何もかも昨日で終わりだと思っていたから。この朝を迎えられて、この先は、あなたと一緒に生きていけるかもしれないと思ったら……嬉しくて……」

 ああ、私は何を言っているのだろう。
 小さく首を振り、微笑みかけた。
 
「……ごめんなさい、わけのわからないことを言って。とにかく、これは喜びの涙なの。それだけ、わかってちょうだい」

 ジャックは笑わなかった。
 怖いほどに真剣なまなざしで、私を見つめていた。

「……昨夜、ずっと考えていたのです」
「え?」
「……六年前のお茶の時間を覚えていますか? 夏の日で、お嬢様は、ストロベリーパイを召しあがってらっしゃいました」
「……覚えているわ」
「あのとき、お嬢様はストロベリーパイを床に投げすてましたね」
「……ええ」

 頷き、睫毛を伏せた次の瞬間。

「思えば、あれが始まりでした」

 ジャックの言葉にドキリと鼓動が跳ねた。

「はじまり?」
「ええ。あの時、お嬢様は自分がしたことが信じられない、というように戸惑ってらっしゃいました。あれからです。お嬢様が人が変わったような言動をされるようになって……そのうちに、完全に変わってしまわれた」

 静かな声には、一言では表せないような感情が滲んでいた。怒り、悲しみ、さびしさ、そして、悔いるような響きも。

「……ごめんなさい。あなたを、たくさん傷つけたわ」
「いいえ……とは、申せません。この六年間、正直にいえば、あなたを殺したいほど憎んだこともありました。私の愛したイライザ様は、いなくなってしまった。ここにいるのは、私の知らない美しき暴君、許しがたい悪徳令嬢だ。こんな女は死んでしまえばいいと……」
「……そうね。憎まれて当然よ」

 それほど憎んでいたのに、彼は来てくれたのだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 口にした瞬間、背に回った手に抱きしめられた。

「イライザ様」
「ジャック?」
「あなたを脅かしていたものは、いなくなりましたか?」

 問われ、ひゅっ、と息を呑む。

「あなたを支配していた何かは……昨夜、屋敷と共に燃えてなくなったのですか?」

 とまっていた涙が、あふれだし、ポロポロとこぼれる。
 言葉には出来ない感情が次々とこみあげて、しゃくりあげながら、何度も何度も頷いた。

「……そうですか」

 私を抱きしめる腕の力が痛いほどに強まって。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 やさしい囁きが耳をくすぐった。



「……ねぇ、ジャック」

 散々泣きはらした顔を見られたくなくて、シャツの胸に額を押しつける。

「はい、お嬢様」

 シャツ越しに感じる胸板は、少女のころにふれたときよりも厚みが増しているような気がして、ドキドキとしながら囁いた。 

「あのね……そろそろ、お嬢様と呼ぶのをやめてくれないかしら」
「……イライザ様?」
「それも、よ。……私は、もうお嬢様じゃなくて、あなたの弟? になるのでしょう? それならば言葉遣いだって、なおしてくれないと困るわ」

 昨夜、少しだけ知れた素のままの彼が頭をよぎる。
 荒ぶるジャックは恐ろしかったが、取りつくろっていない、むきだしの彼を見れたことは少しだけ嬉しかった。

「……弟は、近いうちに追いだします」
「えっ」

 厳しい声に顔を上げようとして、ひょいと後頭部にふれた手に押され、ぽすりとシャツに鼻先が埋まる。

「弟には近いうち、できるだけ早く、私の結婚を機に郷里に帰ってもらいます」
「むぐ」
「あなたを弟になんてしたくない」

 ふう、と溜め息が髪を揺らした。

「一刻も早く、名実ともに、あなたを私のものにしたい。あなたと夫婦になりたいのです」

 私もよ、と伝える代わりに、私はジャックの背に腕を回し、精一杯に抱きしめて。
 ふふ、と泣き笑いで言いかえした。

「ジャックったら、忘れてしまったの? 昨夜からもう、私は、あなたのものなのに!」

 すねたように背をパシリとはたけば「そうですね」とジャックが呟いて。
 その声音の苦々しさに、おや、と首を傾げると、ひょいと横抱きに抱えあげられた。
 そのまま一歩踏みだされたところで、慌てて彼の首に腕を回して。

「ジャック、どうしたの?」
「……やりなおしをさせてください」
「えっ」

 何を、と問う間もなく、数歩の後、私は寝台に押したおされていた。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

淡泊早漏王子と嫁き遅れ姫

梅乃なごみ
恋愛
小国の姫・リリィは婚約者の王子が超淡泊で早漏であることに悩んでいた。 それは好きでもない自分を義務感から抱いているからだと気付いたリリィは『超強力な精力剤』を王子に飲ませることに。 飲ませることには成功したものの、思っていたより効果がでてしまって……!? ※この作品は『すなもり共通プロット企画』参加作品であり、提供されたプロットで創作した作品です。 ★他サイトからの転載てす★

借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる

しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。 いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに…… しかしそこに現れたのは幼馴染で……?

義弟の為に悪役令嬢になったけど何故か義弟がヒロインに会う前にヤンデレ化している件。

あの
恋愛
交通事故で死んだら、大好きな乙女ゲームの世界に転生してしまった。けど、、ヒロインじゃなくて攻略対象の義姉の悪役令嬢!? ゲームで推しキャラだったヤンデレ義弟に嫌われるのは胸が痛いけど幸せになってもらうために悪役になろう!と思ったのだけれど ヒロインに会う前にヤンデレ化してしまったのです。 ※初めて書くので設定などごちゃごちゃかもしれませんが暖かく見守ってください。

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

続・一途な王子の想いが重すぎる

なかな悠桃
恋愛
“一途な王子の―”のその後の話です。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

女性執事は公爵に一夜の思い出を希う

石里 唯
恋愛
ある日の深夜、フォンド公爵家で女性でありながら執事を務めるアマリーは、涙を堪えながら10年以上暮らした屋敷から出ていこうとしていた。 けれども、たどり着いた出口には立ち塞がるように佇む人影があった。 それは、アマリーが逃げ出したかった相手、フォンド公爵リチャードその人だった。 本編4話、結婚式編10話です。

ヤンデレお兄様に殺されたくないので、ブラコンやめます!(長編版)

夕立悠理
恋愛
──だって、好きでいてもしかたないもの。 ヴァイオレットは、思い出した。ここは、ロマンス小説の世界で、ヴァイオレットは義兄の恋人をいじめたあげくにヤンデレな義兄に殺される悪役令嬢だと。  って、むりむりむり。死ぬとかむりですから!  せっかく転生したんだし、魔法とか気ままに楽しみたいよね。ということで、ずっと好きだった恋心は封印し、ブラコンをやめることに。  新たな恋のお相手は、公爵令嬢なんだし、王子様とかどうかなー!?なんてうきうきわくわくしていると。  なんだかお兄様の様子がおかしい……? ※小説になろうさまでも掲載しています ※以前連載していたやつの長編版です

処理中です...