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かたうら
しおりを挟む母は、それを「形代占い」と呼んでいた。
占う相手を模した紙の人形を作り、水に浮かべ、その動きによって吉凶を見分ける。
神に愛された巫女を自称する母は、過去を見ることも、未来を占うことさえもできた――らしい。
実際に見せてもらったのは七年前に一度だけ。
依頼主は教えてもらえなかったが、とある女性に「行方のわからない息子を探して欲しい」と頼まれたそうだ。
夕食の後に出かけて、帰ってきた母に「今夜すぐにでもってことだから、今からするけど、見る?」と聞かれて頷いた。
当時、私は母の霊験を本気で信じてはいなかったが、それなりに興味はあったのだ。
儀式の場所は、当時、私が母と住んでいた小さな平屋の窓辺だった。
すりきれた畳に置かれた盥の水に、月明かりがキラキラと光っていた。
母は寝間着代わりの浴衣姿で、祭壇も仰々しい供え物もなかった。
盥の横に澄んだ酒はあったが、ただのカップ酒だった。添えられていたものも果物や鯛ではなく、チーズかまぼこだった。
――お母さん、こんなのでいいの?
こんな粗末な家と粗末な供物で、本当に神が降りるのだろうか。
並んで盥をのぞきこみ、尋ねた私に、母は自信たっぷりに頷いた。
――神様は私に憑いているの。だから、私がいるところが神殿で、私が好きなものは神様だって好きなものなの。灯花だって、高くても嫌いな物より、安くっても好きな物を貰った方が嬉しいでしょう?
――うん。
――まぁ、ひとまえでやるときは、それらしく見えるようにやるけどね。
そう母は笑って、にわかに表情を引きしめた。
形代(かたしろ)が動きはじめたら声を出してはダメだから――と注意を受け、しっかりと頷き、盥に目を向けた。
中肉中背の男の形に切り抜いた黒染めの和紙を、母が畳の上から摘まみ上げ、うやうやしい手つきで盥のまんなかに浮かべる。
よく見れば和紙には墨で、誰かの名前が書かれていた。
かぷっ、と気の抜ける音と共にカップ酒の封が切られて、とぷとぷと形代の周りへ、円を描くように注がれる。
すとん、と空の容器が畳に置かれ、母が静かに手を合わせる。
特別な呪文は、なかった。
二人の視線を浴びた形代は、しばらくはただ浮いているだけだったが、不意に、さざなみに煽られるように揺れはじめた。
あ、と上げかけた声を口を押さえて呑みこんで見つめる。
ゆらゆらと左右に揺れ、ぐるりと回り、真っ黒な和紙から黒い墨が、するすると溶けだした名前が、糸がほどけるように広がっていく。
やがて、名前の最後の一筆が形代を離れ――瞬間、ことん、と真っすぐ落ちるように、形代は盥の底へと沈んだ。
――あぁ、もう、沈んでる。
ぽつり、と響いた母の言葉に、ハッと息を呑む。
いつの間にか呼吸をとめていたらしく、ドキドキと胸が苦しかった。
大きく息を吸って、ふう、と吐きだし、母に尋ねた。
――沈んでるって、もう、亡くなってるってこと?
――そう。見たでしょう。ああやって、海で波に揺られて、まかれて、命が剥がれて……沈んだんだよ。
淡々と語る母は凪いだ顔をしていた。
――かわいそうだね。
――そうだけど、これで、諦めもつくでしょう。
――頼んできた人が?
――うん。生きてるか死んでるか分からないのに待ちつづけるのは、良く言えば希望がある、だけど、悪く言えば諦めのつけようがない。未練に縛られた生き地獄だから。占いはね、生きている人間が楽になるためにするものなんだよ。
――大事な人が亡くなったってわかって、楽になる?
――残酷な結果だろうと、堂々巡りよりはね。どんな形でも、前に進めるだけ楽になるんじゃないかな。
――そうかな。
――だいたい、あの人も私に頼んできた時点で、薄々覚悟はしてたと思うし……子どもは他にもいるし、はっきりさせて、しっかり悲しんで、もう前に進みたかったんじゃない?
――そっか……悲しいけど、強いもんだね。
――強くなくっちゃ、母親なんてやってられないってぇ。
そういって母は私の頭を撫でて、ニコリと笑った。
それから数年の後に母は母を卒業して、島を去っていったが、盥や和紙は置いていった。
汐と籍を入れ、この家に移るときにも捨てずに持ってきたはずだ。
――絶対、捨ててない。あるはず……。
押し入れにはなかったが、納戸を開けて七輪をどかせば、「かたうらセット」とマジック書きされたミカン箱が見つかった。
積もった埃を払って居間へと運ぶ。
幸いなことに、和紙も盥も虫やネズミに食われることなく無事だった。
盥をゆすいで水をはり、冷蔵庫から清酒の小瓶を出してきて、焼き海苔めいた和紙にハサミを入れる。
すらりとした姿を切り出して、墨はあっただろうかと頭を巡らせ、筆ペンがあるはずだと思い当たる。
――筆ペンでいいのかな。いや、大丈夫。たぶん。大丈夫。
母も、そうしていたはずだ。わざわざ硯で墨をすったりなどはしていなかった。
キャップを外し、和紙に汐の名を書いて、ただの紙切れを形代へと変えていく。
濡れ縁へと盥を持ち出し、月明かりを存分に浴びさせながら、ふう、と息をつき、清酒の封を切った。
形代を浮かべ、酒を注いで手を合わせ、静かに目を閉じる。
――汐さんのことを、教えてください。
心で尋ね、目を開き、ジッと息を殺して待った。
けれども、心で百を数えても、何も起こりはしなかった。
沈むでもなく、動くでもなく、ただ、形代は浮いていた。
どうして、と眉をひそめて、はたと気付く。
――そうか。神様がいないから。
母には神が憑いていた。私は、それを引き継がなかった。神は母が持っていったから。
ここには、神がいない。
神託の下りようがなかった。
――神様がいるところ……か。
神に声を届け、神の声が聞こえる場所。
そんな場所は、ひとつしか思い当たらなかった。
形代を作りなおし、新たな小瓶と一緒にエコバッグに入れて、肩にかけ、盥を抱えて家を出た。
水をこぼさないように注意を払いながら、砂浜を駆け、海神の祠を目指した。
抱えた盥のせいで何度もライターの火を消しながら、なんとか岩の道を踏み進み、辿りついた先。
数日前に訪れた時と変わらず、祠は赤く、ずんぐりとした岩の上にそびえていた。
祠の手前、岩の杯の上に盥を乗せようと持ち上げ、そのまま足元におろす。
何も盥でなくてもいいはずだ。
形代を浮かべて、占えるのであれば。
すっと大きく息を吸い、吐いて整え、皿燭台に火をともす。
――まずは、一杯、通信料代わり……。
ひとつ、頷き、そうっと瓶を傾けた。
とくとく、と注ぎ、岩の杯を満たせば、こくり、こくり、と飲みこむように、岩のヒビから吸いこまれていく。
一杯分、すべてがなくなるまで、心の中で百を数えるほどの時間はあった。
――これなら、占えるかな。
もう一度、なみなみと酒を注ぎ、形代を浮かべて、ぐるり、と酒をつぎ足した。
――お願いします。汐さんのことを教えてください……何があったのか、私のところに帰ってきてくれるのか……どんなにひどい結果でもいい。どうか……どうか教えてください。
瞳を閉じて、切々と尋ね、うっすらと開き、目をみはる。
嘘――と呟きかけた口を右手で覆った。
岩のくぼみ、杯いっぱい、あふれんばかりに清らかな酒が満ちていた。
――減ってない。
口元を押さえながら、杯に浮いた黒いシルエットを見つめる。
どれくらい見つめていたか、不意に、ふるり、と形代が揺れた。
――来た。
今度は動いた。
人の形を模した黒い和紙が酔ったように、ゆらゆらゆらりと左右に揺れて、ぐるりと回って、それから――裂けた。
喉の奥から迸る悲鳴を、ぎゅっと手のひらで遮る。
最初は左の足だった。腿のなかばからちぎれ、次に右足が膝からもげた。それから右の肘から下が取れ、最後に左の手首が胴を離れた。
ちぎれた形代は水面をたゆたい、やがて、ひらひらと私の方へと寄ってきた。
右手、左足、右足、少し遅れて胴体が。
左手だけはやはり最後で、ゆっくりと遠くを回って、それから渋々と戻ってきた。
打ち寄せられた形代を声もなく見つめていると、ゆらりと波が立ち、岩の杯から酒があふれた。
「……っ」
ばらばらと流れ出ようとする形代を、伸ばした両手で受けとめる。
手をすくい、足をすくって、最後に胴体を取り上げて、こらえきれずに嗚咽が漏れた。
「……うしお、さん」
うずくまり、名を呼ぶ。
いつだったか、ボートのスクリューに巻きこまれた事故のニュースを思いだした。
あの人の最期がそれかと思うと胸が張りさけそうだった。
肺が水に満たされて沈むのと、いったいどちらがマシだろう。
せめて痛みを感じる暇がなかったことを祈ることしかできない。
バラバラになった形代を両手で包み、私は、はらはらと一人、泣きつづけた。
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