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しんじる
しおりを挟むかちり、と紐を引き、まばゆい白は橙の小さな光に変わる。
ひなまつりのぼんぼりを逆さにしたような、半透明のシェードをかぶったペンダントライトは、こうしてみるとクラゲに似ている。
ふらり、と揺れた一本きりの触手を、もう一度つかんで引けば、ぱちり、と橙が消え、月明かりが残った。
夕食の盆を手に濡れ縁に向かい、腰を下ろして溜め息をつく。
海神の祠に願いをかけて3日。
汐は今日も帰らない。
代わりに訪れたのは汐の知り合いを名乗る老紳士だった。
汐の仕事の関係者に会ったのは、はじめてだった。
彼が何か文筆業を営んでいるのは知っていたが、その内容を私は知らなかった。
消印が国外のこともあれば国内なこともあったが、やりとりされる封筒に書かれた送り主の名前も、汐の原稿も、無学な私には読み取れない言語で書かれていたから。
時折、日付なのか数値なのか判別しがたい数字が書かれていることはあったが、それが意味することは理解できなかった。
だから、あの日から気になってはいたのだが、あれほどやり取りしていたはずの封筒のひとつも見つからず、連絡の取りようがなかったのだ。
まるひとつきも放置され、あちらも異変に気がついたのだろう。
日が暮れ、戸を叩く音に玄関に走り出てみると、見慣れぬ大柄な紳士が立っていた。
「こんばんは、お嬢さん」
地を這うような声に一歩後ずさる。
「……驚かせて申し訳ない。いつも、汐さんにお世話になっている者です」
うっそりと帽子を取り、頭を下げた男の顔は、夕陽を背に受け、真っ黒に沈んでみえた。
反射のように扉を閉めようとして、踏みとどまったのは汐を思い出したからだ。
彼に恥をかかせるわけにはいかない。私は引きつりそうになる頬をゆるませ、突然の訪問者に精一杯の笑みを作ってみせた。
こちらこそ、と非礼を詫びて、明かりの灯る居間に男を招き入れてみれば、着ているスーツも仕立てがよく、所作も上品で、初見で感じたような得体の知れなさは見つからなかった。
言葉は滑らかだが男には異国の血が混じっているのか、彫りも皺も深く、ふっさりとした髪と同じく真っ白な顎鬚と口髭が顔の下半分を隠していた。
こんな感じの紳士な探偵が出てくる映画があったな――そんなことを思いながら湯呑みを置いて、用件を問えば「いつもの文が届かないので、様子を見にきました」と予想通りの答えが返ってきた。
事情を話して謝ると老紳士は「そうですか」と、ひとつ頷き、「それは、心細いでしょうな……」と、またひとつ頷き、「戸締りなどには気を付けた方がよろしいですよ」と注意を促して――。
「では、汐さんが戻られましたら、ご連絡をお願いします」
そう締めくくると「女性一人のお宅に長居するのも何ですから……」と席を立った。
「あの」
思わず声をかけると男は首を傾げた。
「何でしょう?」
何でしょう、じゃないでしょう。
心の中で声を上げるが、男と目が合い、口から出たのは「いいえ、もう暗くなりますので、お気をつけて」という当たり障りのない挨拶だった。
皺や髭に隠され、読み取りにくい男の表情の中で、やけに黒目の大きな瞳だけが物言いたげに私を見つめていた。
好奇心だとか、いやらしさは感じなかった。憐れみもない。
ただ、値踏みされているような不快感はあった。
ただの夫の仕事相手に、妻である私が。
だから、聞きたくなかったのだ。
あなたは、汐さんが帰ってくると信じてるんですか?――と。
「そういえば、泊まるところは決まってらっしゃるんですか?」
「えぇ、ご心配なく」
「そうですか。では……夫が戻り次第、ご連絡いたしますので……」
「はい、お待ちしています」
うっそりと微笑まれ、同じような笑みを返した。
ぺこり、と頭を下げられ、下げかえした。
そうして段々遠ざかり、宵闇にとけゆく後ろ姿を見送りながら、私は、言いようのない悔しさを噛みしめていた。
突然の来訪者を見送った後、食事を作るのも億劫で、キュウリの古漬けを冷ご飯に乗せ、焙じ茶をかけた茶漬けですませることにした。
大ぶりの茶碗に木さじをさして、茶碗を持ち上げ、さすがにあんまりかと盆に乗せなおす。
汐が帰らなくなった最初の十日間は、彼の食事も用意していたが、それを捨てる度に彼の不在を感じることに耐えられず、今は自分の分だけ用意している。
居間へと運び、灯りを消して濡れ縁に腰を下ろし、海を睨みながら、もそもそと口に押しこむ。
ほどよい酸味と塩気が効いた古漬けは私の好物のひとつだ。
ぱりぽりと奥歯に響く感触も、いつもならば心地いいが、汐がいない今は、ただ味気ない。
汐と一緒に食べる時は、古漬けを細かく刻んで、いりごまをすって、揉みのりも散らす。
夜釣りで収穫がなかったとき、時々、そうして二人で食べた。
「灯花は、本当に美味しそうに食べるね。ウサギみたいだ」と汐が笑って「ウサギ色なのは、汐さんでしょう」と私が笑い返す。
「黒いウサギもいるよ。目が大きくて、口いっぱいにエサをほうばって、可愛かった」と汐が私の頬を撫でるから「私と、どっちが可愛い?」とバカげた質問を私がして「うーん、甲乙つけがたいなぁ」と彼がワザとらしく首を傾げて「ひどい」と私が唇を尖らせて。
「嘘だよ。灯花の方が、ずっとかわいい」
「本当? 嬉しい! うしおさん、だーいすきっ」
「僕もだよ、とぉか」
なんて、思い返したら砂に埋まりたくなるようなやり取りをして、キスをした。その先も。
汐と一緒ならば、ただのお茶漬けでも美味しかった。十八の時から、何十、何百回と繰り返した営みでも飽きることなどなかった。
私の日々は、汐で満たされていた。
私の幸福は、汐で成り立っていた。
彼がいないと私は意味をなさなくなる。
――帰ってきて、くれる、のかな。
白髭をたくわえた紳士の顔が頭をよぎる。
ただの仕事相手のはずの男は、汐が帰ってくることを疑っていないようだった。
島民や隊員から何百回と向けられた憐れみの視線を、お悔やみの言葉を、あの男は使わなかった。
ただ単に、私のことを思いやっての反応なのかもしれない。それでも。
――私は、必死に、言い聞かせているのに。
さらりと汐の帰還を口にしたあの男が妬ましく、羨ましかった。
――私は、奥さんなのに。一番、信じないといけないのに。
日常のそこかしこで汐の不在を感じる度に、心が揺らぎそうになる。
こみあげる涙を呑みこむように、残った茶漬けをかきこんで、お盆を手に立ち上がる。
何でもいい。信じ続けるための何かが欲しかった。
ジッと家にいて、海を見ているだけでは足りなかった。
――また、祠に行ってみようか。
ふう、と溜め息をついて、ふと、思いついた。
――そうだ。占ってみよう。
母がしたように、と。
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