海の女神は双子の王子に堕とされ…ない!

犬咲

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何が『私の人魚姫』だ!

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「……では、ステラ、行ってくるよ」
「はい、どうぞお気をつけて。……早く帰って来てね、ジェリー」
「ああ」

 優雅なアーチの天井が伸びる王宮の廊下、並んだ窓からさしこむ朝陽のなか、逞しき青年と妖精のような少女が抱きあい、唇を重ねる。
 軽くふれあい、青年が離れようとするのを、するりと彼の首に回された華奢な腕がひきとめる。

「ん、もっと」
「駄目だよ、ステラ。そんな風に可愛い顔をされたら、離れるのが辛くなってしまう」
「ええ、どうぞ、つらくなって。私は、もう、さびしさで胸が張りさけそうだわ」
「たった七日間の視察なのに? 我が愛しき海の月は、ずいぶんなさびしがり屋だ」

 やさしく囁きながら、ジェラルドはマリステラの頬をそうっと長い指で撫で、白銀の絹糸のような髪をすくって小さな耳にかける。

「……実に可愛らしい」

 そうして、剥きだしになった細い首すじに唇を押しあてた。
 あ、と甘い吐息をこぼして、マリステラは虹色の瞳を細める。

「んっ、……そうよ。たった七日間でも、あなたに会えないのがさびしくてしかたがないの……きっと毎日、一日中あなたのことを考えてしまうわ」
「それは嬉しいな。私も……といいたいところだが、昼の間は仕事に専念しなくてはいけないからな」
「……そう。しかたがないことだけれど……悔しいわ」
「その代わり、毎晩、眠りにつく前に君のことを想って、君の夢を見よう」
「まあ、うれしい。きっと私も、毎晩、あなたの夢をみるわ……!」
「そうか。夢で会えたらいいな、私の人魚姫に」
「ふふ、私も会いたいわ。私の王子様に」

 くすくすと笑いあい、近付く唇が重なって――。

 ――さっさと行けよ。馬鹿馬鹿しい。

 物陰で様子を窺っていたロバートは、心の中で吐きすてた。

 

 フィードから話を聞かされてすぐに、ジェラルドが辺境伯領へと七日間の視察に出かけるというので、出発の日、マリステラが一人になるときを狙っていたのだが、このような茶番を見せつけられるとは思わなかった。
 
 ――何が『私の人魚姫』だ! 頭に泡でもつまっているんじゃないのか?

 三年と三ケ月前、ジェラルドを乗せた船が難破し、溺れかけていた彼を助けたのがマリステラだという。
 たまたまルナマリアの船が通りかかっただけの話なのだろうが、それを童話の人魚の話になぞらえてか、ジェラルドはマリステラの事を『我が愛しき海の月』だの『私の人魚姫』だのと空寒くなるような甘ったるい二つ名で呼ぶ。
 確かに、マリステラは妖精のように美しいが、出会って三年もたつというのに、いつまでもお熱いことだ――とロバートは皮肉げな笑みを浮かべた。

 ――まあ、だからこそ、奪いがいがあるんだが。

 三年と三ケ月前、当時十五になったばかりのマリステラと一目で恋に落ちたジェラルドは、はじめ、ルナマリアの女王に拒まれたという。
 ルナマリアの王女は国の外には出せない。
 第二王女のマリステラは、いずれ離宮を与えられ、婿をとる。
 文化も制度も何もかもが違う異国には嫁がせられない――と。
 それでも、どうしても、と三年間、ジェラルドは公務の合間をぬって――いや、無理やりに予定をあけて――ルナマリアへと通いつづけた。
 そして、とうとう根負けした女王が許しを出したのだという。
 「お前が一番ふさわしい」と。
 そうまでして手に入れた愛しい妻が、散々見くだしてきた異母弟達に穢されたと知ったら、ジェラルドは一体どのような顔をするだろうか。

 ――まあ、ばらす気はないがな。

 復讐でもされたらたまったものではない。
 優越感は心の中でだけ味わうことにしようと、ニコラスと決めていた。
 そのためにも、告げ口などできぬよう、助けなど求める気がなくなるよう、この七日間で、しっかりマリステラを脅して、躾けて、ロバートとニコラスの従順な性奴に堕としてやらなくては。

 ――楽しみだな。

 ジェラルドによく似たサファイアの瞳を歪んだ欲情に濁らせて、ロバートは唇をつりあげた。



「……義姉上、おまちください!」

 見送りをおえて、自室へ下がろうとするマリステラに声をかけると、足をとめ、ゆったりと少女は振り向いた。
 淡い水色のドレスのすそが、花びらのように揺れる。

「……あら、ロバート様」

 お付の侍女がマリステラの左右から、すばやく進みでて、腰を落とす。

「ごきげんよう。どうなさいましたの?」

 優雅に微笑みながら、虹色の瞳の中に嫌悪の色がよぎったのをロバートは見逃さなかった。
 夫を悩ます素行の悪い義弟を、苦々しく思っているのだろう。

 ――それでこそ、楽しめるってものだ。

 心の中でロバートは舌なめずりをする。
 愛しい夫を思いながら、軽蔑する男達に身体をあばかれ、快楽に狂わされたとき、この女はどのような顔をして、何を叫ぶだろうか。

「……いえ、これを落とされたようでしたので」

 薄っぺらい笑みを浮かべながら、拳を握りしめ、ロバートが進みでると侍女たちはサッと視線を交わした。
 マリステラは、ゆったりと侍女を制して微笑んだ。
 
「大丈夫よ。……何かしら? 心当たりはありませんが」
「いえ、確かに義姉上が落とされましたよ。さあ、どうぞ」

 虹色の瞳に、虫やカエルを握ってみせようとする悪童に対するような不快気な色がよぎるが、すぐに優雅な笑みで覆い隠された。

「あら、そう。……見せていただける?」 

 薄ら笑いで拳をひらいてみせて、白いハンカチの包みがあらわれる。
 小さな溜め息の後、華奢な指が綿くずでも摘まむように、すっと包みをひらいて。
 瞬間、マリステラの瞳が見開かれた。

「っ、……あ」

 ロバートの手のひらの上、白いハンカチの真ん中に鎮座していたのは、中指ほどの高さ、親指ほどの太さの瀟洒なガラスの小瓶。

「義姉上の物ですよね?」

 問いながら、ワイングラスをくゆらすように手を揺らせば、たぷりと粘性をおびた桃色の液体が揺れた。

「……どうし、て」

 言葉を失っていたマリステラが、ハッとしたように視線をあげた。
 虹色の瞳には、先ほどまでの侮蔑の色はなく、戸惑いと怯えに揺れていた。

 ――良い顔するじゃないか。

 ゾクゾクと這いあがる悦びに、ロバートは息を乱しそうになるが、つとめておだやかな表情をとりつくろった。

「おや、違いますか? ならば、兄上のものですかね? でしたら、兄上が御帰りになるまで、預かっておきますね」
「まって!」

 慌てたように声を上げたマリステラに、侍女たちがギョッとして主を振りあおいだ。

「あ……。いいえ、ロバート様。その必要はありませんわ。私の物です。いったい、どこで落としたのでしょう。ありがとうございます」

 さあ、早く返してちょうだい――とばかりに差しだされた白い掌を見つめ、ロバートは首を振った。

「いえ、先ほどの義姉上の様子からして、違うようです。兄上の物なのでしょう? はは、きっと義姉上と抱きあっているときにでも落としたのを私が勘違いしたのでしょう」
「ですから、違いますわ。私のものです。ジェラルド様は関係ありません。お返しください!」
「いえいえ、そのような嘘をおっしゃらないでください。……ああ、さては、よからぬものだったりするのですか?」
「っ、……違います」

 明らかに様子のおかしいマリステラに、控える侍女の視線がロバートとマリステラの間を行き来する。

「……またまた、義姉上はおやさしい。夫の悪さを庇おうとなさっているのですね」
「……そのようなことは……」
「大丈夫です。私が預かっておきますよ。きちんと自室で保管しておきます。兄上が帰ってきたら、お返ししますから。大丈夫です、誰にも見せません。はは、兄上が驚く顔が楽しみです!」

 ニコリと笑って、ロバートは踵を返し、呼びとめるマリステラの声を無視して立ち去った。



 ピンクの小瓶は媚薬だ。
 フィードから今朝、マリステラの手に渡ったはずの。
 マリステラは、ジェラルドが帰ってくるのが楽しみだと言いながら、そっと枕の下に忍ばせたという。
 隠してきたはずの小瓶が、なぜここにあるのか、さぞ驚いたことだろう。

 ――まさか、フィードが盗んで、俺に渡したとは思いもしないだろうな。

 納品しわすれたものがあるといって、彼女の部屋に通してもらったそうだ。
 今頃マリステラは大急ぎで部屋へと戻って、枕の下を確かめているはずだ。
 さて、取り返しにきてくれるだろうか。
 こないようならば、また、別の手段を考えなくてはならないが。

 ――あの様子なら、こっそり来てくれそうだ。

 侍女も連れずに、一人で、のこのこと。

 ――できるだけ早くきてくれよ。

 心の中で願いながら、ロバートは、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。



 もう少し、ロバートが頭の良い、思慮深い男だったならば、おかしいと思えたはずだ。

 王宮に出入りをはじめて一年そこそこの素性も怪しい商人が、すんなりと王太子妃不在の部屋に入り、盗みを働けたことに。
 「忘れ物をしたから入れてください」「はい、どうぞ」となるわけがない。
 不審な人物を、一人で主の部屋に入れる侍女や護衛がどこにいるのかと。
 鏡台の宝石箱には、それひとつで屋敷が買えるほどのダイヤのネックレスなど、彼女を溺愛する王太子からの贈り物が山と詰まっているのだ。
 盗まれでもしたなら、彼らの首だけではすまない。
 せめて、侍女か衛兵がつきそっての入室となったはずだろうと。
 
 けれど、残念ながら、彼らは疑問を抱かなかった。
 一つは、ロバートやニコラスが、使用人とは少しでも楽をしたがる不真面目な生き物だと思っていたからだ。
 実際、彼らに仕えるものたちは、彼らの世話を最低限ですませていた。
 使用人とて人間だ。敬意も親しみも抱けぬ主人に誠心誠意おつかえし、何があっても守ろうと思えないのも無理はない。
 それから、何よりも、ロバートは――ニコラスも、マリステラをどう辱めるかで頭がいっぱいだったのだ。
 どうせ、彼らはフィードが捕まっても切りすてるつもりだった。
 知らない、あいつが勝手にやったことだ――と。
 だから、冷静に考えれば不自然な成功にも「これほど上手くいくとは思わなかった」と自分達の幸運を喜ぶだけだった。
 罠にかかろうとする可憐な獲物をどう美味しく貪るか、愚かな彼らの頭には、ただ、そのことしかなかった。
 
 
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