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ちーちゃんは、ひとりでも。
しおりを挟む上がり口に学生カバンを下ろして、ローファーを脱いでいるとガチャリと背中で音がした。
くるりと見れば、リビングのドアが開いて、ママが顔を出していた。
「ママ、ただいま」
にこり、と微笑んで声をかける。
「ちーちゃん、おかえりなさい」
玄関のすりガラスとリビングから漏れる陽の光は、さんさんと明るく、ママのコーラルピンクに艶めく唇が笑みを浮かべているのが見えた。
「……お客さん、もう帰ったの?」
「ええ、急に仕事が入ったみたい」
残念そうに、ホッとしたようにママが頷く。
――私に、会わせたかったのかな。
私もホッとして、少し残念にも思いながら学生カバンを持って、リビングに向かった。
使いはじめて、まだ三ヶ月。
いまだに初々しく黒光る学生カバンは、学校指定のもので、素材はママのいう偽物の人工皮革だ。
二番目のランドセルと色違いの同じ素材。
このカバンには特に思い入れもないが、嫌いでもない。
二番目のランドセルと同じように。
あの事故のあと、病院で目覚めて最初に耳にしたのは「ランドセル、かいなおさなきゃダメねぇ」とつぶやいたママの声だった。
私が起きていないと思っての言葉だったのだろう。けれども――。
――あぁ、ランドセルの……ホルンの代わりに私がつぶれておけばよかった。
ママの溜め息を聞いて、そう思ったとき、思わされたとき、私の中で何かが消えてしまった。
ふっと理解したのだ。
ママの一番は、たぶん私じゃない。
私の一番も、もう、ママじゃない。
たぶん、そんなに早くわかるべきじゃない事実を、私は心の奥で理解してしまったんだと思う。
愛してはいる。
それでも、幼い私の中にあった、ママへの――母親への崇拝じみた信頼は、退院するときに病室のベッドの上に置いてきてしまった。
家に帰って、机の上に見つけた真新しいランドセルは人工皮革製のものだった。
おそるおそる蓋を開けた。
赤い四角い空間には、なにもなかった。
私は唇を噛みしめ、ポロリと泣いた。
幼い私の世界で、唯一の理解者で友だちだったものを、私は失くしてしまった。
以来、まだ代わりを得られずにいる。
「おなかすいちゃったぁ……ママ、お客さんに出したお菓子の残りとかない?」
ソファーの横にカバンを置いて、ねだる。
ママは、あはは、と笑って冷蔵庫を開けた。
「食べ残しなんて、可愛い娘に出さないわよ。ちーちゃんの分は、ちゃんとあるから。レモンタルトとイチゴのショートケーキ、どっちがいい?」
「レモンタルトのイチゴのせで、お願いします!」
「もー、ちーちゃんったら。しょうがないわねぇ。じゃあ、お持ちしますから、少々お待ちください」
「はーい! お願いしまーす!」
キッチンに向かうママに声をかけ、ソファーに腰を下ろして、テレビをつけようとテーブルからリモコンを取って――かたん、と戻して立ち上がった。
「…………」
テレビ台に近付いて、テレビの横に置かれた赤い物体に、そっと手を伸ばす。
あの日、私を救ってくれた本物のランドセルは、今も、こうして飾ってある。
ママが来客に見せては事故の深刻さを語り、「これのおかげで助かったんです」と自慢するために。「やっぱり本物だと違いますよ」と。
そんなママでよかったと思う。
捨てると言われたら、私は、きっと無茶をしたかもしれない。
つぶれた横のマチを広げるように指をかけ、ちょっと持ち上げて、ぽん、とやさしくランドセルの横っ腹を叩く。
ホルンにしていたように。
――もうちょっと待ってね。
高校生になったら、おこづかいをもらえるようになる。もらえなくとも、アルバイトができるようになる。
そうなったら、これを加工して、小さなランドセルを作ってもらおうと思っている。
無事なところを集めて、小さな小さなランドセルができたら、私の友だちは戻って来てくれるだろうか。
ひしゃげたランドセルの金具を開けて、閉じて、キッチンのママに声をかける。
「ママ、やっぱり、本物がいいよね」
ママが振り向き、ランドセルを見て、私を見る。
「そうよぉ、やっぱり本物はいいわよ」
「うん、ママ、ありがとう」
「うん、じゃなくて、はい、でしょう」
「はぁい」
「もう、ちーちゃんったら」
楽しそうにママが笑う。
私が中学に上がってから、ママは笑うことが多くなった。
どうやら「大切なおともだち」が出来たらしい。
先月、「パパができたら嬉しい?」と聞かれたので「ママがいれば幸せだよ!」とチクリとさしてから「でも……ちょっと、あこがれるかも」とフォローしておいた。
女との兼任をやめた専任ママの期間の長さを考えれば、ママだって、まだ女でいてもいい年だ。
それでママのメンタルが安定するのなら、相手が七つも年上でも、バツイチ同士でも、ぜんぜんいいから再婚して欲しい。
それで、私は、ママから安心して逃げられる。
一生懸命、勉強しようと思う。
そうして、国立の大学に入って、一人暮らしをして、私はママの手を離れていく。
私は、変わらずイイ子ではあるけれど、もう小さなちーちゃんじゃない。
ママは、もう私の神様じゃない。
ママのもとを旅立つ日には、小さなランドセルに詰まった友だちをポケットにつめこんで、連れていきたい。
――いっしょにいこうね。
心のなかでつぶやいて、私は、ホルンのおうちを、そうっと撫でた。
おしまい
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