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魔女の悔恨

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 十日後。魔法薬を作り終えたエルゼは父からの手紙を読んでいた。

 五年前、父ダニエル・コルネリウスは騎士団の運営費横領の疑いをかけられ伯爵位を失った。
 〝不倫関係にあった事務方の女性魔術師と共謀した〟との疑いは正に青天の霹靂。
 妻を早くに亡くし、男手一つで娘のエルゼを育ててきた実直なダニエルは無実を主張したが、無力な父子には何も出来なかった。

 魔術師として騎士団への内定が決まっていた十八歳のエルゼは内定を辞退、養成所を去り、父も失職。
 剥奪を予期していたダニエルはせめてもとの思いからか、伯爵家の資産のほぼ全てを領地内の大雨被害の復興と補填へ使った。

 後日、ダニエルの疑いは調査と審問により全て晴れ、不起訴に。雀の涙程の資産の差し押さえも免れたが、失った諸々のものは返ってこない。真犯人が捕まり、真相が解明されぬ限りは爵位剥奪が無効となるかの判断はできず、当然、回復請求も行えない。
 ダニエルは知人の助けを得て民間の魔術機関の雑務に、エルゼは父の下を離れて魔法と薬学を活かした仕事を始め、今に至る。

 無論、エルゼは父に「魔法知識のお陰で良い所で働けている」と嘘をつき続けている。
 父は娘の未来を奪ってしまった。
 娘は優しい父を心の何処かで信じきれなかった。
 親子の物理的な距離は両者の後悔をも表しているのかもしれない。

「ええと【この間、フォル君に会ったよ。覚えているかい? 立派に育っていて嬉しかった。ただ、噂では大分参っていると聞いたから、もし今も連絡を取っているようだったら適切な距離を保って支えてあげなさい】って、フォル貴方……」
 猫と婚姻を結んだばかりに、民間魔術機関よそに勤める父にまで心配されているではないか。

 エルゼは【近く良い報せが出来ると思う】との言葉で締められた手紙を折り畳むと、魔法薬の瓶へと視線を移した。
 とろりとした薄紅色の液体は、想い合う二人に絶大な効果をもたらす魔法薬。今も伯爵令嬢エルゼであれたならば、使えたのかもしれない。

「変な所義理堅いのよ、フォルは」
 フォルクハルトとは養成所時代に10年あまり共に過ごした仲、同じ師についた兄弟弟子の関係であり、恋人同士でもあった。

 と言っても互いに内定が決まってからフォルクハルトに告白され、交際を始めたので恋人であった期間は非常に短い。エルゼとフォルクハルトは年齢や入所年も近く、恋人と言うよりは無二の友人や切磋琢磨するライバル関係だったと言える。
 今思えば、恋心とは言えぬ未熟な想いだったかもしれない。お互い応用魔術干渉学なる人口少なき分野に魅入られた変わり者同士、同好の士に対する親愛に等しい感情とも言えたかもしれない。

 それでも、エルゼにとってフォルクハルトは誰よりも大切で大事な人だった事に変わりはない。フォルクハルトはエルゼにとって特別な相手だった。

 だからこそ事件後、父の伯爵位剥奪が決まってすぐに、エルゼは親身になってくれていた彼を手酷く振った。
 魔術師として才ある彼のあしでまといになりたくない、彼まで誹謗中傷に晒されるのは我慢ならない。――そんな自分勝手な欲望の為にエルゼは彼の厚意を喧嘩腰で跳ね除け、一方的とも言える約束を捨て台詞の如く吐いて、夜逃げ同然に王都を離れたのだ。

 その後、彼は内定していたはずの魔法技術研究所ではなく、因縁深き騎士団へ就職。魔物討伐の医療班として地道に信頼を集める中で、養成所時代から親しかった第三王子側仕えの任をも得た。髪色以外は目立たなかった容姿は一変、魔法騎士としての才能も花開いた。
 結果を見れば良かっと言えるが、就職先の急変を考えても自分の一件が当時の彼に悪影響を及ぼした可能性は高い。
 騎士としての才能は彼の才のごく一面、魔法の技術と深い理解、そして周りが及び腰になるほどの強い探究心こそが彼の天賦の才だとエルゼは思っている。


「『愛する人と幸せを見つけられなかったら、その赤い髪が滅びゆく呪いをかけてやる』……なんて、なんで私あんな酷い事を……」

 そもそも彼が「わかった。約束する」と応えたのもおかしな話だ。彼ならば一蹴、軽蔑に値する人間だと判断し、共に居た記憶をも消し去るだろうと踏んでいたのに。
 彼が猫との婚姻に至った発端もエルゼにないとは言い切れない。覚えている限りでは、エルゼと交際する以前の彼は恋愛に一切興味がないと公言していたはず。

 急かされ続ける婚姻、信頼関係を壊された諸々のエルゼとの約束過去によって形成されたであろう恋愛に対する恐怖等、複数の要因から苦肉の策として愛する猫との婚姻に至った。……とすれば、エルゼにも責任の一端はあるだろう。

「……やっぱりフォルはまだ」
 その時、リィンと脳内で軽やかな音色、結界への侵入を報せる合図が響き渡った。
「アライグマでも迷い込んだのかしら?」
「エル」
「きゃあぁッ?!」
 背後からの突然の声にエルゼは飛び上がる。
 振り向けば、息を切らしたフォルクハルトが胸を押えているではないか。
 無理に結界を破って入館したのだろう。騎士団服の黒衣は乱れており、辺りには魔法使用を示す紅の燐光が舞っていた。
「大丈夫?! フォル!」
「ええ。それより困った事に」

 フォルクハルトは息を整えると、一層眉根をひそめる。
「うるさい輩が……秘薬の安全性を示せと」
「え? それなら、薬の成分と加工に使った魔法を書いて……」
「それじゃあ納得しない相手なんだ」
 フォルクハルトは恨めしげに首を振る。彼の頬が上気しているのを察知して、エルゼはようやく彼の言わんとしている事を理解した。

「……証例が必要なのね?」
「……ああ」
 その場が静まり返る。

 エルゼもフォルクハルトも浅はかだった。
 思えば一国の王子夫妻に使うのだから薬の効果と安全性を証明する事は必須。口外禁止の極秘案件ならば、推薦人や薬の開発者がそれらを己の身で示せとの要求も不思議でない。
 しかし現在二人は他人同士。しかもフォルクハルトに至っては曲がりなりにも既婚者である。
 不貞行為は倫理的にも道徳的にも決して許容出来ず、館やエルゼの『人としてまずは相手を大事に』との主義にも反するものだ。

 だが、かと言ってグラーツ夫妻間で証明するなど言語道断。
 万が一にも任務の為と彼が気の迷いを起こしでもしようものなら、エルゼはすぐさまフォルクハルトを殴って昏倒させ、彼女と逃げるだろう。その後は責任を取ってエアフォルクと一緒に暮らしてもやぶさかでない。
 夫婦間の性交は(エルゼの倫理的に)認められないが、断るのが妥当との判断もフォルクハルトだけでなく王子夫妻の面子を考える限り難しい。
 煩い輩が厄介な相手でないとは考え難く、場合によっては国際問題に発展しかねないからだ。

「……わかったわ」
 ふと浮かんだ許せぬ感情を振り払うように、はぁと大きな溜息を吐いて。エルゼは真っ赤な顔でフォルクハルトを睨むと、低く険しい声で言い切った。
「私が……やる」
 単体で聞けば殺人を決意した者のような台詞に、フォルクハルトは顔を曇らせる。

「でも」
「大丈夫。それっぽい所で男の人に声をかければ」
「……っ⁈ それ、どういう事だよ」
 具体的な話がまずかったのか。咎めるように腕を掴まれ、エルゼは不快感に眉をひそめた。
「失礼ね。どういう事をしようとしてるかくらい、わかってるわ。相手には悪いけれども事情はぼかして、乗ってきたら茂みかなにかにうまく誘導すれば経費は最小限に……」
「どうして、そんなよくわからない男と」
「よく知らない方が都合が良いでしょう」
 エルゼは吐き捨てるように告げる。

 効果が示せればそれで良いのだ。
 大切で大事なのに、もう触れてはいけない相手よりはずっと良い。お互い割り切った一夜限りの関係の方が楽だろう。
 腕は熱く、胸は痛かった。
 エルゼの不快感の正体は捨てきれぬ想いと浅はかな己への怒り。
 一瞬でも合法的にフォルクハルトと触れ合えるかもしれないと、期待してしまった自分が情けない。
 独り森に引きこもり、理想の愛を謳っては、自分には叶えられぬと他に求め続けた魔女の末路。そんな滑稽な図がエルゼの脳裏に浮かぶ。

「でもそうね、協力金をこちらから渡すのが筋よね。大丈夫よ。相手の居場所もきちんと抑えて、万が一に備えて後で連絡もできるようにすれば……」
「だから、」
 ぐいと腕を引かれ、エルゼは思わずよろめいた。驚く間もなく、エルゼの体は温もりに包まれる。
「なんで選択肢がそっちなんだよ」
 焦れたような掠れ声が耳朶を擽った。
 みるみる顔が熱を帯び、鼓動が速くなっていく。
 たった一言の彼の言葉に、行動に、成長した硬い胸板から伝わってくる速い心音に。エルゼは激しく動揺してしまう。

「フォ、フォル?」
「エル」
 懐かしい呼び名にエルゼの瞼は熱くなった。

(フォル……)
 吹き抜ける風が涼しい中庭、木漏れ日が部屋の片隅を照らす図書室。
 笑い合い、共に切磋琢磨し、時々意見が食い違っては話し合い、仲直りして。
 強く抱き締められ、もしかしたらずっと肩を並べて過ごせるかもしれないと抱き締め返したエルゼに、泣きそうな顔で「わかった。約束する」と答えるフォルクハルト。
 まるで絵本の頁をめくっていくように、次々と過去だと言い聞かせたそれらが蘇る。
 取り戻せたらどんなに良いかと、訴えかけてくる。

(なんで今、思い出すのよ……)
 どうにかして振り払おうとエルゼが唇を噛んだ時だった。
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