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番外編 ナミさんとフェロモン魔人 2
しおりを挟む上野毛の住宅街を抜けた先にその店はあった。
赤目の木に囲われた先にある、上段格子の木戸門構えの前には清めの水が打ってある。
……悪くない。
お客様をお迎えする気持ちが見えて、淡々と見にきたナミの心が少し上がる。
すでに開かれている門をくぐり、からりと戸を開けて店内に入ると、いらっしゃいませ、とすぐに声が掛かった。
「お一人様ですか?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
学生さんであろう、ジーンズに無地の長袖姿、黒いエプロンをかけた若い男の人がこちらを見ながら誘導してくれる。
手前のカウンターに案内しようという動きだったので、すみません、出来れば奥のカウンターでお願いしたいのですが、と願うと、快く返事をして変えてくれた。
店全体を見渡せるので、初めて訪れるお店の時はなるべく奥の方に座るようにしている。引いたくれた座席に礼を言って座り、ナミは心の中で頷いた。
従業員の態度も気持ちいい。
教育がきちんとなされている。
ナミは荷物を背中に置いて、臙脂色に染められた布地を表紙に使ったお品書きを開いて目を通していると、頭上からとんでもない美声が降ってきた。
「いらっしゃいませ」
とてつもなく場違いな耳障りの良いフェロモンテナーに思わず顔を上げると、ホストも顔負け、さすがに髪の毛は黒く短くしているが切れ長の大きな瞳に薄い唇、鼻筋もすっと通った背の高い美青年がこちらを見てにこりと笑った。
ナミはさっと板場に目を走らすが、白い清潔な調理衣を着ているのは、この人しか居ない。
(この人が、大将?)
どうも、と当たり障りなく挨拶をすると、お通しです、と大きな爪が印象的な節のある手がカウンター越しに伸びてきた。
黄瀬戸の小鉢に山芋の短冊が一文字に乗せてあり、その上に刻んだオクラ、おかかがまぶしてある。
まずは一口、と箸をつけると、しょうゆ味だろうと当たりをつけていたイメージが一転した。しょうゆももちろん入っているが、酢ととも香るほのかな柚子の風味に目を見開く。
「美味しい……」
「ありがとうございます」
思わず呟いた言葉に返事が返ってきてまたさらに驚いた。
店内は十九時を過ぎ混み合ってきていて、美青年は一人で全ての料理を賄っている。他の客をあしらいながら、初めての客の小さな反応にもフォローするのは、なかなか出来る事ではない。
「お飲み物はいかがしますか?」
従業員が手一杯なのを見て、大将自らがナミに聞いてくれた。そうですね、と飲み物のメニューを見て、顔が曇る。
どこの店でもあるような当たり障りのないラインナップしか置いていない。他には、と、カウンターの卓上に目をやるが、今月のおすすめなどの簡易なお知らせも無いようだ。
ナミは無難に一般的な日本酒を告げた。
こちらに戻って来た従業員に大将が話し、従業員も慣れた手つきで酒を注いでくれたが、冷えてはいるけれどグラスは常温のままで出されたきた。
(これじゃお酒がぬるくなる……)
少しずつ気持ちが下がってきた所へ、おまかせで出てきた鱧の天ぷらが手元に置かれる。落ちつつある気持ちそのままに頬張ると、口に含んだ途端に柔らかく身が崩れる按配に思わず唇に手をやった。
咀嚼するたびに香る、火を入れても新鮮な磯の幸にたちまち胸が踊る。
美味しい。
美味しいのに、惜しい。
この料理にぴたりと合う日本酒があれば最高なのに。
ナミはもったいないと思った。
カウンターからさりげなく見渡す店内は綺麗に掃き清められていて、ナミが見極めようと思うのを一瞬忘れるほど居心地がいい。
客層も住宅街にあるからか、家族連れもいれば、一人飲みの人もいる。それに合わせた入りやすい明るい雰囲気の店内は好感が持てるし、なによりすれた感じがしない。
それは、この店と店主が居らしたお客様を大事にしている証拠だ。
良いかもしれない。
酒だけが残念だが、それは大将と話をして、もしナミの意見を取り入れてくれたら変えていくことが出来る。
自分がこの場で動く事を想像してみたが、大将と従業員に合わせて動く動線がとても明確に見えた。
もう一つ、とナミは慎重に心に留める。
(平日の空いている時間に出すものが本物かどうか)
普通の店はだいたい金、土、日の掻き入れ時は気合いの入った料理を出すものだが、良い店は平日の客の来ない時間帯でも気を使った料理を揃えている。
(そこでも美味しいもの出していたら、就職してみよう)
この店が本物かどうか、それまでは保留。
本当はかなり傾いている気持ちに、ナミは自ら釘を刺した。
「ごちそうさまでした」
一合をきっちりと飲み切って、席を立ちお愛想をする。いつものナミの酒量なら、もう一合いくところだが、残念ながら二杯目を飲む酒が無かった。
「ありがとうございました」
にこやかに頭を下げる大将から、柔らかなベルベットのごとき声で挨拶をされ会釈し、店を出る。
ナミは振り向いて〝すずや〟を眺めると、店内の柔らかい灯りが足元に届いていた。
耳をすますと楽しそうに談笑する声が聞こえる。忙しないだろうにその気持ちを出さず接客していた二人に、お疲れ様です、と呟き頭を下げると、少しだけ口元を緩めながらナミは駅へと歩いて行った。
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