上 下
17 / 36
本編 〝弘〟視点

17/21 初心者です、お手柔らかに

しおりを挟む
 

「大丈夫ですかヒロシさん、熱はないようですけれど」

 わたしの両頬をすっぽりと覆う手のひらは大きくて、厚みがある。
 軟弱なわたしと違い、手のひらまでしっかりとしていて、ごつごつと硬い。

 頬に触れる手と晋矢シンヤさんの香りで、全身をすっぽりと覆うように包まれている感覚が心地よくて、ふわふわと頭の芯がぼやけていく。
 考えることが難しくなり、胸いっぱいに鼻から息を吸うと、一気に酩酊感に襲われた。
 多幸感でめまいがする。

 ソウ状態になっている時のように、何もかもが、満たされているような。
 この先に幸福な人生があるような錯覚を覚える。

「晋矢さん、好きです」

 焼きたてのカステラやホットケーキを思わせる、甘くてこうばしい香りに包まれ、晋矢さんが触れてくれている頬から、全身に熱が巡る。
 幸せだ。
 好きだ。
 他に、何もいらない。

「俺も好きです」
「大好きです」

 根拠もなく、わたしの方がもっと好きだと口にしようとして、小さな子供の我の張り合いのようだ、とおかしくなった。
 気がついたら、くつくつと口から笑いがこぼれていた。

 乾いた柔らかい温もりに唇を覆われて、何度も触れるだけの優しさで口付けられ、溶けていく。
 心の奥底で岩のように固くなり、冷えきっていた自分への嫌悪。
 他者への不信感。
 人を好きになれない怯え。
 何もかもが許されている気がした。

「抱きしめても良いですか」
「お願い、します」

 初めて、自分から言葉に出して望んだ。
 イエスかノーの返事だけをしてごまかすのではなく、自分の意思を伝えた。

 頬から手のひらが離れて、一瞬の喪失感を覚えてしまう。
 すぐに、温かくて分厚い胸元に抱き寄せられて、背中に大きな手のひらが添えられた。
 小さな子供をあやすように、とん、とん、と腰のあたりを手のひらでたたかれると、もう耐えられなかった。

 顔を上に向けると、目の前に少し青くなった顎があって、その上の口元が優しく微笑みの形に緩められているのを知る。
 愛おしさで胸が一杯になる。
 そっと顔を寄せて顎に唇を押し当てた。

 晋矢さんがこれまでにしてくれたのを真似して、触れるだけ。
 触れる、しか知らない。

 これまでに見た映画などであったけれど、チュッ!と音を立てるのは、どうやってやっているのだろう。
 口づけをしたら、音がするものだと思っていた。

 物知らずだと思われたくなくて、口にはできないなと思っていると、顎に指が添えられた。

「?」

 わずかに引き上げられて、その直後、触れあった口元からチュッと音が聞こえた。

 ……晋矢さんはやっぱりすごい人だ。
 どうやって、音を鳴らしたのだろう。
 まじまじと晋矢さんの唇を見つめていたら、困ったような笑みを浮かべられてしまった。

「どうしました?」
「あの、いま、どうやって音を鳴らしたんですか?」
「音ですか?」
「はい、チュッ!って」
「ああ、なるほど」

 困ったように目をさまよわせる顔を見て、ついさっき考えたばかりのことを思い出した。
 良い歳して、そんなことも知らないのかと思われただろう。
 しまった、と思ってももう遅い。

 晋也さんの耳が赤い、と気がついた時には、すぐ目の前に柔らかい笑みを浮かべる唇があった。

「こうやって、ですよ」

 再び触れ合った唇から、チュ、チュと音がする。
 でも、距離が近すぎて口元が見えないので、どうやって音を鳴らしているのかが分からない。

「……、あの……っ、ん」

 見せてください、と言ったほうが良いのか、これ以上の恥さらしはやめたほうが良いのか、悩んでいる間も、チュ、チュ、と小さく音がたてられる。

 距離が近すぎて、目の前がぼやけているけれど、私に触れているのは晋矢さんで。
 これはきっと、好意を伝えている行為のはずだ。
 そういえば、私が知らない間に、同性間で気軽に口づけをする習慣ができたのか、調べていなかった。

 自分から教えてほしいと言い出したので、晋矢さんを途中で止めることもできず、なすがままでいると、ふと、唇が離れた。

「無垢すぎて手が出せません……」

 無抵抗で口づけを受け入れていたから、なのか。
 主語がないけれど、この場合、無垢と言われているのはわたしだろう。
 三十半ばを過ぎた男として、無垢と言われて嬉しいはずもない。

 無垢=無知ということだろう。
 実際、何を知らない、と言われているのか、私には思い当たることがない。

 わたしが色々と知らないのは事実だ。
 紙媒体の本から知識を得ることができないわたしは、知識が偏っている自覚がある。

 音声で聞くというのは、文字で見るよりも情報の取得に時間がかかる。
 聞き間違いをしたら、それだけで意味が分からなくなる。

 テレビも、最近は様々な番組で字幕が多用されるようになったけれど、文字を追うことに必死になって、内容が理解できなくなるので、追いかける気になれない。

 気がつかない内に、己の無知を晒していたのか、と落ち込む。
 ただ、手が出せないというのは、どういう意味だろう?
 殴れないという意味なら、嬉しいのだけれど……。

「あの、晋矢さん、教えてくださいませんか?」

 わたしは恥を忍んで口を開く。

 自分で調べて練習してから、音を立てるキ、口づけをしましょう、では機会を逃してしまう。
 それなら今、ここで教えてもらって、知りたい。
 わたしのことを無知だと言う晋矢さんなら、知っているはずだ。

 わたしが何を知らないのか、何を知っておくべきなのか。

 この機会を逃してしまうことが怖い。
 ウェブ上で調べたことが、本当に正しいと言い切れないことを知っているから。
 晋矢さんの言葉を聞きたいと思った。

「……弘さん」

 かすれた低い声で「俺を殺す気ですか」と耳元に囁かれて、ゾッと血の気が引いた。

「わたしが、し、晋矢さんを?」
「ええ……あれ、弘さん?」

 ガタガタと震えるわたしの顔を見て、晋矢さんが眉を下げた。

「どうしました?」
「いえ、あの、わたしが、わたしがっ」
「大丈夫ですよ、何があったのか教えてください」

 全くもって大丈夫ではない!!
 と言いたいのを耐える。
 わたしが晋矢さんを殺してしまう?
 どこが大丈夫なのか!

「お、お願いです、死なないでくださいっ、わっ、わ、わたしは何をしてしまったんですか?」
「……え?」

 奇妙な沈黙が、ワンルームの中を満たした。
 わたしは恐怖で震えているのに、キョトン、と目を瞬かせた晋矢さんが、ふにゃ、と緩むように笑顔になったのだ。

「俺は死にませんよ、すいません、言い方が悪かったですね」
「ほ、本当ですね、死なないんですね!?」
「はい」

 なぜかご機嫌そうな笑顔を浮かべる晋矢さんが、腕を解き、わたしの手を軽く引いた。

「……あ、あの?」
「もっと、キスをさせて下さい」
「あー、あ、はい」

 良く分からないまま、三つ折りにされていた布団を敷き、その上に晋矢さんがあぐらをかく。
 なぜ、布団を敷いたのだろう、と言葉にできないまま、導かれるようにしっかりとした膝の上に座らされた。

 膝の上で横抱きになるように乗せられて、目の前に晋矢さんの頬がある。
 背中を支える手が温かい。

「キスで音をさせるやり方はですね」
「はい」
「こうやって……」

 手を持ち上げられて、手の甲に唇を落とされる。
 チュ、と音がして、でも触れるだけの口づけだったので、謎がさらに深まった。

「……?」

 ジーっと見つめていると、晋矢さんがちらりとわたしへ視線を向けてから、小さく吹き出した。
 何が面白いのか、笑いで肩を震わせつつ、わたしの唇を指でなぞってくる。

「次は実践をしてみませんか?」
「……どうやってですか?」

 目の前で唇を笑みに変えている晋矢さんが、以前に肉食の獣に見えたことを思い出す。
 瞳の奥にくすぶる、言葉にできない熱を。

 ふわふわとわたしを包んでいた心地よい香りは、いつのまにかむせかえるほど濃厚な甘さになっている。
 とても甘いのに、どうして嫌だと思わないのか。

 強すぎる香りで、鼻の奥から頭までが重たく痛むこともなく、多すぎる情報量にめまいがすることもない。
 ただ一つだけ、思い知った。

 この腕の中からは、逃げられない、ことを。
 そして、逃げたくない、と思ってしまうことを。



 それから、わたしのお腹が空腹で音をたてるまで……口づけをしながら音をさせる、実践をすることになった。
 晋矢さんに「もっとちゅって鳴らして?」と耳元で言われながら、実践する必要はなかったと思う。

 途中から、何をしてるのか分からなくなってきた。
 晋矢さんの唇にわたしが吸い付いているのか、吸われているのか。
 触れる唇同士の立てる音と、甘い香りと、柔らかくて優しい低い声と、全身を覆う温もりからの情報量が多すぎて、整理できなくなっていた。

 ううう、無知な自分が恥ずかしい。

 まさか自分の唇で音を立てているなんて、知っているわけがないだろう。
 舌も使うともっとエロティックな音がたつ?そんなの知るかーっ!
 唇と触れた肌の間で音がすると思ってた。
 本当に自分が無知すぎて恥ずかしい。

 あと、唇を覆われていると呼吸ができないとか、経験もないのに知るわけないだろう!
 晋矢さんとしか口づけをしたことがないのにっ。

 苦しいのを我慢して気絶しかけたわたしを見て、心底慌てている様子の晋矢さんに、これで終わりかも、とホッとした直後「次はキスしながら呼吸する実践ですね」なんて言われると、誰が思うんだーっ!

 結局、今夜だけで一生分の口づけをした気がする。
 直接触れているのは口と手だけなのに、どうしてこんなに満たされるのだろう。

 わたしと憲司ケンジくんの関係は本当に歪だった。
 憲司くんと性交と呼ばれる行為をしていても、幸せだと思えなかったのは、お互いに好意を持っていなかったから、なのか。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

どうやら俺は悪役令息らしい🤔

osero
BL
俺は第2王子のことが好きで、嫉妬から編入生をいじめている悪役令息らしい。 でもぶっちゃけ俺、第2王子のこと知らないんだよなー

催眠アプリ(???)

あずき
BL
俺の性癖を詰め込んだバカみたいな小説です() 暖かい目で見てね☆(((殴殴殴

真面目系委員長の同室は王道転校生⁉~王道受けの横で適度に巻き込まれて行きます~

シキ
BL
全寮制学園モノBL。 倉科誠は真面目で平凡な目立たない学級委員長だった。そう、だった。季節外れの王道転入生が来るまでは……。 倉科の通う私立藤咲学園は山奥に位置する全寮制男子高校だ。外界と隔絶されたそこでは美形生徒が信奉され、親衛隊が作られ、生徒会には俺様会長やクール系副会長が在籍する王道学園と呼ぶに相応しいであろう場所。そんな学園に一人の転入生がやってくる。破天荒な美少年の彼を中心に巻き起こる騒動に同室・同クラスな委員長も巻き込まれていき……? 真面目で平凡()な学級委員長が王道転入生くんに巻き込まれ何だかんだ総受けする青春系ラブストーリー。 一部固定CP(副会長×王道転入生)もいつつ、基本は主人公総受けです。 こちらは個人サイトで数年前に連載していて、途中だったお話です。 今度こそ完走させてあげたいと思いたってこちらで加筆修正して再連載させていただいています。 当時の企画で書いた番外編なども掲載させていただきますが、生暖かく見守ってください。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

処理中です...