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本編 〝弘〟視点
17/21 初心者です、お手柔らかに
しおりを挟む「大丈夫ですか弘さん、熱はないようですけれど」
わたしの両頬をすっぽりと覆う手のひらは大きくて、厚みがある。
軟弱なわたしと違い、手のひらまでしっかりとしていて、ごつごつと硬い。
頬に触れる手と晋矢さんの香りで、全身をすっぽりと覆うように包まれている感覚が心地よくて、ふわふわと頭の芯がぼやけていく。
考えることが難しくなり、胸いっぱいに鼻から息を吸うと、一気に酩酊感に襲われた。
多幸感でめまいがする。
躁状態になっている時のように、何もかもが、満たされているような。
この先に幸福な人生があるような錯覚を覚える。
「晋矢さん、好きです」
焼きたてのカステラやホットケーキを思わせる、甘くてこうばしい香りに包まれ、晋矢さんが触れてくれている頬から、全身に熱が巡る。
幸せだ。
好きだ。
他に、何もいらない。
「俺も好きです」
「大好きです」
根拠もなく、わたしの方がもっと好きだと口にしようとして、小さな子供の我の張り合いのようだ、とおかしくなった。
気がついたら、くつくつと口から笑いがこぼれていた。
乾いた柔らかい温もりに唇を覆われて、何度も触れるだけの優しさで口付けられ、溶けていく。
心の奥底で岩のように固くなり、冷えきっていた自分への嫌悪。
他者への不信感。
人を好きになれない怯え。
何もかもが許されている気がした。
「抱きしめても良いですか」
「お願い、します」
初めて、自分から言葉に出して望んだ。
イエスかノーの返事だけをしてごまかすのではなく、自分の意思を伝えた。
頬から手のひらが離れて、一瞬の喪失感を覚えてしまう。
すぐに、温かくて分厚い胸元に抱き寄せられて、背中に大きな手のひらが添えられた。
小さな子供をあやすように、とん、とん、と腰のあたりを手のひらでたたかれると、もう耐えられなかった。
顔を上に向けると、目の前に少し青くなった顎があって、その上の口元が優しく微笑みの形に緩められているのを知る。
愛おしさで胸が一杯になる。
そっと顔を寄せて顎に唇を押し当てた。
晋矢さんがこれまでにしてくれたのを真似して、触れるだけ。
触れる、しか知らない。
これまでに見た映画などであったけれど、チュッ!と音を立てるのは、どうやってやっているのだろう。
口づけをしたら、音がするものだと思っていた。
物知らずだと思われたくなくて、口にはできないなと思っていると、顎に指が添えられた。
「?」
わずかに引き上げられて、その直後、触れあった口元からチュッと音が聞こえた。
……晋矢さんはやっぱりすごい人だ。
どうやって、音を鳴らしたのだろう。
まじまじと晋矢さんの唇を見つめていたら、困ったような笑みを浮かべられてしまった。
「どうしました?」
「あの、いま、どうやって音を鳴らしたんですか?」
「音ですか?」
「はい、チュッ!って」
「ああ、なるほど」
困ったように目をさまよわせる顔を見て、ついさっき考えたばかりのことを思い出した。
良い歳して、そんなことも知らないのかと思われただろう。
しまった、と思ってももう遅い。
晋也さんの耳が赤い、と気がついた時には、すぐ目の前に柔らかい笑みを浮かべる唇があった。
「こうやって、ですよ」
再び触れ合った唇から、チュ、チュと音がする。
でも、距離が近すぎて口元が見えないので、どうやって音を鳴らしているのかが分からない。
「……、あの……っ、ん」
見せてください、と言ったほうが良いのか、これ以上の恥さらしはやめたほうが良いのか、悩んでいる間も、チュ、チュ、と小さく音がたてられる。
距離が近すぎて、目の前がぼやけているけれど、私に触れているのは晋矢さんで。
これはきっと、好意を伝えている行為のはずだ。
そういえば、私が知らない間に、同性間で気軽に口づけをする習慣ができたのか、調べていなかった。
自分から教えてほしいと言い出したので、晋矢さんを途中で止めることもできず、なすがままでいると、ふと、唇が離れた。
「無垢すぎて手が出せません……」
無抵抗で口づけを受け入れていたから、なのか。
主語がないけれど、この場合、無垢と言われているのはわたしだろう。
三十半ばを過ぎた男として、無垢と言われて嬉しいはずもない。
無垢=無知ということだろう。
実際、何を知らない、と言われているのか、私には思い当たることがない。
わたしが色々と知らないのは事実だ。
紙媒体の本から知識を得ることができないわたしは、知識が偏っている自覚がある。
音声で聞くというのは、文字で見るよりも情報の取得に時間がかかる。
聞き間違いをしたら、それだけで意味が分からなくなる。
テレビも、最近は様々な番組で字幕が多用されるようになったけれど、文字を追うことに必死になって、内容が理解できなくなるので、追いかける気になれない。
気がつかない内に、己の無知を晒していたのか、と落ち込む。
ただ、手が出せないというのは、どういう意味だろう?
殴れないという意味なら、嬉しいのだけれど……。
「あの、晋矢さん、教えてくださいませんか?」
わたしは恥を忍んで口を開く。
自分で調べて練習してから、音を立てるキ、口づけをしましょう、では機会を逃してしまう。
それなら今、ここで教えてもらって、知りたい。
わたしのことを無知だと言う晋矢さんなら、知っているはずだ。
わたしが何を知らないのか、何を知っておくべきなのか。
この機会を逃してしまうことが怖い。
ウェブ上で調べたことが、本当に正しいと言い切れないことを知っているから。
晋矢さんの言葉を聞きたいと思った。
「……弘さん」
かすれた低い声で「俺を殺す気ですか」と耳元に囁かれて、ゾッと血の気が引いた。
「わたしが、し、晋矢さんを?」
「ええ……あれ、弘さん?」
ガタガタと震えるわたしの顔を見て、晋矢さんが眉を下げた。
「どうしました?」
「いえ、あの、わたしが、わたしがっ」
「大丈夫ですよ、何があったのか教えてください」
全くもって大丈夫ではない!!
と言いたいのを耐える。
わたしが晋矢さんを殺してしまう?
どこが大丈夫なのか!
「お、お願いです、死なないでくださいっ、わっ、わ、わたしは何をしてしまったんですか?」
「……え?」
奇妙な沈黙が、ワンルームの中を満たした。
わたしは恐怖で震えているのに、キョトン、と目を瞬かせた晋矢さんが、ふにゃ、と緩むように笑顔になったのだ。
「俺は死にませんよ、すいません、言い方が悪かったですね」
「ほ、本当ですね、死なないんですね!?」
「はい」
なぜかご機嫌そうな笑顔を浮かべる晋矢さんが、腕を解き、わたしの手を軽く引いた。
「……あ、あの?」
「もっと、キスをさせて下さい」
「あー、あ、はい」
良く分からないまま、三つ折りにされていた布団を敷き、その上に晋矢さんがあぐらをかく。
なぜ、布団を敷いたのだろう、と言葉にできないまま、導かれるようにしっかりとした膝の上に座らされた。
膝の上で横抱きになるように乗せられて、目の前に晋矢さんの頬がある。
背中を支える手が温かい。
「キスで音をさせるやり方はですね」
「はい」
「こうやって……」
手を持ち上げられて、手の甲に唇を落とされる。
チュ、と音がして、でも触れるだけの口づけだったので、謎がさらに深まった。
「……?」
ジーっと見つめていると、晋矢さんがちらりとわたしへ視線を向けてから、小さく吹き出した。
何が面白いのか、笑いで肩を震わせつつ、わたしの唇を指でなぞってくる。
「次は実践をしてみませんか?」
「……どうやってですか?」
目の前で唇を笑みに変えている晋矢さんが、以前に肉食の獣に見えたことを思い出す。
瞳の奥にくすぶる、言葉にできない熱を。
ふわふわとわたしを包んでいた心地よい香りは、いつのまにかむせかえるほど濃厚な甘さになっている。
とても甘いのに、どうして嫌だと思わないのか。
強すぎる香りで、鼻の奥から頭までが重たく痛むこともなく、多すぎる情報量にめまいがすることもない。
ただ一つだけ、思い知った。
この腕の中からは、逃げられない、ことを。
そして、逃げたくない、と思ってしまうことを。
それから、わたしのお腹が空腹で音をたてるまで……口づけをしながら音をさせる、実践をすることになった。
晋矢さんに「もっとちゅって鳴らして?」と耳元で言われながら、実践する必要はなかったと思う。
途中から、何をしてるのか分からなくなってきた。
晋矢さんの唇にわたしが吸い付いているのか、吸われているのか。
触れる唇同士の立てる音と、甘い香りと、柔らかくて優しい低い声と、全身を覆う温もりからの情報量が多すぎて、整理できなくなっていた。
ううう、無知な自分が恥ずかしい。
まさか自分の唇で音を立てているなんて、知っているわけがないだろう。
舌も使うともっとエロティックな音がたつ?そんなの知るかーっ!
唇と触れた肌の間で音がすると思ってた。
本当に自分が無知すぎて恥ずかしい。
あと、唇を覆われていると呼吸ができないとか、経験もないのに知るわけないだろう!
晋矢さんとしか口づけをしたことがないのにっ。
苦しいのを我慢して気絶しかけたわたしを見て、心底慌てている様子の晋矢さんに、これで終わりかも、とホッとした直後「次はキスしながら呼吸する実践ですね」なんて言われると、誰が思うんだーっ!
結局、今夜だけで一生分の口づけをした気がする。
直接触れているのは口と手だけなのに、どうしてこんなに満たされるのだろう。
わたしと憲司くんの関係は本当に歪だった。
憲司くんと性交と呼ばれる行為をしていても、幸せだと思えなかったのは、お互いに好意を持っていなかったから、なのか。
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