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本編と補話
05 放置され……た?
しおりを挟むおかしな夢を見た。
トリル兄ちゃんが、おれの頭を撫でながら「わたしがヘイディを幸せにしますよ」と甘やかしてくれる夢だ。
まるで別人だ。
兄ちゃんがそんなことを口にするわけがない。
喧嘩を見れば仲裁に入り、双方をぶっとばして終わらせる。
酒の飲みあいがあれば乱入して、まったく酔った様子を見せずに全員を酔いつぶして、店の売り上げを増やしてくれる。
口元はいつも皮肉気な笑みで歪み、口を開けばそこらのおっさんも真っ青。
いつでも薄汚れてよれよれの神官服姿で、袖から覗く腕も手も金属製だった。
でも、いつもすごく優しかった。
子供の頃からぼんやりなおれなりに、両親を手伝いたいと願う気持ちを、理解して助けてくれた。
机や椅子を片付けたり、皿を運ぶ手伝いをしてくれた。
おれの頭を洗ってくれて、……子守唄まで歌ってくれた。
歩けるようになってから、一度だけ出向いた小神殿には、もう兄ちゃんはいなかった。
流行り病による騒動は収束していなくて、おれは強くなかった。
嗚呼、おれは、両親を失った時にトリル兄ちゃんも失ったと信じこんで、全てを忘れようとしたんだ。
誰かに助けを望める状況ではなかった。
それでも、世話になった兄ちゃんを忘れるなんて。
おれは、なんて馬鹿なんだ。
翌朝、起きてみれば新しい異動通知が届いていた。
前の通知は、寮の部屋まで配達してくれた事務員に読んでもらったが、今回は使用人が読んでくれた。
国境への異動がなかったことになった。
なぜかは分からない。
とはいえ、今までの部署に戻るわけでもなく、配属が決まるまで宙ぶらりんらしい。
くびにならなくてよかった。
おれがいた部署の職務は、誰か代わりをしてるんだろう。
上官が毎日のように必要としていたからな。
一度、本部へ行ってみようか。
知らない部署に飛ばされるのは嫌だな。
乱暴な奴が多かったらどうしよう。
おれの服を洗って持ってきてくれた使用人に、お世話になりましたと声をかけると、待つようにと言われる。
「もうすぐ旦那さまが戻って来られるはずなので、どうか、直接お伝え頂けないでしょうか」
あれ、兄ちゃんいないの?
なにを伝えるんだ?
理解できなかったけれど、あまりに悲痛な様子で頼まれたので、うなずいてしまった。
朝食をと言われ、この家の住人がいないのに、と居心地の悪さを覚えつつ席につけば、おれの大好物ばかりが並べられる。
正確に言えば、子供の頃に大好物だった料理ばかりが。
本当にトリル兄ちゃんなんだな。
似ている部分を見つける方が難しいのに。
野菜煮込みの中に、幼い頃から苦手だった香草が入っていないことに気がついて、胸が温かくなった。
母親に叱られる覚悟で皿に残すと「腹減ったからよこせよ」、とこっそり食べてくれた。
香草一口で空腹が満たされるはずがないのに。
おれは、兄ちゃんを助けた覚えなんてないのに。
助けられてばかりだったのに。
どうして、今も助けてくれるんだろう。
食後に庭を見ませんかと誘われて、反論する暇もなく連れ出された。
兄ちゃんの帰宅が遅れているらしい。
手入れされた庭は、なぜか懐かしい。
……神殿の庭に似ている、と気がついたのは、そよ風で揺れる花の中に、香草が混ざっていることに気がついてから。
孤児院では、神殿の庭で育てた香草を干してすりつぶして、庶民向けの薬を作っていた。
自分がここにいることが、場違いだと分かっている。
帰る場所も、帰りたい場所もないのに。
異動がなくなったのなら、両親の店と土地の処分もやめないと。
「こちらへどうぞ」
誘われるままに進み、張りだした屋根の下に巨大な吊り寝床を見つける。
片側には枕、反対には毛布が丸めてある。
「お茶を用意いたしますので、こちらでお待ちください」
「分かりました」
断る理由もなくて、吊られた布に体重をかけて大丈夫かを調べて寝転がる。
柔らかな花の甘さと香草の苦味を含んだ風が、鼻をくすぐっていく。
すごく、落ち着く。
こつん、こつん、と木が石床を打つ音がする。
木靴の足音だ。
いつのまにか、眠ってしまっていたようだ。
ふに、とほほに温かななにかが押し当てられた。
優しくほほを撫でるぬくもり。
意識はあるのに、体が深く眠り込んでいるのか動けない。
だから、まどろみの中で、呼んだ。
〝にいちゃん、いかないで〟と。
ぼくを、一人にしないで。
もう痛いのも怖いのもいやだ。
知らない手に触れられたくない。
他に頼れる相手がいない。
ぼくは、強い大人になりたかったのに。
弱いままだ。
情けなくて、いやになる。
俺は戦場帰りのろくでなしだ、とトリル兄ちゃんは言っていた。
そんなことない。
兄ちゃんは、誰よりも優しかった。
両親の他で唯一、心から尊敬できて、すごく強くて。
いろいろなことを教えてくれた。
起きた後は寝台を片付けて、寝巻きをたたむ。
少ない水でたくさんの皿をきれいにする方法。
食べられる雑草の見分け方。
火打ち石を使う火の付け方。
子供の力で井戸から水をくむ方法。
文字の読み方。
たくさんの歌やお話。
一度だって、ぼくがいやがることを要求しなかった。
兄ちゃんは、いつもどんな表情をしていただろう。
どんなことを考えていたんだろう。
「どこにも行きませんよ」
空耳でも良いから、信じたかった。
信じたくて、信じられなくて、もう誰も信じることのできなくなっている自分が嫌いになる。
目が覚めた時には、近くに蓋つき容器に入った焼き菓子と、お茶の入った保温器が置かれていた。
誰もいない庭を、風がしゅるしゅると吹き抜ける。
兄ちゃんが来てくれた気がしたのは、夢だったのだろう。
兄ちゃんの夢を見た後も、豪邸での生活は穏やかだった。
屋敷と広大な庭を囲む壁の外に、一歩も出してもらえない以外は。
何度か聞いたけれど、兄ちゃんが戻ってくるまで待ってくれ、で終わる。
使用人を困らせたらいけないよな、と諦めることにした。
食事はおれ好み。
いつでも好きな時に起きて、寝て、食って。
自分がまだ軍属なのか、疑わしくなってくる。
異動直後に望まれるかもしれないと、肩提げかばんの中に入れていた、職務の必需品は出す必要もないまま。
穏やかに時間が過ぎていく。
兄ちゃんは忙しいらしくて、数日は戻れないと手紙が届いた。
お利口で待っていてくれ、と手紙に書かれているのを読んでもらって、この歳でお利口になるにはどうすれば良いんだろう、と本気で考えた。
恥ずかしながら、おれは文字を読むのが苦手だ。
至れり尽くせりの生活に慣れてしまうと、ここを出た時に困りそうだな。
そうして庭と部屋を往復する生活を送って。
……三日で、飽きた。
書庫や芸術らしきものが並んだ部屋を案内されたけれど、学がないおれには理解できない。
楽器は演奏できない。
料理もできない。
賭け事は負けっぱなしになるから嫌いだ。
酒はすぐに酔い潰れるから好きではない。
葉巻は吸ったことないけど、必要であれば購入してまいりますと言われた。
いらないかな。
借りている部屋は日当たりが良くて、日向ぼっこしていると気持ちが落ち着く。
ずっとこうしていたい。
でもずっとぼんやりしていると、怒られるかもしれない。
体が鈍るかも。
こっそり腕立て伏せをしていたら、広過ぎて落ち着かない鍛錬場に案内されそうになった。
なんでも、この豪邸の警備の人たちが使ってるって。
え、そんな人たちいたの?
会ってないだけ?
結構です、おれ、人見知りなんで。
それなら貸切にします?
それ、それは、もっと困ります。
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