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第三章

寝ぼけた彼女

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 美冬が5分だけ寝させて、といった時刻が過ぎようとしていた。

「美冬さん? そろそろ行かないと」

 5分だけと言わず、自分の横でもっと寝させてあげたい。寝顔だって堪能したいし。しかし草太が越してきた初日の夕食で、二人揃って遅刻するのは印象があまりに悪い。申し訳ないと思いつつ、美冬の体を軽く揺すって目覚めさせようと試みる。

「ん~……わかった、今起きる……」

 美冬は眠そうに目を擦りながら、体をう~んと伸ばした。再びこてんと草太に体を預けるものの、もぞもぞと体を動かしているので、じきに目覚めてくれるだろう。草太は少し安堵した。

「良かった、なんとか起きてくれるみたいですね……って、えぇぇ!!」

 草太は愕然とした。美冬の首がしゅるしゅると伸び、彼女の美しい顔と首だけが部屋の扉に向かっていく。身体、つまりは本体が、置いてきぼりなのだ。どうやら頭では母屋に向かおうと思っているものの、体がついていかないらしい。出張で疲れ切った美冬の身体は、睡眠を欲している。気持ちだけは、つまり頭と首だけは、どうにか母屋の夕食に向かおうとしているのだ。

「早く行かなくっちゃね~草太くんと二人で~」

 とろんと眠そうな顔つきで、首だけがしゅるしゅると伸びていく。これまで何度も美冬の首が伸びるところを見てきたが、これほど哀れな光景はなかった。文字通り、身体と心が分離した行動を起こしているのだから。

「み、美冬さんっ! 体を忘れてますって!!」

 慌てて声をかけるが、完全に寝ぼけているようで、草太の声が届かない。走って止めに行きたいところだが、本体である美冬の身体は草太に預けたままだ。急に立ち上がれば、美冬の身体は倒れ、伸びた首共々にどうなるか予想がつかなかった。

(くっそ、どうすればいいんだ!)

 草太は必死に考えた。首が伸びるところまで伸びてしまえば、彼女はその衝撃で目覚めるかもしれない。しかしあれほど眠そうだど、それも難しそうだった。疲れた美冬に負担をかけることなく、しっかりと目覚めさせるにはどうすればいいのか。草太は伸び続ける美冬の首を見つめた。彼女の首は白くて艷やかで、思わず触りたくなる肌をしている。

(そうだ!)

 草太は自らの体をねじるように、美冬の首に顔を寄せると、艷やかな首にちゅっとキスをした。美冬の首がぴくりと反応した。
 草太は思い出したのだ。美冬は首が弱点であり、触られるとたまらなく弱いことを。草太は唇を一旦離すと、今度はもう少しだけ深く、肌をついばむようにキスをする。キスマークが残ってしまわないように、そっと優しく何度も。美冬の首はぴたりと止まり、その場で悶え始めた。

「やっ、やだっ、くすぐったい! 草太くん、何してるの?」

 伸びた首へのキス攻撃に、美冬はすっかり目覚めたらしい。

「美冬さん? 気付いたみたいですね。首だけが伸びて、身体を忘れてますよ。疲れてるとは思いますが、体ごと移動しないと」

 伸びた首をくるりと回転させ、草太の側に置いてきぼりの自らの身体を確認し、ようやく事態を把握したようだ。

「やだ、私ってば。こんなこと初めてよ? よっぽど草太くんから離れたくなかったのかしら」

 美冬は自らの失態をごまかすように、ブツブツと呟きながら伸びた首を少しずつ戻していく。首が完全に戻ると、ようやく美冬は草太の美しい上司の姿になった。

「良かった。身体を忘れて、首だけが伸びていくから心配しましたよ」

 草太は屈託のない笑顔を美冬に向けている。邪な思いなどなく、純粋に美冬の身を案じているのだ。

「どうして首にキスしたの? 私、首が弱いって知ってるわよね?」

 美冬は草太にキスされた首を撫でながら、赤くなった顔を隠すように草太に文句を言った。

「だってそれが一番確実だと思いましたから。まさか首を引っ張るわけにはいかないでしょ? 綱引きじゃないんだから」
「綱引き? 酷いわ。私、首は弱いのっ!」

 美冬は顔を真っ赤にしながら、草太の体をぽかぽかと叩いた。どうやら、草太のキス攻撃が効きすぎたようだ。

「いたたっ、こんなことしてる時間ないでしょ? 美冬さん」
「そうだけどっ! なんだか納得いかないもの」
「わかりました、できるだけしないように誓います」
「『できるだけ』じゃなくて、約束して? もう首にキスしないって」

 美冬の言葉に、草太の顔から笑みが消えた。

「約束はできません」
「どうして? 私は首が弱いって知ってるでしょ? 意地悪ね!」

 美冬は幼子のように頬を膨らませ、ぷんっ!と怒っている。

「だって男は好きな女の子には、イジワルしたくなるもんなんですよ?」

 草太はにやりと笑った。美冬の顔はさらに赤くなり、白い首筋まで紅く染まっていく。頭から蒸気が湧きそうだ。

「もう、もうっ! 草太くんのバカ! こんなに意地悪な人って知らなかったわ」

 必死に抗議する美冬の姿が可笑しくて、草太は大きな声で笑った。引っ越しの緊張や不安など、とうにどこかに消え失せていた。美冬がいれば何だって耐えられる。首が伸びる姿も、こうして真っ赤になる姿も、首にキスされて悶える姿も、どれも愛しくてたまらない。
 美冬はしばし草太の体をぽかぽか叩いていたが、やがて静かにうつむいてしまった。
 
「ごめんなさい、美冬さん。これからは美冬さんの困ることはしないようにします」
「本当……?」
 
 美冬が草太を伺うように、そろりそろりと顔をあげていく。その頬は紅く染まったままで、彼女の美しい顔立ちを魅惑的に輝かせる。

「とりあえず、これで機嫌直してください」
「え、何?」

 美冬がしっかりと顔をあげたのを確認するや、草太はもう一度キスをした。今度は彼女の唇に、軽く。
 
「今は時間がないので、これくらいで。疲れ、吹っ飛びましたか?」

 草太の意図に気付いたのか、もはや言葉も出ないといった様子で美冬は口をパクパクさせている。

「そんな金魚みたいな真似してると、またキスしますよ?」

 草太はにやりと笑った。草太の笑みに、美冬はまたまた全身を真っ赤にする。

「からかってごめんなさい、美冬さん。とりあえず母屋に向かいましょうか?」
「そうね。もう時間だものね。でも、もう意地悪しないでよっ!」

 ぷんぷんと怒る美冬をなだめながら、草太は美冬の肩を抱くように、扉へと誘導した。

「僕、何があっても頑張りますから、美冬さん」

 草太の言葉に安心したのか、美冬はようやく怒りを収めた。草太の手を取ると、そっと握りしめた。二人は手を繋いだまま、蔵を後にした。
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