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第三章

十四、

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 頬に痛みが走って、咄嗟に顔をかばうように手をあげた。同時に目をひらいて、恐怖に身体を引きつらせる。
 意識を浮上させた麻野は、呆然としたまま辺りが薄暗いことに気づく。鬱陶しいほどに、木々が頭上を覆っていた。
 痛みの原因を探るまでもなく、答えはすぐに出た。
 目の前に、着物姿の美女が立っている。まさに、絶世の美女と呼ぶにふさわしい妖艶な女だ。だが、どことなくつかみどころのない容姿というか、具体的に表現ができない。
 背が高くてモデルのようだし、着物の上からでもわかるほど、体格も女性らしい。とにかく、ぞっとするほど、美しい女だ。そう、人間離れしているほどに。
 麻野は懸命に、なぜ自分が見知らぬ森の中にいるのか考える。答えはでない。ではなぜ、目の前の女は足をあげて、麻野を踏もうとしているのか。いや一度踏まれたのだろう、頬が痛む。
 どれだけ考えても、麻野はなぜこの状況に置かれているのかわからなかった。最後に覚えているのは、新居崎へ迷惑がかかると後悔したことだ。
 女は、にんまりと赤い唇をゆがめて笑うと、倒れたままの麻野の前にしゃがみこんだ。
「ねぇ、あなた。名前は?」
 すぐに声がでなくて、口ごもっていると。
 髪をつかんで、顔を仰向けに引っ張られた。痛みに歯を食いしばる。
「また顔を蹴られたいの? さっさと答えなさい」
 女は、笑顔で麻野を見下ろしているけれど。その目はよく見るまでもなく、笑っていない。むしろ、怒りを懸命に堪えているように見えた。
「わたし、は、麻野」
「マノ、ね。あなた、あの方のなぁに?」
「あの方?」
「ええ、酒呑様の、なに?」
 酒呑様――酒呑童子。
 その言葉に、麻野は目を見張る。
 妖怪、いや、鬼。
 そんな言葉が脳裏に浮かんで、幼いころ公園で迷い込んでしまった奇妙な世界――物の怪たちのティータイムを、思い出す。彼らはみな、人外だと言っていた。そしてみな、人型をしていた。
 あれは決して麻野の夢ではないし、コスプレ集会でもない。現実に、鬼や妖怪といった、人外の生き物は存在する。
 ただの伝承でも、伝説でもなく。
「あ、あなたは、鬼?」
「ええ、もちろん。短命で馬鹿な人間とは違うのよ。さぁ、答えなさい。これ以上は待てないわ」
「答えるもなにも、意味がわからないっ」
 叫ぶように言うと、さらに髪をきつく引っ張られた。強引に座らされて、そのあと、突き飛ばされる。背中をごつごつとしたもので強か打ち、痛みで顔をしかめた。
 背後には、壁があった。どこかの岩壁に背を凭れる体勢で、見知らぬ森の中にいるようだ。と、今更ながら自分の居場所を知る。
 逃げなきゃ、と思った瞬間。
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