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第二章

二十五、

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「もうそんな時間か。いいか、もう風呂に入るな。すぐに着替えて、出てこい」
 新居崎はそういうと、濡れた浴衣のまま風呂場から出て行った。表から、「浴衣の着替えをお持ちいたしましょうか」とにこやかな女性の声と、それを受ける新居崎の声がする。
 麻野は、小脇に抱えたバスタオルで身体を拭きながら、深いため息をついた。
 なんだか、うまく出来ないことばかりが続いている。
 いつだって、臨機応変に。
 猪突猛進に。
 失敗なんて誰だってあるさ、次頑張ればいいんだ。
 などと考えて生きてきた麻野は、元気が取り得で。落ち込むことはあっても、それも仕方のないことだと割り切ることができる性分だと思っていた。
 けれど、今日はそうもいかない。
 あまりにも失敗が続いて、新居崎に迷惑ばかりかけてしまうのだ。
「よし、がんばろ!」
 麻野は、鏡の自分に微笑みかけて、作業着件寝間着のジャージを再び着た。
 部屋に戻ると、机のうえに、ずらっと料理が並べられている。見たことのある料理――お刺身や酢の物、湯葉や天ぷらなど――のほかに、見たことのない料理が、小鉢に少しずつ乗っかっている。メインは、紙鍋だろうか。まだ火はついておらず、チャッカマンが取り皿や急須、コップとともに置いてある。
 新居崎が座っている椅子の向かい側に、やたらふかふかの座布団が置かれた座椅子があった。あそこに座るのだろう、と真っ直ぐに椅子へ向かうと、誘われるように座椅子に座る。膨らんだ座布団が、ぷしゅーと麻野の体重でしぼむのがわかった。
 ここへきてやっと、これは旅行なのだと実感する。
 実感した途端、わくわくしてきた。
「メインはまた運ばれてくるそうだ。食べ始めてよいとのことなので、食べよう」
「美味しそうですね。……高そう」
「京料理だからな、それなりにする」
 新居崎が食前酒へ手を伸ばしたとき、まだ、新居崎の浴衣が濡れていることに気づいた。気まずくなって、視線を落とす。
「きみは、卑屈だな」
 落とした視線をあげると、うまいな、と新居崎は食前酒を眺めていた。
「なんで」
「そんなこと、言われたことがなかった、か? はっきり言おう。きみは卑屈だ。きみは、他者のために頑張りすぎる。うまいぞ、飲まないのか」
 なんと返事をしてよいかわからなかったのは、新居崎の言葉に、心のどこかで肯定していたからだ。麻野は、誤魔化すように食前酒を持つと、ちょこっとだけ口をつけた。甘いジュースが、口のなかへ広がる。風呂上りの枯渇した身には、水分というだけで染みた。
「美味しいです」
「だろう?」
「……先生は、よく人を見てるんですね」
「いや、まったく」
 箸を持つと、その箸をじっくりと眺めたのち、新居崎は手元の小皿に手をつけた。横に長い長方形の形をしたさらに、三種類、独創的な形をした「何か」が並んでいる。それを、向かって左隣に置いてあるお品書きと見比べながら、食べ始めた。
「私は、他者に興味がない。その点では、先ほどきみが言ったことも正解といえるだろう。私は、私が良ければそれでいい。生徒に優しく接するのは、それが大学教員としての義務であり仕事の一環だからだ」
「でも」
「成績は見る。論文もな。生徒の性格は、今度彼らの進路を決めるうえで円滑にするためであり、私の手伝いをさせる相手かどうか見極めるためでもある。生徒の質問にも答える、それも彼らの成績を落とさないためと、義務だからだ」
「私、先生のゼミの生徒じゃないのに」
 なのに、そんな麻野のことも、大学の生徒というだけでここまで面倒を見てくれるなんて。
「あの、先生。ありがとうござ――先生?」
 新居崎が、なぜか、こぼれんばかりに目を見張っている。何もつまんでいない箸を口元へもっていく途中だったらしい。そして、箸に乗っていた数の子らしき物体は机に転がっていた。
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