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第一章

十九、

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「えっ、どうしたんですか!」
 それは、六月の半ば。
 梅雨真っただ中の、湿度の高い気だるげな昼過ぎ頃だった。
 その日の講義を終えて、神田教授の執務室へやってきた麻野は、部屋に満ちた荒んだ雰囲気に身体をのけぞらせて、さっきの言葉を告げたのだ。
「あ、羽柴さん」
 櫻井が苦笑を浮かべて麻野を見たあと、神田教授を振り返った。神田教授は、いつものにこやかな笑みは表情から抜け落ちており、不満を隠さないしかめっ面でパソコンと向き合っている。麻野にも気が付いていないらしく、ひたすら手を動かしたと思えば、思考に沈むように沈黙していた。
「教授、予定外の仕事がはいっちゃってね」
「え。仕事って、さらにですか?」
 神田教授は、来月末の学会発表に備えて多忙を極めている。講義や生徒指導は手を抜かずに日々教授としていそしんでおり、麻野の知らない仕事をほかにも兼任しているらしい。櫻井いわく、これでもまだ余裕があるほうらしい。少なくとも、先週きたときはそう言っていた。
 よく見なくても、櫻井のほうも、やややつれた顔をしている。
 櫻井助手が教授の手伝いで忙しいのは勿論、助教授、准教授らもそれぞれ多忙を極めているらしいと、生徒が話しているのを、先ほどの講義中に耳にしたばかりだった。
 時期的なものなのかと思ったが、もしかしたら、先週に入院された本川教授が多忙の原因かもしれない。
 本川教授は同じ史学科の教授であり、神田教授とは、文学部史学科の二大巨頭とされているのだ。
「……ああ、来ていたんですね。羽柴さん」
 神田教授が、今気づいたというように顔をあげた。途端に表情には笑顔がはりつく。もはや神田教授の笑顔は、職業病の一種だろうと麻野は思っている。
にこやかに微笑む神田教授はいつもと変わらないように見えるが、やはり、醸し出す雰囲気からは疲労や苛立ちが見て取れた。神田教授は、そんな麻野の心配までをも読んだらしく、笑みを深めてみせた。
「いつも手伝ってくださって、ありがとうございます。本当に感謝してるんですよ」
「教授にそう言ってもらえて、嬉しいです。できることなら、なんでもお手伝いしますから。出来ないことのほうが、多いとは思うんですが。雑用でもなんでも!」
 後ろから小声で櫻井が「やめとけって!」と言ってくるが、麻野にはその意味がよくわからなかった。人間、助け合いが大切だ。
 神田教授の笑みが、にんまりと歪む。
 あれ、しーちゃんの笑みとよく似てるなぁ、などとぼんやりと考えた麻野だったが、神田教授の言葉で、その考えはふっとんだ。
「では、お言葉に甘えて。あなたに頼みごとがあるんです」
「はい、なんですか?」
「来月あたり、京都へ行きませんか? 大学も夏季休暇に入りますし」
「へ?」
 神田教授は、また、笑みの種類を変えた。今度は、ほがらかに笑ってみせる。どこか偽物めいた笑みだったが、疲れているのだろうと麻野はますます心配になった。
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