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第四章 どうにもならない現実
【5】
しおりを挟む『はっ、ありえねぇわ。たいした女だな。お前みてぇな女、一生×××××××わけねぇだろ!』
は、と目を開いた有希は、全身を包むぬくもりと目の前にある男の肌に、現状を思い出した。
「目が覚めましたか?」
穏やかに問われて、微笑んで頷く。
「少し微睡んで、夢をみちゃってました」
「どんな夢です?」
慎一郎は、優しい声できく。彼は有希を抱きしめて、幸せいっぱいなのだ。だからこそ、まさか、有希がこんな状態で過去の出来事を夢で見ていたとは、思わないのだろう。
そういえば、先週も、有希は過去を夢でみた。
前回も、今回も、とてもリアリティがあって、まるで、当時の感情が蘇ってくるようだ。
「……大切な夢です」
「そうですか。いつか、教えてくださいね」
はい、と頷いて、慎一郎の胸に額をくっつける。
あの男が吐き捨てた言葉に、当時は絶望した。けれど今、有希は、あの言葉があったから目標を見つけて、今、ここにいる。
だから大切な夢というのは、嘘ではない。
情事のあとの気だるい疲労は、心地が良かった。お互いにまだ全裸で、エアコンを入れているとはいえ汗が冷えてきたので、布団をかぶっている。
時計を探そうとして、あまりのだるさに辞めてしまった。何時でも構わない。どうせこのまま、眠ってしまうのだから。
「有希、少し考えたのですが、引っ越そうと思うのです」
「片瀬さんが、ですか。……転勤、とか」
「転勤ではありませんよ。ここを離れて、私たちを知っている人がいないところで、二人で暮らしませんか」
有希は、ぼんやりと顔をあげる。
慎一郎のうっとりとした視線を受け止めて、有希は笑った。
「いいですね。私も、今の家はどうも馴染めないので、一人暮らしもいいなぁって思ってたんです」
これは、今週ずっと考えていたことだ。今有希が暮らしているのは、婚約ほやほやの男女が暮らすマンションだ。そこに異物のように入り込んでいる有希は、どうも、あの場に相応しくないように思う。
「では、ちょうどいいじゃありませんか。一緒に暮らしましょう。家事は分担で、出来る限り私もやりますから」
「ふふ、無理しなくていいんですよ。好きでやってるんです」
「結婚して、子どもができたら――」
有希は、目を見張る。
驚いた表情をした有希を見て、慎一郎が頬を染めて視線をそらした。
「えー、えっと。結婚して家庭に入ってもらったら、家事とか家のことを任せたいのです。いえ、勿論私もしますけれど。だから、それまでは、分担で」
しどろもどろの慎一郎を見ていると、有希はふいにおかしくなって、こみあげてくる笑いを隠すために、慎一郎の胸に額をくっつけた。
「……笑ってませんか?」
「ふふふっ、だって、焦ってるみたいだから」
「焦りますよ! どれだけ歳の差があると思ってるんですか。こ、恋人としてはよくても、結婚となると、もしかしたら有希は嫌がるかもしれないとか、考えてしまいます」
「今週、考える時間が沢山あったんですね」
「……茶化してます?」
「いいえ。なんだか、不安にさせてしまったみたいだなって。申し訳ないのですが、不安になりつつも真剣に考えてくださる片瀬さんを、とても好ましく思ってしまいます。すみません」
「謝らないでください。ずっと一緒にいるためには、勢いだけではいけませんから。私だって色々と考えますよ。それに、やはり……皆に、認めてもらいたいと思っています」
慎一郎はゆっくりと、大きな手で有希の頭を撫でた。
「あなたの母親は、あなたをとても愛しているようですから、すぐには難しいでしょう。けれど、必ず認めてもらいます。そうしたら、結婚式もひらきましょう。皆に祝ってもらいたいじゃありませんか」
「素敵ですね。誰を招待します?」
「まずは親族ですね。あなたの場合は、母の美奈子さんと姉の琴葉さんでしょうか。私のほうで、あの子たちを呼びましょう」
「あの子……ああ、お兄ちゃんたちですね。驚くでしょうね、きっと」
ふたりの驚く様子を想像して、思わず笑みがこぼれた。慎一郎もまた、微笑んでいる気配がして、有希はさらに強く胸にすがりつく。
「ほかは、親族といっても異父弟がいるくらいですね」
「ふふ、ぜひ弟さんも呼んでください」
「声をかけるつもりです。長らく疎遠ですが、連絡先はしっていますので。あとは……母、ですが」
途端に、慎一郎が口ごもった。
何やら触れてはいけない気配がする。先週聞いた、「そういう行為をみて育った」という部分と関係があるようだと、有希は感じた。
有希の勘はよく当たる。
有希は、柔らかい口調を意識して、そっと言う。
「お母さまとも、疎遠なんですか?」
「高校にあがってからあとは、会っていません。私は高卒で就職しましたし。母は弟を溺愛しているので、弟が居場所を知っていると思いますが」
「……わだかまりは、まだ、残っているんですね」
小さく、慎一郎が震える気配がした。
「無理に、お母さまに会う必要はないですよ」
「有希」
「気になるのなら、私がお母さまの様子をこそっと見てきます。私は片瀬さんのお母さまを知りませんけど、お母さまが片瀬さんを産んでくださったことは、心から感謝したいですから」
ふいに、強く抱きしめられた。
足も絡ませて、これ以上ないほどに密着する。
「美奈子さんのことを説得します、とあなたに言って、安心してもらいたかったんですが。私のほうが、慰められました。……本当に、素敵な女性ですね」
「……なんだか、幸せです」
布団のなかでお互いを抱きしめあって、どちらからともなくキスをした。
有希は思う。
いつから――彼に、恋心を抱いているだろう、と。
―
――
―――
「有希ちゃん、待って!」
もとより少ししかなかった荷物をまとめた有希は、玄関で靴を履くところだ。
結局のところ、有希がこのマンションで手毬たちと暮らしたのは、一か月と少しだった。季節は春になって、新年度が始まっている。
手毬は、半月前から有希に「ほかにアパートを借りようと思っている」と打ち明けられていたので、引っ越しに関して驚きはしなかった。
けれど、まさか引っ越し先で、慎一郎と一緒に暮らすとは、手毬も聞いていない。それを聞かされたのは、ほんの数分前。有希が荷物も整えて、あとは出て行くだけの段階になって、やっと聞いたのだ。
(反対されることが、わかってたんだ)
手毬は有希の気持ちを察したが、それ以上に、取り乱して震え、有希に縋りつく美奈子に対して同情を覚えた。
内縁の夫と、最愛の娘が同棲する。
そんな昼ドラみたいな展開に、望んで身を置きたいわけがない。
「ママ、ごめんね。私、行くから」
有希の声は、きっぱりとしている。
手毬は、美奈子が結婚して築いた家庭、その事情の一切を知らない。けれど、美奈子が家にいたくないと言い出したことと、有希と慎一郎が恋仲であることは、関係ないはずがなかった。
愛した夫を娘に奪われる母親の心境など、考えるだけで吐き気がする。大切に育てた娘に奪われるなんて、どれだけ憎いだろう。どれだけ、悔しいだろう。どれだけ、悲しいだろう。
手毬は滅多に誰かを嫌ったりはしない。
だが、今、手毬は有希のことを憎んでいる。
幼いころから美奈子を見てきた。
美奈子がこんなふうに取り乱すところなど、これまで見たことがない。
手毬は唇を噛んだ。
「有希ちゃん、さすがに言い捨てて逃げるような真似は、よくないんじゃないかな。事情をしっかり話してほしい」
強い口調でいうと、すっ、と有希が振り向いた。申し訳なさそうに歪んだ表情の有希を、手毬は真っ直ぐに睨みつける。
「私、片瀬さんと結婚します」
「~~そんなの認められるわけないじゃないか‼ 美奈子の気持ちも考えたらどうだ⁉ きみは母親の夫を奪ったんだよ!」
一瞬だけ、有希の瞳が揺れた。
だが、本当に、一瞬だけだ。
有希は美奈子の腕を優しく振り払うと、そのまま家を出て行った。足音は戸惑う様子もなく遠ざかっていく。
美奈子が裸足のまま追いかけようとする姿をみて、ぎょっとした。
「ミナちゃん、待ってっ」
腕を掴んで、引き留めた。
「行っちゃう、有希ちゃんが!」
「ミナちゃん、本当は有希ちゃんを恨んでるんじゃないの? ここに連れてきたのだって、慎と二人きりにしたくなかったからだ。きみは、二人の関係を知ってたんだろう?」
パァン、と。
頬をたたく音が、玄関に響いた。
涙目で振り向いた美奈子の形相に、手毬はこぼれんばかりに目を見張る。美奈子の目には、明らかに怒りが灯っていたからだ。
手毬は、叩かれた頬の痛みも忘れて、美奈子を呆然と見つめた。
「私が、有希ちゃんを恨むわけがないわっ。有希ちゃんが私を恨むことがあっても、私が恨む理由なんてないじゃないっ!」
「……何言ってるの、有希ちゃんがミナちゃんを恨むなんてそんなわけないよ。きみが大切に育ててきたんじゃないか」
「あの子がどれだけ苦しい思いをしてきたか知らないから、そんなことが言えるのよ‼」
美奈子の目から、大粒の涙がこぼれる。
「有希ちゃんは、昔から、人の心に寄り添うのが上手なの。いつだって望む言葉をくれるわ。それは、相手の立場にたてる子だから」
たしかに有希は、そういう子だ。手毬も今日まで、いい子だと思ってきた。だが、それがどうしたというのだろう。
美奈子は崩れるように座り込んだ。
涙を流す美奈子の傍に、手毬も座る。
美奈子が落ち着くまでそこにいるつもりだった。
「……有希ちゃんは」
涙を流しながら、美奈子はかすれた声でいう。
「いつから、片瀬さんを愛しているのかしら」
「ミナちゃん。もう忘れよう。すぐには難しいかもしれないけれど、僕がきみの傍にいるから」
「…………いつから、なの」
手毬は美奈子の肩をだく。美奈子はされるままに身を委ねたが、意識は別のところにあるようだった。
一体、何がどうなっているのだろう。
美奈子には、二人の娘がいる。琴葉と有希だ。
琴葉はすでに一人暮らしを始めており、左程頻繁に連絡もとっていないという。それに引き換え、美奈子の有希への執着ぶりは、さすがにおかしい。
(でも、今は……聞けない)
手毬は、ただじっと、黙って美奈子の肩を抱いた。
せめてもの慰めになればと思いながら。
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