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プロローグ
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ガシャン、と持っていた皿を落とした。
途端に、ソファに座っていた、父であり当主であるファルマール伯爵から叱責が飛ぶ。フィリアは身をすくませて、何度も何度も頭をさげて謝った。
父の傍には、母もいる。
その隣には、姉であるリーゼロッテの姿もある。
母に似た美しい容貌と金髪の巻き毛をもつ彼女の少しつりあがった気の強そうな瞳は、常に自信満々だった。自分自身の魅力に気づいており、自らに自信があるのだろう。
そんな姉――リーゼロッテの視線の先には、男が一人。
向かい合わせのソファに腰をかけた男の名は、ソードというらしい。
らしいというのは、ついさっきリーゼロッテが「ソード様」と呼んでいるのを聞いたからだ。
ソードは、衣類の上からでもわかるほど鍛え抜かれた逞しい身体をしていた。
そして何より、大人びた静かな双眸と無表情。
無意識に色気を振りまいて歩く姉を見て、表情一つ変えず、むしろ興味さえないといった顔をする男を、フィリアは初めて見た。
歳は、リーゼロッテよりいくつか年上だろう。
となれば、二十六から三十くらいだ。
頭に撫でつけられた黒髪は短い。
腰に帯びた剣や、質がよく清潔感のある衣類から高位の者――おそらくだが、騎士であることが見てとれた。
フィリアは、落とした皿を片付けながら、眩暈を感じていた。
(今、なんて言ったの? リーゼロッテ様が、結婚、する、って……そんな、嘘)
信じたくない、という思いを込めて、そっと視線をあげる。
頬を染めて、うっとりソードを見つめるリーゼロッテの横顔を見てしまい、フィリアは頭部を鈍器で殴られたような痛みを錯覚した。
「では、これで失礼します。詳しい日程はのちほど」
ソードは低く静かな声音でそう告げると、立ち上がる。
ファルマール伯爵夫妻も、そしてリーゼロッテも、ソードを見送るために玄関へと歩いて行った。
残されたフィリアは、淡々と皿の破片を集めて捨て、そして、夕食の支度に入った。
その間、自分でも何を考えていたのかわからない。
ただ料理を作ることだけに専念して、出来上がったものを台車に乗せて食堂へと運ぶ。
すでに食堂で談話していた三人は、先ほどのソードの話をしていた。
「本当によかった。ソード殿は、第一王子の近衛隊副隊長をされている方だ。収入も破格だというし、これで我が家も安泰だな」
「あなた、それではリーゼロッテを政略結婚の道具にしたみたいじゃないですか」
「そういうわけではない。彼は、二十八だろう? 歳も近く、似合いじゃないか。だが、リーゼロッテが嫌ならば、今からでも断るが……?」
「お父様ったら、意地悪をなさらないで。わたくし、ソード様とご結婚します。あの方の妻になり、よき家庭を築きますわ」
フィリアは運んできた料理をそれぞれの前に置いた。
すでにスプーンやフォークは並べてあったので、父たちはさっそく料理を食べ始める。
父が差し出した杯にワインをつぎ、フィリアはリーゼロッテの傍へと寄る。
父と同じように杯を差し出したリーゼロッテを、斜め後ろから眺めた。
傍にいるだけで漂ってくる甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
傍にいるのに、すぐそこにいるのに触れられないもどかしさから、胸がじくりと疼いた。
(リーゼロッテ様が結婚するのは、本当なんだ)
「早くなさい、フィリア」
リーゼロッテの厳しい口調に、フィリアは我に返って、慌てて杯にワインを継いだ。
「失礼致しました」
慌てて詫びるが、リーゼロッテは振り返りもしなければ返事もしない。
けれど、フィリアの心はドキドキと高鳴っている。
(呼んでくれた。名前を、久しぶりに!)
フィリア。
それが、フィリアの本当の名前。
けれど、その名を呼んでくれるのは、実の姉であるリーゼロッテだけだ。
リーゼロッテだけが、フィリアを「フィリア」として見てくれる。
(大好きな、リーゼロッテ様)
ずっと傍でお仕えしていたい。
そう思っていたのに、リーゼロッテは結婚する。
結婚したらこの家を出ていくだろう。
そしたらもうフィリアは、二度とリーゼロッテに名前を呼んでもらえないかもしれない。
フィリアは給仕の仕事をしながら、そっと昼間の男の姿を思い出す。
ソードと言ったか。
ぎりり、と歯を食いしばった。
あの男の元へ、愛するリーゼロッテが嫁ぐ。
嫁いだら、毎夜のごとく愛され、快楽を与えられるだろう。
そう思うと、怒りと喪失感でおかしくなりそうだった。
リーゼロッテ。
リーゼロッテ。
誰よりもリーゼロッテを愛しているのは、フィリアなのに。
途端に、ソファに座っていた、父であり当主であるファルマール伯爵から叱責が飛ぶ。フィリアは身をすくませて、何度も何度も頭をさげて謝った。
父の傍には、母もいる。
その隣には、姉であるリーゼロッテの姿もある。
母に似た美しい容貌と金髪の巻き毛をもつ彼女の少しつりあがった気の強そうな瞳は、常に自信満々だった。自分自身の魅力に気づいており、自らに自信があるのだろう。
そんな姉――リーゼロッテの視線の先には、男が一人。
向かい合わせのソファに腰をかけた男の名は、ソードというらしい。
らしいというのは、ついさっきリーゼロッテが「ソード様」と呼んでいるのを聞いたからだ。
ソードは、衣類の上からでもわかるほど鍛え抜かれた逞しい身体をしていた。
そして何より、大人びた静かな双眸と無表情。
無意識に色気を振りまいて歩く姉を見て、表情一つ変えず、むしろ興味さえないといった顔をする男を、フィリアは初めて見た。
歳は、リーゼロッテよりいくつか年上だろう。
となれば、二十六から三十くらいだ。
頭に撫でつけられた黒髪は短い。
腰に帯びた剣や、質がよく清潔感のある衣類から高位の者――おそらくだが、騎士であることが見てとれた。
フィリアは、落とした皿を片付けながら、眩暈を感じていた。
(今、なんて言ったの? リーゼロッテ様が、結婚、する、って……そんな、嘘)
信じたくない、という思いを込めて、そっと視線をあげる。
頬を染めて、うっとりソードを見つめるリーゼロッテの横顔を見てしまい、フィリアは頭部を鈍器で殴られたような痛みを錯覚した。
「では、これで失礼します。詳しい日程はのちほど」
ソードは低く静かな声音でそう告げると、立ち上がる。
ファルマール伯爵夫妻も、そしてリーゼロッテも、ソードを見送るために玄関へと歩いて行った。
残されたフィリアは、淡々と皿の破片を集めて捨て、そして、夕食の支度に入った。
その間、自分でも何を考えていたのかわからない。
ただ料理を作ることだけに専念して、出来上がったものを台車に乗せて食堂へと運ぶ。
すでに食堂で談話していた三人は、先ほどのソードの話をしていた。
「本当によかった。ソード殿は、第一王子の近衛隊副隊長をされている方だ。収入も破格だというし、これで我が家も安泰だな」
「あなた、それではリーゼロッテを政略結婚の道具にしたみたいじゃないですか」
「そういうわけではない。彼は、二十八だろう? 歳も近く、似合いじゃないか。だが、リーゼロッテが嫌ならば、今からでも断るが……?」
「お父様ったら、意地悪をなさらないで。わたくし、ソード様とご結婚します。あの方の妻になり、よき家庭を築きますわ」
フィリアは運んできた料理をそれぞれの前に置いた。
すでにスプーンやフォークは並べてあったので、父たちはさっそく料理を食べ始める。
父が差し出した杯にワインをつぎ、フィリアはリーゼロッテの傍へと寄る。
父と同じように杯を差し出したリーゼロッテを、斜め後ろから眺めた。
傍にいるだけで漂ってくる甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
傍にいるのに、すぐそこにいるのに触れられないもどかしさから、胸がじくりと疼いた。
(リーゼロッテ様が結婚するのは、本当なんだ)
「早くなさい、フィリア」
リーゼロッテの厳しい口調に、フィリアは我に返って、慌てて杯にワインを継いだ。
「失礼致しました」
慌てて詫びるが、リーゼロッテは振り返りもしなければ返事もしない。
けれど、フィリアの心はドキドキと高鳴っている。
(呼んでくれた。名前を、久しぶりに!)
フィリア。
それが、フィリアの本当の名前。
けれど、その名を呼んでくれるのは、実の姉であるリーゼロッテだけだ。
リーゼロッテだけが、フィリアを「フィリア」として見てくれる。
(大好きな、リーゼロッテ様)
ずっと傍でお仕えしていたい。
そう思っていたのに、リーゼロッテは結婚する。
結婚したらこの家を出ていくだろう。
そしたらもうフィリアは、二度とリーゼロッテに名前を呼んでもらえないかもしれない。
フィリアは給仕の仕事をしながら、そっと昼間の男の姿を思い出す。
ソードと言ったか。
ぎりり、と歯を食いしばった。
あの男の元へ、愛するリーゼロッテが嫁ぐ。
嫁いだら、毎夜のごとく愛され、快楽を与えられるだろう。
そう思うと、怒りと喪失感でおかしくなりそうだった。
リーゼロッテ。
リーゼロッテ。
誰よりもリーゼロッテを愛しているのは、フィリアなのに。
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