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第二章 4、渡月とお父さん

1、

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「たくさん飲むと思ったら、お酒だったんですね」
「飲まずにやってられるか」
 三条通りをゆったりと下りながら、先生は言う。この辺りは居酒屋も少なく、時間的に閉店している店が目立つ。もう深夜の十二時を過ぎて、日付が変わっているのだ。
 餅井殿商店街へ入ると、さらに暗かった。道を照らすぼんやりとしたライトを頼りに、アトリエへ向かって歩く。
 私には、先生が飲んだ量が多いのか少ないのかわからないが、やや足元がおぼつかないようだった。
「なんだか、疲れた」
 アトリエに着く前に、先生が言う。どこか、沈んだ声だったのが気になって、そうですか、とだけ答える。
「今日は、ゆっくり休んでください」
「ああ、そうしよう」
 体力がどうのこうの、と先生は規則正しく三食食べるくせに、眠るのは適当だ。時間も、場所も、こだわりはなく、仕事の予定に合わせて眠りたいときに眠るという。イベントなどの急ぎではないときも、休憩室で毛布をかぶって寝ているのだから、疲れが取れているのかも微妙なところだ。
 アトリエに着くなり、先生は深くため息をついた。ぼうっと立ち尽くす先生の背中に、そっと、手を当てる。
「こんなところで突っ立ってないでください」
「ん」
「こっちです、ほら」
 ぐいぐいと背中を押して、強引に階段を上ってもらった。休憩室は一階ゆえに、拒絶されるかと思ったが、意外にも素直に二階にあがってくれる。どうやら、考えることを手放しているらしい。
 そのまま、ふらふらしている先生を、私が借りている布団に転がした。先生は、布団が心地よかったのか、寝返りを打つと、自分で上布団をかぶって寝息を立て始めた。
 余程疲れていたらしい。
 眠る先生を見ていると、私も疲れが押し寄せてきた。一緒に布団にもぐろうかと思ったが、先ほど、妙齢だのなんだのと言われたばかりだ。先生の機嫌を損ねたくはないので、もろもろの眠る準備を整えてから、一階の休憩室で毛布にくるまった。
 先生愛用の毛布は一週間に一度洗っているが、いつだって先生の匂いがする。最初こそ、男の汗のにおいは臭いな、と思っていたが、今ではすっかりと慣れてしまった。
 ううん、むしろ――。
 なんだか、不思議な気分だ。
 こんなふうに、誰かと毎日話すなんて、初めてで。
 先生に会えたことが、声をかけてもらえたことが、ひがしむき商店街での出会いが、すべて奇跡のように思えた。
 ***
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