弁当 in the『マ゛ンバ』

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弁当 in the『マ゛ンバ』

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「うっ……」

 小さく呟き、私は開けたばかりの弁当のふたを戻そうとした。
 慌てて重ねようとしたふたは、弁当箱の隅についたご飯粒を押しつぶす嫌な感触を私の指に伝えてくる。 

 油断していた。
 うちの母はかなりおかしいということを、どうして失念していたのだろう。
 私はもうじき高校生になるのだ。
 海苔で書かれた文字ごときで喜ぶお年頃ではないというのに。

 しかも今日は、その高校が決まる入試日なのだ。
 なぜそんな日のお弁当に、この人は海苔文字に挑戦しようとしたのだろう。
 作り続けた中学三年間、一度も書くことなどなかったのに。
 母は料理こそかろうじて出来るものの、芸術系の神様に一切の祝福を貰えなかった女性である。
 はっきり言おう。
 センスがない。いやむしろマイナスといっていいものだ。

 思い起こせば、今朝から母の様子はおかしかった。
 いつもは台所で粗熱を取るために、ふたを閉じていない状態で弁当は置いてある。
 それなのに今日は、すでに袋に入った状態でリビングに準備されていたのだ。

「なんだかドキドキしちゃって、今日は早起きしちゃったから」

 緊張するのは、母よりも私のはずなのだが。
 口をむずむずとさせながら、弁当箱と私の顔を交互に眺めてくる母に違和感はあったのだ。
 今日は、一生を決めると言っても過言ではない大切な日である。
 しっかり者といわれる私だが、今日は緊張で冷静さを欠いていたのは否めない。
 妙にそわそわしていた母の様子を思いだし、私はため息をついた。

 さて、このままでいるわけにもいかない。
 ふたを押さえたままの状態で私は深呼吸をする。
 ……一回、二回。
 オーケー、覚悟は出来た。
 こんなところで、時間を食っている暇はない。
 食っていいのは弁当の中身だけだ。

 改めてふたを開く。
 敷き詰められたご飯の上に書かれた文字は三文字。
 おそらく『ガンバ』と母は書きたかったのだろう。
 だが運命のいたずらとは残酷なものだ。
『ガ』の二画目がふたに引っ付いたことによりずれ、『マ゛』という文字に変わっていた。
 つまり『マ゛ンバ』という文字が、白く輝くご飯の上にのせられているということ。
 なお、私の人生において『マ゛ンバ』という言葉は、聞いたことも話したことも検索サイトで調べたこともない。
 
 さらに言えば母は、バランス感覚というものを祖母のお腹の中に置いて来てしまった人だ。
 『マ゛ン』の文字だけで、ご飯の面積の三分の二以上を占めている。
 そのために最後の文字の『バ』が非常に小さい。
 つまりは。
 
『マ゛ンバ』

 このような状態になっているのだ。
 白い世界で、いびつな存在感を放つ黒の三文字。
 そんな文字を眺めている私から生まれたのは、笑みだった。

「まぁ、お母さんらしいといえばそうだよな。……ふふ。ありがと」

 多少の心の乱れこそ起こったものの、いつも通りのリラックスした気持ちも芽生えさせてくれていた。

 朝早くに作られた、すっかり冷めてしまっているお弁当。
 でもそれは三年間、食べ続けたいつもの母の味で。
『普段通りに頑張りなさい』と伝えているように感じられるのだ。
 いつもより早起きをして、私のために作ってくれたお弁当をゆっくりとかみしめていく。
 当たり前に食べていた味が、どうしたことか今日はとても心と鼻の奥を刺激してくる。
 視界がぼやけた私は、泣き顔を人に見られないようにと下を向く。

 お弁当がしょっぱくなる前に食べるんだ。
 そしていつも通りの力を出せるようにしよう。
 気合が入った私は、きれいに弁当を食べ終える。

 ――大丈夫、きっと頑張れるから。 

 不思議な自信と共にテキストを開き、私は午後の試験に向けて集中を始めるのだった。


◇◇◇◇◇ 


「ただいまっ! 試験は無事に終わったよ!」
「そう、よかったわね。三年間、あなたはずっと頑張って来たものね。きっといい結果が出るわよ」

 いつもならくすぐったくってしょうがない言葉だ。
 けれども今日は、素直に私の心にすっと入ってくる。
 鞄から弁当箱を取り出し、台所にいる母へと手渡す。

「お弁当、美味しかったよ! 明後日の受験も頑張って行ってくるね!」
「ふふ、いい手ごたえだったのかしら? じゃあお母さんも次のお弁当、しっかり作らなきゃね」

 受け取った弁当箱を洗いながら母は笑った。
 その言葉に私にも笑顔が生まれていく。
 きっと明後日も頑張れる。
 そんな気持ちで私はその日を過ごしたのだった。
 
 そして私は二日後の試験会場にて、パワーアップした海苔文字弁当に会うことになる。
 でもそれはまた、別のお話。
 そしてこれは、こんな私たちのとてもにぎやかな日々の話。
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