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第1章 バルトロメオ

第18話

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「えっ、なに……なんですか……」

手の甲に乗る重さ、熱っぽい額と、顔にかかる吐息。
相手の存在感にみ込まれそうになる。
胸の鼓動が速かった。
自分より大きな男にこうされて、はねのけられる気がしない。
頭の中が彼でいっぱいになった。

「バルト……さん……僕は……」
「なんだ、何もしてないのに息が上がってるぞ?」

近すぎてぼやけているけれど、彼の唇が意地悪く笑ったのが分かった。

「なんで、こんなことをするんです? 僕はあなたが……ペティエ神父を殴ったとは思いません」
「状況的にそう思うだけだろう、確証はない」
「確証?」
「ああ、そうだ」

(あっ……)

額でぐっと押される。

「どうする?このまま押し倒してやろうか? 俺にはそれができる、アンタは逃げられない」
「……っ……」

上半身を後ろへ引いても、その分向こうから押してきて意味がなかった。
後ろに倒れそうな体を苦しい角度で支えている両腕が震える。

「ほら、そんな顔をするなら……」

彼の熱っぽい吐息が、空気を揺らしてユァンの唇にかかった。

「ちゃんと警戒しろ。昨日のことがなくたって、アンタみたいの、すぐおおかみに食われちまうぞ?」
「あっ……!」

こらえきれずに、ユァンは後頭部から後ろに倒れる。
頭と背中に衝撃がくるのを覚悟したけれど、倒れたところは彼のたくましい腕の中だった。

「……悪い、やりすぎた」
「…………」
「一瞬だが、きれいな唇を奪ってしまった」
「………………」
「おい、ユァン?」

太陽がまぶしい。
勢いつけて引っ張り起こされ、ようやくユァンは我に返った。

「え、と……つまり、警戒を……?」

警戒しないでいたらどうなるんだろう。
びっくりしたけれど、今されたことがすごく嫌だったかといえば、それも分からなくて混乱する。
バルトロメオが人差し指と親指で、ユァンの頬をむぎゅっとつかんできた。

「まあアンタみたいなタイプは、言っても無駄なんだろうな。誰かが守ってやらないと」
「それは……」

いい大人が、と呆れられているのは分かる。
けれどユァンとしては、無闇に人を疑いたくはなかった。
人は生まれながらにして原罪を背負っているけれど、本質的には善なるものである。裏切られてもいい、人の善なる心を信じたい。
それが修道士としてのユァンの思いだった。

「人を疑いたくないんです」

思い切ってそう告げると、今度は反対側の頬までつかまれた。

「いいのか?山羊より先に、アンタが食われる」
「もちろん山羊は守ります。けど、僕自身は……」

狼に食べられる自分を想像する。
被虐的かもしれないけれど、その狼が空腹なら……食べられてやるのも神の道のように思えた。
キッと視線を上げると、意外に真剣な顔をしていたバルトロメオににらみ返される。

「やめろ、そういうのは!」
「……えっ?」
自己犠牲じこぎせいとか、俺はそういうのは好きじゃない。教会のやつらはみんな大好きみたいだけどな」

投げつけるように言って、バルトロメオは立ち上がった。

「バルトさん?」

ユァンは仰ぎ見るが、腰に手を当てた後ろ姿が見えるだけで彼の表情は分からない。

「……悪い、関係ないアンタにぶつけるべき言葉じゃなかったな」

(関係ない……)

その言葉が小さなとげとなって胸に刺さった。
後悔の漂う背中に話しかけ、彼の真意を探ることはためらわれる。

(気になるけれど……僕は、僕のやるべきことをするだけだ)

いま自分に与えられた仕事は山羊たちの世話と、見習い修道士に身をやつす客人の対応ということになる。
ユァンはそれを自分にいい聞かせ、山羊たちの方へ視線を向けた。
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