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第1章 バルトロメオ
第2話
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牝山羊が落ち着きなく首を振り、切ないうめき声をあげている。
夜の山羊小屋にうずくまり、ユァンは彼女の首を撫でていた。
「ユキ、大丈夫だから。僕がいる……」
いったい何度この言葉を繰り返しただろう。
山羊は比較的お産の軽い動物だが、今回は例外らしい。
夕方に産気づいたユキは断続的な陣痛に苦しむばかりで、深夜に差しかかった今も子山羊の産まれてくる気配はなかった。
(大丈夫なのか? そろそろユキの体力が心配だ……)
口には出さないものの、ユァンの胸には不安が渦巻く。
頭上で雷が鳴った。
トタン屋根を叩く雨音が激しさを増す。
ユァンはユキの首を撫でるのとは逆の腕で、額に浮かぶ玉の汗を拭った。
作業着の袖口はすでにじっとりと濡れている。
一昨日から続く長雨で、山羊小屋は異様に蒸していた。
ユキが細い前足で何度も、湿った飼葉を踏みしめた。
それに反応するように、彼女の大きな腹が内側からうごめく。
子山羊も懸命に産まれてこようとしている。
ユァンは汗を拭った右手で、首からかけているロザリオをつかんだ。
(神よ! どうか、このいたいけな親子の命を守りたまえ!)
その時、闇を切り裂くような悲鳴が響いた。
(……!? なに、今の……)
握っていたロザリオが手の中からこぼれ落ちる。
ユキも驚いたように両耳を跳ね上げ、それを声のした方へ向けた。
雷鳴と交じりあうようにして、また悲鳴が響く。
男の声のようだった。
この聖クリスピアヌス修道院で何かが起こった。
いや、今まさに何かが行われているのかもしれない。
こんな夜に。
驚いたのか、それとも一旦陣痛が去ったのか、ユキは鳴くのをやめていた。
おそらくその両方だろう。
「ユキ……僕は少しだけ行ってくる。すぐに戻ってくるから!」
深夜近いこの時刻、起きている人間は他に何人もいないはずだ。
誰かが怪我でもしたのなら、行って助けなければならない。
あの悲鳴が単なる事故や怪我かといえば、そうとも思えないのだが……。
レインコートを着、フードを目深に被ると、ユァンはオレンジ色の裸電球に照らされた山羊小屋から、雨の降りしきる闇の中へと飛び出した。
声がしたのは礼拝堂の裏手にある、修道士宿舎の方だろうか。
いや、宿舎の声がここまで聞こえたとは考えにくい。
礼拝堂の中か、もしくは建物の外かもしれなかった。
ともかく雨脚が強いので、ユァンは礼拝堂の周囲に巡らされた外回廊へ飛び込もうと考える。
だがそこまで行くにも春野菜を収穫したばかりの菜園を突っ切らなければならなかった。
暗闇の中、ユァンは何度もぬかるみに足を取られる。
跳ね上げた泥水が長靴を履く脚の膝上までかかり、泥の交じった雨粒が無防備な顔面に襲いかかった。
泥が入って痛む目に、レインコートの袖口を擦りつけながら、ユァンはオレンジ色の灯りを漏らす山羊小屋を振り返る。
あそこを離れて本当に大丈夫だったんだろうか。
戻るまで、ユキと子山羊は無事なのか。
子山羊が産まれる途中で産道に引っかかってしまい、窒息死の危険に晒されることはままあることだ。
その場合、人が介助して早々に子山羊を引っ張り出さなければならない。
さっきのユキの様子だと、今すぐ産まれるということはなさそうだが……。
それでも予想もしなかったことが、生き物を相手にしていると起るものだ。
荒れ狂う雨の中、自然の不条理に対する恐怖と不安が足下から這い上がってきた。
夜の山羊小屋にうずくまり、ユァンは彼女の首を撫でていた。
「ユキ、大丈夫だから。僕がいる……」
いったい何度この言葉を繰り返しただろう。
山羊は比較的お産の軽い動物だが、今回は例外らしい。
夕方に産気づいたユキは断続的な陣痛に苦しむばかりで、深夜に差しかかった今も子山羊の産まれてくる気配はなかった。
(大丈夫なのか? そろそろユキの体力が心配だ……)
口には出さないものの、ユァンの胸には不安が渦巻く。
頭上で雷が鳴った。
トタン屋根を叩く雨音が激しさを増す。
ユァンはユキの首を撫でるのとは逆の腕で、額に浮かぶ玉の汗を拭った。
作業着の袖口はすでにじっとりと濡れている。
一昨日から続く長雨で、山羊小屋は異様に蒸していた。
ユキが細い前足で何度も、湿った飼葉を踏みしめた。
それに反応するように、彼女の大きな腹が内側からうごめく。
子山羊も懸命に産まれてこようとしている。
ユァンは汗を拭った右手で、首からかけているロザリオをつかんだ。
(神よ! どうか、このいたいけな親子の命を守りたまえ!)
その時、闇を切り裂くような悲鳴が響いた。
(……!? なに、今の……)
握っていたロザリオが手の中からこぼれ落ちる。
ユキも驚いたように両耳を跳ね上げ、それを声のした方へ向けた。
雷鳴と交じりあうようにして、また悲鳴が響く。
男の声のようだった。
この聖クリスピアヌス修道院で何かが起こった。
いや、今まさに何かが行われているのかもしれない。
こんな夜に。
驚いたのか、それとも一旦陣痛が去ったのか、ユキは鳴くのをやめていた。
おそらくその両方だろう。
「ユキ……僕は少しだけ行ってくる。すぐに戻ってくるから!」
深夜近いこの時刻、起きている人間は他に何人もいないはずだ。
誰かが怪我でもしたのなら、行って助けなければならない。
あの悲鳴が単なる事故や怪我かといえば、そうとも思えないのだが……。
レインコートを着、フードを目深に被ると、ユァンはオレンジ色の裸電球に照らされた山羊小屋から、雨の降りしきる闇の中へと飛び出した。
声がしたのは礼拝堂の裏手にある、修道士宿舎の方だろうか。
いや、宿舎の声がここまで聞こえたとは考えにくい。
礼拝堂の中か、もしくは建物の外かもしれなかった。
ともかく雨脚が強いので、ユァンは礼拝堂の周囲に巡らされた外回廊へ飛び込もうと考える。
だがそこまで行くにも春野菜を収穫したばかりの菜園を突っ切らなければならなかった。
暗闇の中、ユァンは何度もぬかるみに足を取られる。
跳ね上げた泥水が長靴を履く脚の膝上までかかり、泥の交じった雨粒が無防備な顔面に襲いかかった。
泥が入って痛む目に、レインコートの袖口を擦りつけながら、ユァンはオレンジ色の灯りを漏らす山羊小屋を振り返る。
あそこを離れて本当に大丈夫だったんだろうか。
戻るまで、ユキと子山羊は無事なのか。
子山羊が産まれる途中で産道に引っかかってしまい、窒息死の危険に晒されることはままあることだ。
その場合、人が介助して早々に子山羊を引っ張り出さなければならない。
さっきのユキの様子だと、今すぐ産まれるということはなさそうだが……。
それでも予想もしなかったことが、生き物を相手にしていると起るものだ。
荒れ狂う雨の中、自然の不条理に対する恐怖と不安が足下から這い上がってきた。
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