ロゼと嘘

碧 貴子

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 私を見下し、軽蔑する、冷たく青い
 潜るほどに青さを増す、深い海の底を思わせるその瞳からは、拒絶以外の何物も読み取れない。

 私は、この瞳が、この男が、嫌いだ。

 でも私が嫌う以上に、彼は私を嫌っている。
 いつも私を、底の知れない不気味な瞳で睨みつけてくるのだから。

 震える体を必死に掻き抱く私に、今日も彼――モント公爵家の次男であり、王太子の筆頭護衛騎士であるロルフ・フォン=モント卿が、暗く深藍に変じた瞳を鋭く細めた。

「……ロゼリア・ゾネントス公女。は一体、どういうことだ」

 地を這うような低い声に、体の震えが一層ひどくなる。
 恐怖に、ではない。
 下腹に響くその声に、反応しているのだ。

 唇を噛みしめて、火照りで潤んだ目で見上げれば、きつく寄せられた漆黒の眉が、更に深く眉間にしわを刻む。
 それもそうだろう、敵対する家門の娘、しかも体面を取り繕いもせずに嫌っている女が、よりにもよって目の前で発情しているのだから。
 その声も、顔も、明らかにこの状況に腹を立てていることが手に取るようにわかる。
 苛立ちと蔑みの込められた視線を真正面から受け止めて、私は、諦めと共に掠れる声を振り絞った。

「……ロルフ卿……」
「……」
「申し訳、ありません……」

 本来であれば、今ロルフ卿の前で体を震わせていたのは、ヒルデガルド伯爵令嬢だったはずだ。
 自分が恋慕う女性が媚薬に苦しんでいるとあれば、彼ももっと違う態度だっただろう。
 ヒルデガルド伯爵令嬢の前では、この男の瞳が、明るい海の色であることを私は知っている。

 だけど、いくら憎い恋敵だとはいえ、陥れられて望まぬ相手と、しかも想い人の親友と契らねばならないなんてさすがに気の毒で、直前で計画を中止したのだ。
 私が、良心の呵責に耐えられなかったというのもある。
 お父様には見限られたとしても、私が私を、これ以上嫌いにはなりたくなかったからだ。

 なのに、まさか、媚薬を飲む羽目になるなんて。
 侍女には確かに、計画は中止すると伝えたはずなのに。

「……私は……私は、ずっと……卿を……」

 心にもない言葉を言わねばならない悔しさに、目の前が霞む。
 だが、刻一刻とひどくなる熱と疼きで、こぼれ落ちる涙を拭う余裕もない。
 テーブルの上では、倒れたティーポットから元凶である媚薬入りのお茶が赤いシミを広げている。

 もう、後戻りはできない。
 ロルフ卿も、このお茶を飲んだのだから。
 こんな状況では、調べればすぐに、薬の出どころは露見するだろう。

 王太子の親友であり、筆頭護衛騎士でもあるロルフ卿に薬を盛ったとなれば、我がゾネントス公爵家といえどただではすまない。
 ロルフ卿の実家であるモント公爵家と我がゾネントス公爵家は、長年敵対関係にあるのだからなおさらだ。
 ならばここは、一縷の望みをかけて、卿の情に訴えるしかない。
 どちらにしろ泥を塗らざるを得ないなら、被害は最小限に抑えるべきだ。

 覚悟を決めた私は、視線を伏せて、苦渋の言葉を絞り出した。

「……ロルフ卿を…………、お慕い、しておりました……」

 絞り出した言葉と共に、きつく瞼を閉じる。

「だから……」

 だが、その先が、どうしても出てこない。
 涙ばかりが、とめどもなく溢れ出る。

 自分が犯した失態とはいえ、好きでもない、それどころか唾棄するほど嫌われている相手に、自分から抱いてくれと頼まなければならないなんて、ひどすぎる。
 けれどもこれは、少しでも疎ましい恋敵を陥れることを望んでしまった私への、罰なのだろう。
 因果応報とはまさしくこのことか。
 それにきっと、もし計画通りに事を進めていたら、謀られたヒルデガルド嬢の苦しみは今の私以上だっただろう。

 しかしそうは思ってみても、絶望に落とされた胸の苦しみは微塵も軽くはならない。
 言葉の代わりに、嗚咽が漏れる。
 その時。

 唐突に腕を掴まれた感触で、私は驚愕で飛び上がるようにして顔を上げた。

「ロ、ロルフ卿――」
「今の話は本当か」

 びっくりするほど近くにある底光りする青い瞳に、目を丸くして息を呑む。
 間近で見ると、深い深い群青の海に、呑み込まれてしまいそうだ。
 呑み込まれたが最後、戻っては来られない予感がする。

 溺れる恐怖に、無意識で息を詰める。

「今の話は本当なのかと、聞いている」

 再び詰問されて、目の前の青い瞳に釘付けになったまま、何も考えられずに頷いてしまう。

 すると、またもや唐突に解放されて、私は呆然とロルフ卿の広い背中を目で追った。
 音もなく部屋を横切った卿が、ドアの前で動きを止める。

 やはり、私の拙い嘘では誤魔化されなかったのだ。
 けれどもそれで、良かったのかもしれない。
 お父様には不甲斐ない娘で申し訳ないが、犯した罪は償うべきなのだ。
 それに、今だったら私が勝手にやった単独の犯行ということにできる。
 差し当たっては、飲んでしまった薬をどうやって解毒するかだが、ここは王城だ、治癒術師だっているしきっと何とかなるだろう。
 曲がったことは嫌いなロルフ卿が、どんなに嫌っている相手だとしても、媚薬に苦しむ女性をそのまま放置するなど、騎士の倫理に悖るようなことはしないはずだ。

 嘘が通用しなかった落胆と共に、安堵でほっと息を吐いたのも束の間。

 ――ガチャリと、鍵が掛けられた音が部屋に響き渡った。

 そのまま、ロルフ卿が体ごと振り返る。
 今や殺気すら感じる光る藍の瞳で睨みつけられて、今度こそ私は、心の底から恐怖で震えが走るのがわかった。

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