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本編
19.テ・デウム(我等、天上にまします神たる御身を讃えん)
しおりを挟む私達が会場に戻ったときには、ちょうどニナがアリアを歌い始めるところだった。
灯が落とされているのをいいことに、こっそりと二人で壁際に佇む。
会場に居る皆はニナの歌声に魅了されていて、私達には気付いていない。
私はホッと息を吐き出し、彼女の歌声に耳を傾けた。
高らかに、しかし切なく彼の有名なアリアを歌い上げ、会場が割れんばかりの拍手に包まれる。
気付けば私も夢中になって手を叩き、ニナを讃えていた。
彼女への様々な蟠りが綺麗になくなった今は、純粋に彼女の歌声を楽しむことが出来る。
愛らしいだけではない、強く美しく、しなやかに自分の人生を生きる彼女に、私は心からの称賛を込めて拍手を送った。
「……キャス、君は本当に……」
夢中になって拍手をしていた私に、ミシェルが苦笑する。
次いでほつれ毛を私の耳に掛けて、そっと顔を近づけてきた。
「……君は本当に、お人好しだね?」
「それは……」
「ニナが、ただ単純に君との友情を求めたわけではないことは、わかっているんだろう?」
誰も彼もがステージの上のニナに夢中で、私達の会話は聞こえていない。
鳴りやまない拍手の中、私に寄り添ってミシェルが話を続けた。
「……なのに、どうして君は彼女を受け入れられるの?」
私を見詰めるミシェルの瞳は、柔らかに、優しい。
彼にもわかっているのだ。
ニナの真意も、私がそれを知っているということも。
包み込むようなその水色の瞳を見つめ返して、私は朗らかに微笑んだ。
「そうね、どうしてかしらね」
「……」
「でも多分、私、あなたが思ってるほどお人好しでも、綺麗な人間でもなくってよ?」
そう言って笑った私に、一瞬驚いた後、ミシェルが楽しそうな笑顔になった。
「ははは! そうか! そうだね!」
「ふふふふふ」
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
しばらくクスクスと笑い合った後、ミシェルが再び優しい瞳を向けてきた。
「それでもやっぱり、十分お人好しだよ?」
「ふふふ」
「……愛してるよ、キャス」
顔が近づけられ、軽く唇に触れるだけの優しいキスが落とされる。
互いに額を寄せた私達は、目を閉じたまま静かに笑い合った。
「…………見てたわよ?」
ステージの上で花束を渡した私に、瞳にいたずらっぽい輝きを湛えてそう言うニナは楽しそうだ。
先程の、私とミシェルの遣り取りを見ていたのだろう。
拍手と歓声の中、二人で寄り添い、観客に笑顔を向けたまま話し掛けてくる。
「しかも途中、抜けてたでしょう? ふふふ、本当、仲がいいのね」
からかうようなその口調には、親しみが込められている。
そこに他意は感じられない。
しかしきっと少し前までの私であったならば、こんなやり取りは許せなかっただろう。
ニナのそれは、私からかつての思い人であるネイサンを奪い、かつミシェルの思い人であったということの優越がなせる余裕だと取っていたに違いない。
それに実際、私に対する優越が全くないわけではないことも知っている。
そうでなかったら、こんな発言はできない。
ただ今の私には、それすらもどうでもよいことだった。
何故なら私には、明確な愛の証が。
今ミシェルが愛しているのは、私、だ。
もしかしたら、いや、もしかしなくても、かつてのニナ以上に愛されていることを私は知っている。
以前の私は、ミシェルがニナにはしなかったであろうことを私にすることに傷ついていたが、今は違う。
彼女にはし得なかったことを私にする理由、それは彼が私に執着し、より深いところで互いに許し合っているからに他ならない。
その事実を前に、一体何を気にする必要があるというのだ。
それにつまりは、私の余裕も優越なわけで。
結局はお互い様なのだ。
「そうね」
身の内にミシェルを感じながら、にっこりと微笑む。
「だからニナさんには、心底感謝をしているの」
心からの笑みを浮かべた私に、ニナの瞳が驚きに見開かれる。
それを見詰めて、笑顔で私は言葉を続けた。
「……さっきの歌、物凄く感動したわ。私、あなたとお友達になれて、本当に誇らしい」
嘘偽りのない、本心だ。
ミシェルに言われた通り、ニナがただ純粋に私との友情を求めたわけではないことは、私も十分に承知している。
身寄りのない彼女がこの世界でやっていくには、ミシェルと私という後ろ立ては必須、だ。
そしてそれは、刹那のものであってはならない。
今はギャビエ家の面子から後援が続けられているが、世間からミシェルとニナが婚約していたことを忘れ去られてしまえば、ギャビエ家がニナを援助する理由はなくなる。
むしろ私の立場を考えれば、ミシェルとしてはさっさとニナとの縁は切ってしまいたいところだろう。
何より、私とミシェルが結婚して一年が経ち、私達の仲睦まじさが知れ渡っている今、いつ援助が途切れてもおかしくはないのだ。
つまりニナの私へのそれは、そこを見越しての行動なわけだ。
ただ、それが全てだとは思わない。
ニナが私に友情を感じていると言っていたのも本当のことだろう。
紆余曲折を経て、ニナほど私に近しい人間はいない。
それは逆も然り、だ。
私がニナに様々な感情を持っていたのと同じように、ニナも私に様々な物思いを持っていただろうことを、今の私なら理解ができる。
もちろんそれは綺麗な感情ばかりではない。
憎悪、嫉妬、羨望-------むしろ負の感情が多いだろう。
ネイサンを愛していたニナが、かつて公然とネイサンの隣にいた私を羨まなかったはずはないのだから。
しかしそれは、ひっくり返せば相手への執着に他ならない。
同時にそれらの感情はわかりすぎる程わかるわけで。
ネイサンは私を愛してはいなかったけれども、それでもやはりそこには絆があった。
かつて私がミシェルの瞳にニナの姿を見たように、ニナもネイサンの中に私の存在を感じることはあったはずだ。彼を深く愛しているのならば、なおさらだ。
そしてその苦しさを、私は良く知っている。
誰よりも知っていると言ってもいい。
だからこそ私達は、誰よりも近しいのだ。
笑みを深めた私は、そっとニナの頬に親愛の口付けをおくったのだった。
帰りの車中、助手席で落ち着かない時間を過ごす私に、ミシェルが運転をしながらちらりと視線を向けてきた。
「どうしたの、キャス」
そう聞く彼の顔には、からかうような笑みが浮かべられている。
わかっているくせに、意地が悪い。
「……別に……」
「ふーん、そう?」
言いながら、ハンドルを切る。
行きとは違う道だ。
私は、わざと遠回りをしていることに気が付いた。
「……シェリー」
「はは。……別に、意地悪をしているわけではないよ?」
その割には私の反応を見て楽しそうだ。
そう、先程から体から溢れるものが気になって、落ち着かないのだ。
下着はミシェルに破られ使い物にならないため、既に身に着けてはいない。
となると、当然ドレスにシミができるわけで。
もしかしなくても、車のシートにも染みているだろう。
「……それにしても、案外君は平気だったね」
「それは……」
「もっと恥ずかしがって動揺するかと思ったんだけど。これじゃああまり、罰にはならなかったかな?」
楽しそうに笑って聞かれて、私は思わずため息を吐いた。
わかっているくせに、本当に意地が悪い。
「……必死に気にしない様にしてたのを、知ってるくせに」
「ははは!」
「もう!」
溢れ、脚を伝うそれに、気が気ではなかったのだ。
幸い踝までスカートの裾で隠れているため気付かれることはなかっただろうが、当然座ることはできない。
それに、気付かれることはないとわかってはいても、身の内から香る濃厚な情愛の香りに、人知れずドキドキしていたのだ。
「……意地悪だわ」
「ははははは! ……でも、君が悪いんだよ?」
恨めしく睨みつけるも、ミシェルはどこ吹く風だ。
楽しそうに笑う彼に、私は諦めてため息を吐いた。
車は、市街地を抜けて坂道を登っていく。
ようやく車を止めたミシェルに促されて窓の外を見た私は、眼下に広がるその景色に感嘆の息を吐いた。
「本当は、車を降りてもうちょっと上ったところからの眺めが一番なんだけど。この時間は危ないからね」
そうは言っても、ここからの景色も十分美しい。
街の灯が宝石のようだ。
こんな時間でも、まだまだこの街は明るい。
「……ようやく、明かりが戻ったね……」
大戦中、この街も占拠され、様々な被害を受けたのだ。
遠くを見詰めるようなミシェルの横顔に、私はそっと手を伸ばした。
優しくその頬を撫で、肩に頭をのせる。
しばらくそのまま黙って夜景を眺めた後、どちらからともなく私たちは口付けを交わした。
「……キャス、マ・シェリー。愛してるよ」
「……シェリー、モン・シェリ。愛してるわ」
「君に会えて良かった……」
「私も……」
目を閉じて、再び口付けを交わす。
唇を合わせるだけの口付けの後、顔を離したミシェルがニコリと笑った。
「さて、帰ろうか」
「そうね。もう帰らなくてはね」
きっともう眠ってしまっているが、家では小さなミッシェルが待っている。
笑顔になった私たちは、眼下の明かりの中の我が家へと車を走らせた。
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「テ・デウム」:カトリックの讃美歌。オペラ『トスカ』の第一幕のフィナーレで歌われる。ラテン語で、Te Deum laudamus 我等、天上にまします神たる御身を讃えん という意。
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