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スイ
〈11〉
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「……俺、五年前にここのパトカーとして働くことになったんですけど」
外に目を向けたまま男は独り言のように呟く。
「それからずっと様々な事故現場を見てきました。事故の理由は様々でした。どの事故でも車達は傷つき悲しんでいましたが、それを見ても最初はなんとも思わなかったのです。目の前の光景をあたかも別の世界での出来事のように捉えていたのです。俺は決して彼らの心に寄り添ってなどいませんでした。しかし、今思えばそのほうが幸せだったのかもしれません」
男が疲れたような笑みを浮かべた。
パトカーのサイレンが鳴り出すのが聞こえた。どこかに出動するらしい。
「しかし、ある事故を見たときに俺は変わったんです」
目の前の道路を走っていくパトカーを男が軽く目で追う。
「それはタクシーの事故でした。後から聞いた話によると、運転手が歩行者を避けようとハンドルを切ったことで起きた事故だったそうです。よけた際に縁石にぶつかり、それによって車体が回転したようで、事故現場にはタクシーがひっくり返っていました」
愛昼はその光景を頭に浮かべ、そして後悔した。タクシーの運転手のことを思うと体が震える。
男は愛昼の様子を気にせずに続ける。
「なんとか運転手は助け出されたようですが、頭と顔からかなり出血をしていたと聞きました。そんな運転手を目の当たりにしたタクシーは、何度も運転手に呼びかけた後、呆然として『これは夢だ、夢に決まってる』とうわ言のように何度も呟いていました」
淡々と感情なく語られる物語。まるで遠い昔の遠い国の話をしているようだったが、それがすぐ付近で今もなお起こるかもしれない物語であることを愛昼は知っている。
「そのタクシーは泣き叫ぶようなことはしませんでした。ただひたすら黙って成り行きを見つめていました。彼が何を考えていたかは正確には俺にはわかりません。しかし、いっそ感情を露にしてくれたほうが俺にはよかった」
男は顔をあげた。無感情な目が青空を映す。
「感情を爆発させても無駄だと彼は分かっていたのでしょう。ですから彼は、内面で哀しみを含めた全ての感情を押し殺したのです。彼は普通の車には感じたことのないそれらの激情に戸惑いながらも必死に耐えていたのでしょう。彼の凄惨な心情は巨大な波のように俺にも伝わってきました。それはたいそう恐ろしいものでした。そのとき『もし俺が彼だったとしたら、俺は一体どうなっていたのだろう』とふと思いました」
「それからというものの、俺は様々な事故現場にいる車達の哀しみが直に感じ取れるようになったのです。俺はやっと、目の前のことを自分のことのように捉えられるようになったのです。そして、それによって俺はひどく苦しむようになったのです」
男は一気にそこまで話終えると黙りこんだ。
愛昼は黙ったまま遠くで聞こえる十二時を知らせる放送の音を聞いていた。
男は疲れたようにはあと小さく息をはいた。そしてサッシの上で腕を組み、その上に顎をのせた。
愛昼は今、静かに驚いていた。
正直なところ、男を含め車がそこまでいろいろなことを考えているとは知らなかったのだ。話せはするが、子供のように皆無邪気で悩み事とは無縁なものだと思っていたのだ。
「……車も人間のように、そんなに酷く悲しむなんて知らなかったわ」
愛昼の言葉に男が寂しそうに言う。
「まあ、それはそうですよね。そもそも普通の人間は俺達の声さえも聞こえないんですから」
それを黙って聞く愛昼のお腹がぐうう、となった。愛昼は顔を赤らめお腹を押さえ、能天気な自分のお腹に怒る。それを見て男が小さく笑った。
もうすっかりお昼になっている。気恥ずかしさもあり、ここから退散しようと思って、自分が男に会いにきた理由を思い出した。
愛昼は姿勢を正すと男を見た。そして男と目を合わせゆっくりと口を開く。
「被害者が亡くなったわ」
愛昼はぽつりと言った。今、部屋の中は静寂に支配されていたため、彼女の声だけが染みるように辺りに響いた。
「……そうですか」
男はそれだけ言うと背を伸ばし窓から離れた。そして長机に置いてあった制帽をとり、目深く頭に被った。
そのまま彼は静かに姿を消した。ちゃりん、と鍵が床に落ちる。
愛昼はそれを拾うとポケットにいれた。そして部屋から出ると扉を閉め、その場を立ち去った。
外に目を向けたまま男は独り言のように呟く。
「それからずっと様々な事故現場を見てきました。事故の理由は様々でした。どの事故でも車達は傷つき悲しんでいましたが、それを見ても最初はなんとも思わなかったのです。目の前の光景をあたかも別の世界での出来事のように捉えていたのです。俺は決して彼らの心に寄り添ってなどいませんでした。しかし、今思えばそのほうが幸せだったのかもしれません」
男が疲れたような笑みを浮かべた。
パトカーのサイレンが鳴り出すのが聞こえた。どこかに出動するらしい。
「しかし、ある事故を見たときに俺は変わったんです」
目の前の道路を走っていくパトカーを男が軽く目で追う。
「それはタクシーの事故でした。後から聞いた話によると、運転手が歩行者を避けようとハンドルを切ったことで起きた事故だったそうです。よけた際に縁石にぶつかり、それによって車体が回転したようで、事故現場にはタクシーがひっくり返っていました」
愛昼はその光景を頭に浮かべ、そして後悔した。タクシーの運転手のことを思うと体が震える。
男は愛昼の様子を気にせずに続ける。
「なんとか運転手は助け出されたようですが、頭と顔からかなり出血をしていたと聞きました。そんな運転手を目の当たりにしたタクシーは、何度も運転手に呼びかけた後、呆然として『これは夢だ、夢に決まってる』とうわ言のように何度も呟いていました」
淡々と感情なく語られる物語。まるで遠い昔の遠い国の話をしているようだったが、それがすぐ付近で今もなお起こるかもしれない物語であることを愛昼は知っている。
「そのタクシーは泣き叫ぶようなことはしませんでした。ただひたすら黙って成り行きを見つめていました。彼が何を考えていたかは正確には俺にはわかりません。しかし、いっそ感情を露にしてくれたほうが俺にはよかった」
男は顔をあげた。無感情な目が青空を映す。
「感情を爆発させても無駄だと彼は分かっていたのでしょう。ですから彼は、内面で哀しみを含めた全ての感情を押し殺したのです。彼は普通の車には感じたことのないそれらの激情に戸惑いながらも必死に耐えていたのでしょう。彼の凄惨な心情は巨大な波のように俺にも伝わってきました。それはたいそう恐ろしいものでした。そのとき『もし俺が彼だったとしたら、俺は一体どうなっていたのだろう』とふと思いました」
「それからというものの、俺は様々な事故現場にいる車達の哀しみが直に感じ取れるようになったのです。俺はやっと、目の前のことを自分のことのように捉えられるようになったのです。そして、それによって俺はひどく苦しむようになったのです」
男は一気にそこまで話終えると黙りこんだ。
愛昼は黙ったまま遠くで聞こえる十二時を知らせる放送の音を聞いていた。
男は疲れたようにはあと小さく息をはいた。そしてサッシの上で腕を組み、その上に顎をのせた。
愛昼は今、静かに驚いていた。
正直なところ、男を含め車がそこまでいろいろなことを考えているとは知らなかったのだ。話せはするが、子供のように皆無邪気で悩み事とは無縁なものだと思っていたのだ。
「……車も人間のように、そんなに酷く悲しむなんて知らなかったわ」
愛昼の言葉に男が寂しそうに言う。
「まあ、それはそうですよね。そもそも普通の人間は俺達の声さえも聞こえないんですから」
それを黙って聞く愛昼のお腹がぐうう、となった。愛昼は顔を赤らめお腹を押さえ、能天気な自分のお腹に怒る。それを見て男が小さく笑った。
もうすっかりお昼になっている。気恥ずかしさもあり、ここから退散しようと思って、自分が男に会いにきた理由を思い出した。
愛昼は姿勢を正すと男を見た。そして男と目を合わせゆっくりと口を開く。
「被害者が亡くなったわ」
愛昼はぽつりと言った。今、部屋の中は静寂に支配されていたため、彼女の声だけが染みるように辺りに響いた。
「……そうですか」
男はそれだけ言うと背を伸ばし窓から離れた。そして長机に置いてあった制帽をとり、目深く頭に被った。
そのまま彼は静かに姿を消した。ちゃりん、と鍵が床に落ちる。
愛昼はそれを拾うとポケットにいれた。そして部屋から出ると扉を閉め、その場を立ち去った。
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