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9「そんなんで夫婦」

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「それで良庵先生、週に二日の稽古だけで儲かってるのかい?」

 定吉さだきっちゃんにも上がって貰ってお茶しています。
 お茶請けにはどうかと思いましたが、作っておいた小振りのお稲荷いなりさんも添えました。

「いやちっとも儲かってないな」

「ならお医者の方は?」
「いっそう儲かってないな」

 うちの大黒柱さまが、いたって苦もなく言ってのけました。
 そんな事じゃあ困るんですが、良庵せんせとあたしの二人が食う分にはなんとかかんとかギリギリ困るか困らないか、ぐらいの稼ぎですね。

「はぁ……。お葉さんはそんなんで良いのかい?」
「べつに良かありませんけど、夫婦二人が食えればまぁ良いかと」

「良庵先生、良いお嫁さん貰ったね。お稲荷さんも美味しいし」
「だろう? 僕もそう思う」


 そんな話から始まって、話題は二人の馴れ初めに。


 良庵せんせと出逢う前、あたしも色々あってちょいと何十年か海を渡って大陸の方を経巡へめぐってたんですよ。
 西へ西へと紅毛碧眼の人が多くいる辺りまで行って長いこと過ごしてたんですが、不意に里心が付いてこの島国に戻ってきたのがちょうど半年前。

 久しぶりで帰ってきたら色んなことが変わっちまってて驚いたけど、こんな田舎町だとあんまり関係なくってほっと安心したもんです。

 前に野巫三才図絵を書いたりしてた町から一山越えたこの辺りをウロウロしていると、怪しい木札を掲げる家が目に付いて、ありゃ一体いってえ何のつもりだい? と近付いてったんですよ。



「僕が書いた木札をさ、お葉さんが支えてくれたんだよ」
「初めてお逢いしたのはそんなでしたねぇ」

「どういうこと?」



 あたしが近付いてった木札にはあの時、今と違って『やぶ医者』の四文字だけが書いてあったんですよ。
 笑っちまいますよね。

 野巫医者かい? それともほんとに藪医者かしら?

 なんて思って側へ寄れば足元にぽつねんと細長い木箱が一つ。

 それを拾い上げようと伸ばしたあたしの手の甲へぽたりと墨が一滴垂れ、木箱を拾い上げて見てみれば、この『やぶ医者』の字、黒々とちっとも乾いてなくってね。

「書いてすぐにぶら下げちまっちゃいけませんねぇ」

 今更かしらと思いつつも、それ以上に墨が垂れないようたいらにしようとぶら下がった木札のお尻を引っ掴んで持ち上げると――

「お嬢さん! 危ない!」

 ――お庭から現れた良庵せんせが止めてくれたんですけど間に合いませんでした。

 拾った細長い木箱――良庵せんせお手製のあの筆入れだったんですが――、墨壺の蓋が開いてやがったんですよねぇ。

 袖先と膝の辺りに墨が飛んでとんだ染みったれ、ってね。


 あたしは木札のお尻を持ち上げたまま、良庵せんせは両手に半紙を持ったまま。
 少しの間二人とも黙って視線を泳がせてねぇ。


「あはは。思い出したら笑っちまいますねぇ」
「僕は全然笑えないですよ」

「そりゃそうだろうね……。で、なんでそこから夫婦めおとになるのさ。出会いは最悪じゃん」

「それがさ定吉っちゃん、墨だけで済まなかったんですよ」

 あたしは思い出すと噴き出しちまいそうに楽しくなりますけど、良庵せんせはそうもいかないらしくて浮かない顔。



 あの時の良庵せんせ、はっと気を取り直して言いました。

「誠に申し訳ない! とりあえずこれで手を!」

 なんて言ってあたしの手に付いた墨を半紙でぬぐってくれたのは良いんですが、何を思ったかあたしの着物に飛んだ墨まで拭ったんですよ。

 すでにしっかり吸ってしまって今更綺麗になんてなりゃしませんけれど、案の定で墨が伸びただけ。拭えば拭うほど酷くなる一方でねぇ。

「重ね重ね誠に申し訳ない!」

 って良庵せんせがあたしの手を引いて井戸端へ連れてってくれたのは良いんですが、水を汲んだ桶を持って蹴躓けつまずくもんだからあたしは頭っからびしょ濡れでね。あははは。

 慌てた良庵せんせは自分の上衣を脱いであたしに放り投げ、襦袢じゅばんと袴になって言ったんですよ。

「風呂を沸かします! しばしお待ちを!」

 この時のあたし、不思議なことに一つも怒っていませんでした。
 それどころかもうこの時に、なんでかこの人のことが愛おしくなってたんですよねぇ。

 その後お湯にかって体がぬくもってきたころ、窓越しに良庵せんせの声が届いたんです。

「本当にすみませんでした。お詫びになにか僕にできることはありませんか?」

「そうですねぇ……でしたらあたしを、ここに置いて貰えませんか?」




「え? 二人はそんなんで夫婦めおとになったの!?」

 それだけでもないんですけど、まぁそうですね。

「ええ、そんなんで」
「そんなんで夫婦だ」


 すみませんけどこの話題、もうちょっと続きますよ。

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