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翌朝は、きらきらの太陽がまぶしい晴天だった。
大学四年生のわたしは、講義のない日はお昼ごろに起床するという体たらくな生活を送っている。周りはみんな就活をスタートしていて、芽衣も今日は大手企業の説明会に行くと言っていた。
ところがわたしは、なんとなく動く気になれずまだ何もしていない。
やらなきゃいけないっていうことは分かる。だけど、何をすべきなのかがわからなかった。それをこぼすと芽衣には『とにかくかたっぱしから説明会に行くんだってば!』なんて言われたけれど、そんなの時間と労力の無駄にも思えてしまう。
いや、就活はそんな甘いものじゃないって、わかってはいるんだけど。
「タキくん、ちゃんと眠れたかな……」
アラームを止めた手元のスマホは、午前七時半。きちんと起きれるよう、カーテンは昨夜から開けっ放しにしてある。人間が眠りから覚醒するには、朝陽を浴びるのが一番だってなにかで見たから。
「……よし、起きますか」
講義がない日、わたしの日中は本当にからっぽだ。沖縄料理屋のバイトは夕方の五時からだし、今はサークルにも参加していない。だからいつも昼頃に目を覚まして、それからごろごろと部屋の中で過ごしているだけなのだ。
一年前までは、暇さえあればSTAYのコンサート映像なんかを見たりしていたけれど、今その映像ディスクは棚に飾ったままだ。綺麗に掃除はしているけれど、もうずっとケースを開けてすらいない。
──矛盾だ、って思われるかもしれない。
未だに部屋の中にはタキくんやSTAYのポスターやグッズが飾られていて、お菓子のおまけについてきた、小さなフライヤーですら捨てられずにいる。それでも、彼らの映像は、あの日以来見ることができなくなってしまったのだ。
顔を洗ってメイクをして、ヘアアイロンのスイッチを入れる。アイロンを温めている間に、洋服選びだ。
酒屋の仕事は、どんなことをするのだろうか。重たいものを持ったり、あとは掃除も必要だろうから下はデニムがいいだろう。だけど接客もするかもしれないし、清潔感はやっぱり大事だ。二年前に買った、淡いラベンダー色の薄手のニットを取り出した。
こうやって、自分を着飾ってあげるのも久しぶりな気がする。
わたしはずっと、いわゆる地味なタイプだった。中学、高校と、『暗いやつ』と言われ、自分でもその通りだと思っていた。
みんなが興味のあるメイクにファッションは、自分とは無関係だと思い込んできた。いや、そういうものは、かわいい子たちの特権だと思い込んでいたのだ。
そんなわたしでも、『かわいくなりたい』と願っていいのだと思えたのは、STAY、そしてタキくんと出会えたから。
わたしもタキくんのように、キラキラしたい。
自分のことを好きになりたい。
そんな風に感じさせてくれたのは、今までの人生で、彼たったひとり。
タキくんは、わたしの人生を変えてくれた恩人なのだ。
「タキくん、恩返しするからね」
ポスターの中で微笑む彼に、わたしはそっと決意を誓ったのだった。
◇
「おはようございますっ!」
ガラガラッ。今朝も引き戸のコンディションは、絶不調。これ、どうにかスムーズに開閉できるようにならないかな。本当はお店の前で、三回くらい深呼吸をしたのはここだけの話。
午前九時。わたしは倉間酒店の引き戸を開けた。
店の右側には冷蔵ケースが並び、左側は段ボールなどが乱雑に積み重ねられている。昨夜タキくんが眠っていた──倒れていたとも言える──スペースは一段高くなった小上がりの奥。入り口はのれんでおおわれているため、こちらからは商品や荷物の隙間から少し見える程度だ。
今朝もそちらから、テレビのワイドショーの音が聞こえてくる。
よし、と小さく決意を新たにしたわたしは、小上がりの前まで進むと、もう一度「おはようございます!」と声を張り上げた。
その、約五秒後。
「ほんとに来た……」
食パンを齧ったタキくんが、ゆらりとのれんの奥から現れた。
本日も昨日と同じく、ボサボサ頭に白いヨレヨレTシャツ、黒のスウェットパンツに丸眼鏡だ。ただ、露出している素足や手は、真っ白でとても美しい。
そうだよ、タキくんは手が綺麗で有名だったんだから。
ひとりで感動を噛みしめていると、タキくんはまた無言のままのれんの奥へと消えていった。
とりあえず追い返されなかったということは、手伝っていいということだろう。
わたしはリュックを小上がりの上におろすと、中からオレンジ色のエプロンを取り出した。これはひとり暮らしをするときに、料理上手になるぞ!との決意を込めて買ったおしゃれエプロンである。ちなみにこの三年間ちょっと、棚の奥底に眠り続けていた代物だ。まさか、こんなところで役に立つ日が来るとは。
「すみませーん! ほうきとか、ありますかー?」
奥に向かって再び声を張り上げるも、返事はない。わたしはぐるりと周りと見回し、右奥の荷物の隙間に置かれた小さなほうきを拝借した。
本当は段ボールなどを整理してから掃除をするべきなのかもしれないけれど、わたしにはどれが不要なものなのかわからない。タキくんは今、朝ごはん中のようだし、とりあえず店の入り口付近くらいは綺麗にしておきたい。
赤い柄の、短いほうき。こういうほうきを使うのなんて、中学のベランダ掃除以来かもしれない。ジャッ、ジャッ、という小気味よい音は、なんだか気持ちの塵まで掃いてくれるようだ。
気づけば鼻歌がこぼれていた。
そのときだ。ガタガタと、ガラス戸が不規則な音をたてた。
「お??」
「いっ、いらっしゃいませめんそーれーっ!」
まさかこんな早々にお客さんが来るとは思ってもみなかったわたしの口からは、バイト先の決まり文句が飛び出した。しまった、と思うも時すでに遅し。扉から入ってきた白髪のおじいさんは、あっはっはと大きな声で笑い「ハイサイハイサイ~」と沖縄の伝統的な踊りの手を真似してみせた。
「すすすすみませんっ間違えちゃって!」
真っ赤になる顔を思いきり下げると、おじいさんはまた楽しそうに笑う。
「タキの彼女かいな?」
「いやいやいや! もう全然そんな!」
「いやぁ隅に置けんわ。なあ、タキ」
慌てて振り向くと、のれんから顔を出すタキくんの姿。彼はそれからのそりと出てくると、サンダルをつっかけてこちらへとやって来た。
身長百八十二センチ。
途端に蘇る、STAY公式サイトのプロフィール欄。
これまでは同じ高さで並ぶということがなかったためわからなかったが、実際に横に並ぶとその大きさにドキリとしてしまう自分がいる。いや、ちょっとかっこつけて言った。ドキドキして息をするのも苦しいくらい。
──この人、タキくんだ。本物のタキくんだ。
そんなのわかりきっていたはずなのに、頭で理解するのと感覚で実感するのはまた別のことみたいだ。
そんな呼吸が浅くなっているわたしの横で、タキくんはがしがしと頭をかいて「じーちゃん、なに」と言った。
──じーちゃん?
「えっ、おじいちゃん? タキくんの、おじいちゃん……?」
ぽかんと口を開けたわたしに、おじいさんはにこっと笑った。
「吉三でーす、ヨロシクドウゾ!」
タキくんがメディアに出るとよくしていた、自己紹介と同じリズムで、吉三さんは決め顔をして見せた。
「一花ちゃん、いいのぉテキパキ働いてくれて」
「吉三さん、こっちの段ボールは必要ですか?」
「空っぽの段ボールはぜーんぶ処分でいいぞ。タキの方に投げていいから。潰すんはタキの仕事じゃ」
「…………」
吉三さんが現われてから、店内の雰囲気が一気に変わった。それまではなんというか、辛気臭い空気が漂っていたのに、一気に活気のある感じになったのだ。
小上がりに腰掛けながら、杖で指示を出す吉三さん。それをわたしとタキくんで片づけていくという流れだ。
タキくんは、相変わらずに無口だった。ただひたすらに、わたしがパスした段ボールを潰していく。重なったそれを紐できつく締め、店の端に寄せていく。
それでも時折こめかみから汗が光って、わたしは思わず、それを凝視しては我に返るということを繰り返していた。
話を聞くところによると、このお店はもともと吉三さんがひとりでやっていた店だったそうだ。以前、ここはお客さんがとても多い栄えた飲み屋街で、ほとんどのお店が倉間酒店を通してお酒を購入していた。
ところが時代の移ろいと共に次々と店は閉店。今ではこの倉間酒店だけがぽつんと残ってしまっているということだった。
「まーったくのぅ、賃貸の手もつかんし。税金ばっかかかってしゃーなしじゃ!」
驚くことに、このあたりの土地は吉三さんの所有地だった。空っぽになったテナントも、すべて吉三さんのものらしい。
こんな新宿の一等地に土地があるなんて、とてつもないお金持ちだ。売りに出せば、買い手だってつくだろう。それでもそうしないのは、吉三さんなりの想いがあるのかもしれない。
「吉三さんは、近くに住んでるんですか?」
奥で沸かしたお茶をすすりながら目を細めている吉三さんにそう聞けば「そうなぁ」とどちらとも取れない返事をする。
「近いと言えば近い。遠いと言えば遠い」
まるで一休さんのとんちみたいだな、とわたしは思った。だけど頭の回転が速いわけではないわたしが、その答えにたどり着くことはできなくて、結局は「なるほど」などとよくわからない相槌を打ってしまう。
わたしはいつもそうなのだ。
白と黒はっきりさせることとか、真相を明確にするとか、そういうのがとても苦手。だから日本という国に生まれて本当によかったと思っている。
海外では、イエスかノー、はっきりさせなければならないことが多いってよく聞くから。
吉三さんは少しするとシャツのポケットからスマホを取り出し、どこかへと電話をかける。
その間、タキくんはひたすらに無言で作業に徹するのみ。ときおりわたしが、「これお願いします」などと声をかけても、こちらを見ずに頷くだけで視線は合わない。
──タキくんって、こんなに何を考えているのかわからない人だったっけ。
今目の前にいるこの人と、わたしが推してきた人が同一人物だとは、なかなかに思えない。わたしが見てきたタキくんは、いつも笑顔で、メンバーやファンのことを誰よりも見ていて、たくさんしゃべってたくさん笑う、そんな人だったから。
「タキ。配達」
いつの間にか通話を終えていた吉三さんが、タキさんに顎で指示をする。
「三丁目のタイ料理屋に瓶ビール二ケース配達してきい。あと、二丁目のスナック蝶音とМAYと、ほれ、メモせい。それから──」
吉三さんはつらつらと、配達先をタキくんに伝える。タキくんは戸惑った様子を見せながらも、吉三さんにお尻を叩かれ、用意したお酒を台車に乗せてガラガラと店を後にした。少し離れた駐車場に、軽トラックがあるらしい。
「配達とかもあるんですね」
タキくんがいなくなった店内でわたしが言うと、吉三さんはフンと鼻を鳴らす。
「こんな場所でやっとってりゃ、配達でもせんとな。潰れる一方やがな」
タキは商売下手だ、と吉三さんはこぼした。それからわたしにチョイチョイと手招きすると、隣に腰掛けるように促す。仕事中だけどいいのかな、と思いはしたものの、正直ちょっと一休みしたいと感じていたところだったので、わたしは素直に腰を下ろした。
改めて見ると、ずいぶんとお店の中がすっきりしたように思える。積み重ねられていた段ボールがほとんどゴミだったのだから、当然といえば当然だ。
「一花ちゃんは、タキがこの店をやる前になにをしてたか、知っておるんよな?」
吉三さんの声は、先ほどに比べるとひどく落ち着いたトーンで響く。もしかしたら張り上げていた声は、タキくんのことを鼓舞するためのものだったのかもしれない。
わたしはこくんと頷くと「ファンでしたから」と素直に吐露する。うむ、と頷いた吉三さんは、どこか遠くを見るような目をして口を開いた。
「あれはなぁ、もともと優しい子だったんよ。優しすぎてな、きっと色々なもんを抱え過ぎたんだろなぁ。あっちの世界から戻ってきたら、抜け殻のようになっとった」
セミの抜け殻、と吉三さんはくしゃっと眉を下げて笑った。
タキくんは、優しいひとだ。だけどその優しさは、アイドルとしての見世物として作られたものではなく、タキくんの本当の姿の一部だったのだと知って、わたしは小さく息を吐く。それと同時に、胸の奥がずきんと痛んだ。
そうだ、タキくんはからっぽなのだ。
だから笑わないし、怒らないし、意思表示もしない。わたしが来たことに迷惑そうな顔を見せたものの、はっきりと拒むことはせず、だから今、わたしはこうしてこの場所にいる。
不愛想さだって、タキくんがからっぽになってしまったからそう見えるのだ。いまのタキくんは、本当のタキくんじゃない。
「この店もな、タキがおらんかったらもうとっくに潰れとうわ。あいつ、抜け殻になったくせに、この店はやるって聞かなくてなぁ。でもいざやってみせたら、このザマやが。中途半端な正義感なんぞ、手放して自由になったらええのになあ」
「自由になったら、タキくんはどこかへ飛んで行っちゃいますよ……」
「飛んでくかの……」
「うん……それは、ダメです」
少しだけ、ほんの少しだけタキくんの気持ちがわかるような気がする。
死にたい、とか、消えたい、とか。そういう明確なものじゃない。だけどなんだか毎日がからっぽで、自分自身もからっぽに思えて、そうすると風船みたいに飛んでいってしまいそうな心もとなさに支配されることがある。
自分をどこかにつなぎとめていなければ、空へ吸い込まれていってしまいそうな感覚になる。
きっと今のタキくんにとって、このお店が唯一の、この世界と自分を繋いでおける場所なのではないだろうか。
「タキくんはきっと、本当にお店のことは大事なんですよ」
「それなら、もうちょい商売っけを出してもらわんとなぁ」
「でもきっと、そこまで体が追い付かないんじゃないかなって思うんです」
「……ふむ」
「だからそれまでは、わたしにできることをしたいんです」
「……ファンだからかや?」
「命を、救ってもらったから」
吉三さんがなにかを言いかけたとき、「すみませーん」という軽やかな声が店内に響いた。お客さんの来店だ。
わたしがタキくんにしてあげられることなんて、きっと本当は何もない。
タキくんを救うとか
タキくんを元気づけるとか
本当のタキくんを取り戻すとか
そんな大げさなことができるなんて思ってない。
それでも例えば、このお店のためにという意味ならば、少しくらいは役に立てると思うんだ。
「いらっしゃいませめんそ……いらっしゃいませ~っ」
元気よく挨拶をする。
笑顔でお客さんをお迎えする。
おいしいお酒を紹介する。
お客さんに、また来たいなって思ってもらえるようにする。
今できる一番の笑顔で、わたしはお客さんを出迎えたのだった。
大学四年生のわたしは、講義のない日はお昼ごろに起床するという体たらくな生活を送っている。周りはみんな就活をスタートしていて、芽衣も今日は大手企業の説明会に行くと言っていた。
ところがわたしは、なんとなく動く気になれずまだ何もしていない。
やらなきゃいけないっていうことは分かる。だけど、何をすべきなのかがわからなかった。それをこぼすと芽衣には『とにかくかたっぱしから説明会に行くんだってば!』なんて言われたけれど、そんなの時間と労力の無駄にも思えてしまう。
いや、就活はそんな甘いものじゃないって、わかってはいるんだけど。
「タキくん、ちゃんと眠れたかな……」
アラームを止めた手元のスマホは、午前七時半。きちんと起きれるよう、カーテンは昨夜から開けっ放しにしてある。人間が眠りから覚醒するには、朝陽を浴びるのが一番だってなにかで見たから。
「……よし、起きますか」
講義がない日、わたしの日中は本当にからっぽだ。沖縄料理屋のバイトは夕方の五時からだし、今はサークルにも参加していない。だからいつも昼頃に目を覚まして、それからごろごろと部屋の中で過ごしているだけなのだ。
一年前までは、暇さえあればSTAYのコンサート映像なんかを見たりしていたけれど、今その映像ディスクは棚に飾ったままだ。綺麗に掃除はしているけれど、もうずっとケースを開けてすらいない。
──矛盾だ、って思われるかもしれない。
未だに部屋の中にはタキくんやSTAYのポスターやグッズが飾られていて、お菓子のおまけについてきた、小さなフライヤーですら捨てられずにいる。それでも、彼らの映像は、あの日以来見ることができなくなってしまったのだ。
顔を洗ってメイクをして、ヘアアイロンのスイッチを入れる。アイロンを温めている間に、洋服選びだ。
酒屋の仕事は、どんなことをするのだろうか。重たいものを持ったり、あとは掃除も必要だろうから下はデニムがいいだろう。だけど接客もするかもしれないし、清潔感はやっぱり大事だ。二年前に買った、淡いラベンダー色の薄手のニットを取り出した。
こうやって、自分を着飾ってあげるのも久しぶりな気がする。
わたしはずっと、いわゆる地味なタイプだった。中学、高校と、『暗いやつ』と言われ、自分でもその通りだと思っていた。
みんなが興味のあるメイクにファッションは、自分とは無関係だと思い込んできた。いや、そういうものは、かわいい子たちの特権だと思い込んでいたのだ。
そんなわたしでも、『かわいくなりたい』と願っていいのだと思えたのは、STAY、そしてタキくんと出会えたから。
わたしもタキくんのように、キラキラしたい。
自分のことを好きになりたい。
そんな風に感じさせてくれたのは、今までの人生で、彼たったひとり。
タキくんは、わたしの人生を変えてくれた恩人なのだ。
「タキくん、恩返しするからね」
ポスターの中で微笑む彼に、わたしはそっと決意を誓ったのだった。
◇
「おはようございますっ!」
ガラガラッ。今朝も引き戸のコンディションは、絶不調。これ、どうにかスムーズに開閉できるようにならないかな。本当はお店の前で、三回くらい深呼吸をしたのはここだけの話。
午前九時。わたしは倉間酒店の引き戸を開けた。
店の右側には冷蔵ケースが並び、左側は段ボールなどが乱雑に積み重ねられている。昨夜タキくんが眠っていた──倒れていたとも言える──スペースは一段高くなった小上がりの奥。入り口はのれんでおおわれているため、こちらからは商品や荷物の隙間から少し見える程度だ。
今朝もそちらから、テレビのワイドショーの音が聞こえてくる。
よし、と小さく決意を新たにしたわたしは、小上がりの前まで進むと、もう一度「おはようございます!」と声を張り上げた。
その、約五秒後。
「ほんとに来た……」
食パンを齧ったタキくんが、ゆらりとのれんの奥から現れた。
本日も昨日と同じく、ボサボサ頭に白いヨレヨレTシャツ、黒のスウェットパンツに丸眼鏡だ。ただ、露出している素足や手は、真っ白でとても美しい。
そうだよ、タキくんは手が綺麗で有名だったんだから。
ひとりで感動を噛みしめていると、タキくんはまた無言のままのれんの奥へと消えていった。
とりあえず追い返されなかったということは、手伝っていいということだろう。
わたしはリュックを小上がりの上におろすと、中からオレンジ色のエプロンを取り出した。これはひとり暮らしをするときに、料理上手になるぞ!との決意を込めて買ったおしゃれエプロンである。ちなみにこの三年間ちょっと、棚の奥底に眠り続けていた代物だ。まさか、こんなところで役に立つ日が来るとは。
「すみませーん! ほうきとか、ありますかー?」
奥に向かって再び声を張り上げるも、返事はない。わたしはぐるりと周りと見回し、右奥の荷物の隙間に置かれた小さなほうきを拝借した。
本当は段ボールなどを整理してから掃除をするべきなのかもしれないけれど、わたしにはどれが不要なものなのかわからない。タキくんは今、朝ごはん中のようだし、とりあえず店の入り口付近くらいは綺麗にしておきたい。
赤い柄の、短いほうき。こういうほうきを使うのなんて、中学のベランダ掃除以来かもしれない。ジャッ、ジャッ、という小気味よい音は、なんだか気持ちの塵まで掃いてくれるようだ。
気づけば鼻歌がこぼれていた。
そのときだ。ガタガタと、ガラス戸が不規則な音をたてた。
「お??」
「いっ、いらっしゃいませめんそーれーっ!」
まさかこんな早々にお客さんが来るとは思ってもみなかったわたしの口からは、バイト先の決まり文句が飛び出した。しまった、と思うも時すでに遅し。扉から入ってきた白髪のおじいさんは、あっはっはと大きな声で笑い「ハイサイハイサイ~」と沖縄の伝統的な踊りの手を真似してみせた。
「すすすすみませんっ間違えちゃって!」
真っ赤になる顔を思いきり下げると、おじいさんはまた楽しそうに笑う。
「タキの彼女かいな?」
「いやいやいや! もう全然そんな!」
「いやぁ隅に置けんわ。なあ、タキ」
慌てて振り向くと、のれんから顔を出すタキくんの姿。彼はそれからのそりと出てくると、サンダルをつっかけてこちらへとやって来た。
身長百八十二センチ。
途端に蘇る、STAY公式サイトのプロフィール欄。
これまでは同じ高さで並ぶということがなかったためわからなかったが、実際に横に並ぶとその大きさにドキリとしてしまう自分がいる。いや、ちょっとかっこつけて言った。ドキドキして息をするのも苦しいくらい。
──この人、タキくんだ。本物のタキくんだ。
そんなのわかりきっていたはずなのに、頭で理解するのと感覚で実感するのはまた別のことみたいだ。
そんな呼吸が浅くなっているわたしの横で、タキくんはがしがしと頭をかいて「じーちゃん、なに」と言った。
──じーちゃん?
「えっ、おじいちゃん? タキくんの、おじいちゃん……?」
ぽかんと口を開けたわたしに、おじいさんはにこっと笑った。
「吉三でーす、ヨロシクドウゾ!」
タキくんがメディアに出るとよくしていた、自己紹介と同じリズムで、吉三さんは決め顔をして見せた。
「一花ちゃん、いいのぉテキパキ働いてくれて」
「吉三さん、こっちの段ボールは必要ですか?」
「空っぽの段ボールはぜーんぶ処分でいいぞ。タキの方に投げていいから。潰すんはタキの仕事じゃ」
「…………」
吉三さんが現われてから、店内の雰囲気が一気に変わった。それまではなんというか、辛気臭い空気が漂っていたのに、一気に活気のある感じになったのだ。
小上がりに腰掛けながら、杖で指示を出す吉三さん。それをわたしとタキくんで片づけていくという流れだ。
タキくんは、相変わらずに無口だった。ただひたすらに、わたしがパスした段ボールを潰していく。重なったそれを紐できつく締め、店の端に寄せていく。
それでも時折こめかみから汗が光って、わたしは思わず、それを凝視しては我に返るということを繰り返していた。
話を聞くところによると、このお店はもともと吉三さんがひとりでやっていた店だったそうだ。以前、ここはお客さんがとても多い栄えた飲み屋街で、ほとんどのお店が倉間酒店を通してお酒を購入していた。
ところが時代の移ろいと共に次々と店は閉店。今ではこの倉間酒店だけがぽつんと残ってしまっているということだった。
「まーったくのぅ、賃貸の手もつかんし。税金ばっかかかってしゃーなしじゃ!」
驚くことに、このあたりの土地は吉三さんの所有地だった。空っぽになったテナントも、すべて吉三さんのものらしい。
こんな新宿の一等地に土地があるなんて、とてつもないお金持ちだ。売りに出せば、買い手だってつくだろう。それでもそうしないのは、吉三さんなりの想いがあるのかもしれない。
「吉三さんは、近くに住んでるんですか?」
奥で沸かしたお茶をすすりながら目を細めている吉三さんにそう聞けば「そうなぁ」とどちらとも取れない返事をする。
「近いと言えば近い。遠いと言えば遠い」
まるで一休さんのとんちみたいだな、とわたしは思った。だけど頭の回転が速いわけではないわたしが、その答えにたどり着くことはできなくて、結局は「なるほど」などとよくわからない相槌を打ってしまう。
わたしはいつもそうなのだ。
白と黒はっきりさせることとか、真相を明確にするとか、そういうのがとても苦手。だから日本という国に生まれて本当によかったと思っている。
海外では、イエスかノー、はっきりさせなければならないことが多いってよく聞くから。
吉三さんは少しするとシャツのポケットからスマホを取り出し、どこかへと電話をかける。
その間、タキくんはひたすらに無言で作業に徹するのみ。ときおりわたしが、「これお願いします」などと声をかけても、こちらを見ずに頷くだけで視線は合わない。
──タキくんって、こんなに何を考えているのかわからない人だったっけ。
今目の前にいるこの人と、わたしが推してきた人が同一人物だとは、なかなかに思えない。わたしが見てきたタキくんは、いつも笑顔で、メンバーやファンのことを誰よりも見ていて、たくさんしゃべってたくさん笑う、そんな人だったから。
「タキ。配達」
いつの間にか通話を終えていた吉三さんが、タキさんに顎で指示をする。
「三丁目のタイ料理屋に瓶ビール二ケース配達してきい。あと、二丁目のスナック蝶音とМAYと、ほれ、メモせい。それから──」
吉三さんはつらつらと、配達先をタキくんに伝える。タキくんは戸惑った様子を見せながらも、吉三さんにお尻を叩かれ、用意したお酒を台車に乗せてガラガラと店を後にした。少し離れた駐車場に、軽トラックがあるらしい。
「配達とかもあるんですね」
タキくんがいなくなった店内でわたしが言うと、吉三さんはフンと鼻を鳴らす。
「こんな場所でやっとってりゃ、配達でもせんとな。潰れる一方やがな」
タキは商売下手だ、と吉三さんはこぼした。それからわたしにチョイチョイと手招きすると、隣に腰掛けるように促す。仕事中だけどいいのかな、と思いはしたものの、正直ちょっと一休みしたいと感じていたところだったので、わたしは素直に腰を下ろした。
改めて見ると、ずいぶんとお店の中がすっきりしたように思える。積み重ねられていた段ボールがほとんどゴミだったのだから、当然といえば当然だ。
「一花ちゃんは、タキがこの店をやる前になにをしてたか、知っておるんよな?」
吉三さんの声は、先ほどに比べるとひどく落ち着いたトーンで響く。もしかしたら張り上げていた声は、タキくんのことを鼓舞するためのものだったのかもしれない。
わたしはこくんと頷くと「ファンでしたから」と素直に吐露する。うむ、と頷いた吉三さんは、どこか遠くを見るような目をして口を開いた。
「あれはなぁ、もともと優しい子だったんよ。優しすぎてな、きっと色々なもんを抱え過ぎたんだろなぁ。あっちの世界から戻ってきたら、抜け殻のようになっとった」
セミの抜け殻、と吉三さんはくしゃっと眉を下げて笑った。
タキくんは、優しいひとだ。だけどその優しさは、アイドルとしての見世物として作られたものではなく、タキくんの本当の姿の一部だったのだと知って、わたしは小さく息を吐く。それと同時に、胸の奥がずきんと痛んだ。
そうだ、タキくんはからっぽなのだ。
だから笑わないし、怒らないし、意思表示もしない。わたしが来たことに迷惑そうな顔を見せたものの、はっきりと拒むことはせず、だから今、わたしはこうしてこの場所にいる。
不愛想さだって、タキくんがからっぽになってしまったからそう見えるのだ。いまのタキくんは、本当のタキくんじゃない。
「この店もな、タキがおらんかったらもうとっくに潰れとうわ。あいつ、抜け殻になったくせに、この店はやるって聞かなくてなぁ。でもいざやってみせたら、このザマやが。中途半端な正義感なんぞ、手放して自由になったらええのになあ」
「自由になったら、タキくんはどこかへ飛んで行っちゃいますよ……」
「飛んでくかの……」
「うん……それは、ダメです」
少しだけ、ほんの少しだけタキくんの気持ちがわかるような気がする。
死にたい、とか、消えたい、とか。そういう明確なものじゃない。だけどなんだか毎日がからっぽで、自分自身もからっぽに思えて、そうすると風船みたいに飛んでいってしまいそうな心もとなさに支配されることがある。
自分をどこかにつなぎとめていなければ、空へ吸い込まれていってしまいそうな感覚になる。
きっと今のタキくんにとって、このお店が唯一の、この世界と自分を繋いでおける場所なのではないだろうか。
「タキくんはきっと、本当にお店のことは大事なんですよ」
「それなら、もうちょい商売っけを出してもらわんとなぁ」
「でもきっと、そこまで体が追い付かないんじゃないかなって思うんです」
「……ふむ」
「だからそれまでは、わたしにできることをしたいんです」
「……ファンだからかや?」
「命を、救ってもらったから」
吉三さんがなにかを言いかけたとき、「すみませーん」という軽やかな声が店内に響いた。お客さんの来店だ。
わたしがタキくんにしてあげられることなんて、きっと本当は何もない。
タキくんを救うとか
タキくんを元気づけるとか
本当のタキくんを取り戻すとか
そんな大げさなことができるなんて思ってない。
それでも例えば、このお店のためにという意味ならば、少しくらいは役に立てると思うんだ。
「いらっしゃいませめんそ……いらっしゃいませ~っ」
元気よく挨拶をする。
笑顔でお客さんをお迎えする。
おいしいお酒を紹介する。
お客さんに、また来たいなって思ってもらえるようにする。
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