上 下
40 / 43

40

しおりを挟む


◇◇◇



「瀬乃生くーん、ここの見積りやり直してー」

「あ、はいっ」

瀧はデスクから顔を上げると声を掛けてきた先輩社員から見積書を受け取りに立ち上がる。

「そいえば今日、藤沢商事と合コンあるけど行く?一人ドタキャンでさー、メンバー足りないのよ」

「あー、いや。すいません」

「いーの、いーの、瀬乃生くん誘った俺が悪い」

先輩社員のちらりとした視線を左手の指輪で受けると瀧は曇りのない明るい笑顔でこたえる。

「未練たらしいですよね」

「いやー、瀬乃生くんみたいなイケメンなら俺も待たれたーい」

先輩社員は笑いながらもう行っていいよと手のひらを振りながらパソコンに向き直り仕事に戻る。




瀧は今年の五月で23歳になる。

ヒューと別れてから丸二年が経とうとしていた。

あの別れの日から数ヶ月間は鳴らないスマホを見つめ、連絡を取ろうとしてスマホを手に取るが、ヒューの言った言葉のひとつひとつを思い出しては反芻し、ヒューがあの時何を言いかけたのかを考えて、やっぱり連絡をするのを止めて‥。を繰り返す日々が続いた。

あの時、ヒューは時間が欲しいと言った。瀧とは一緒に暮らす自信が無いとも。

だから瀧は待とうと思った。自分の気が済むまで。外せない結婚指輪も、いつか蛇が脱皮する様にするりと抜ける日が来るのだと思って。

大学を卒業し、ショッピングモールの企画営業職に就いた新入社員の瀧は周りの同僚からその見た目の良さに二度見されたあと左手の指輪に気付かれよく話題にされていた。

瀧も今はもう躊躇うことなく指輪の経緯を話すことが出来た。
大学時代に結婚指輪を渡した人がいたこと。別れてしまった今も指輪を外せないでいること。

女々しいと裏で笑われようと瀧は平気だった。ヒューという存在が心にまだいることは決して揺るがない事実だったからだ。






よく晴れた日曜、今も実家で暮らしている瀧はスーツのネクタイを整えるとリビングに顔を出した。

「ねーちゃん、まだ?」

「ねえ、ほんと。あの子遅いわあ」

茗子も上品なワンピースで和彦もスーツと二人ともしっかりとした出立ちだ。

「わー、遅れそう!」

そこへバタバタと二階から降りてくる静湖も華やかに身なりを整えている。

「タクシー待ってるわよ。早く行きましょ」

「相手方に静湖のずぼらがバレないうちになあ」

茗子と和彦が腰掛けていたダイニングの椅子から立ち上がる。


静湖は昨年の冬に伴侶となる相手に出会い、早々に結婚することを決め、今日はその相手の家族と瀧の家族とで初顔合わせだ。

タクシーに乗り込んだあと隣のシートに座る静湖が瀧の指輪に気付くとしょうがないなあ、と小さなため息吐きながらいつもより優しい口調で話しかける。

「たーきー、それ、外してってよ」

静湖は瀧の指輪を目で指す。

「相手の両親に弟さんは結婚してるんですか?なんて突っ込まれたら返し様がないでしょ」

「はいはい」

瀧は素直に指輪を外すとスーツの胸ポケットに仕舞い込んだ。


タクシーが目的のホテルに止まり、瀧の家族たちはホテル内の料亭へ向かうと店の入り口に居るスタッフに声を掛ける。その後ろで新たに人の入ってくる気配があり、別のスタッフが対応するために瀧の横を通り過ぎると忘れもしない声が瀧の耳に届いた。

「予約したアンドロシュだが」

瀧の身体は勝手に反応してしまい声の方へ振り向いた。そこにはヒューと30代前半くらいのフレームレスの眼鏡を掛けた穏やかで知的な男がいた。

ヒューもすぐに瀧に気付くと目を見開き驚いた様子だったが、拳を口に当てこほんと息を吐くと瀧の名を呼んだ。

その声は少し震えて掠れていて、瀧の胸は締め付けられた。

瀧の様子とヒューの存在に気が付いた静湖は「あんたは腹が痛くなってトイレに籠ってるってことにしとくらから」と言い残すと両親と共に店の奥に入って行った。


瀧はヒューの隣にいる男をちらりと覗く。

今の恋人だろうか。大人で知的な男だ。落ち着いていて、ただ二人の様子をじっと見ている。
平静を装って声を掛けるが瀧の心の中は穏やかではない。

「久しぶり、ヒュー元気だった?」

ヒューはふらりと熱に浮かされたようにこちらに寄ると瀧の左手を取り両手でそれを包み込むと頬ずりしそうな勢いで自らの顔に近づけた。

「瀧‥‥!」

握るヒューの手の感触の中に硬さを感じて見れば彼の左手の薬指には瀧が贈った結婚指輪が嵌ったままだった。

胸に熱いものが込み上げできて瀧はそれを飲み込んだ。鼓動が速くなっているのが自分でも分かる。何か言わなければならない気がしたが、込み上げる熱に押しつぶされそうで言葉が出てこなかった。

「ヒュー、今日の食事は延期にしましょう。また後日改めて」

二人の沈黙を眼鏡の男が破った。ヒューは瀧の手を離さないまま男の方へ向く。

「ああ、すまない。助かる。彼は瀬乃生瀧。私と婚約してた人だ」

婚約してた人。過去形の紹介に瀧はわかっているはずなのに胸が痛かった。

野田のだです。はじめまして。色々お話し伺いたいけれど、それはまた別の機会に。では」

それだけ言うと野田はあっさり帰ってしまった。少し拍子抜けしているとヒューが瀧の手を引いた。

「瀧、ちょっと歩かない?」

ホテルに併設する日本庭園は美しく手入れされており新緑の季節の今は緑が眩しい。

木漏れ日の落ちる大きな樹木の下でヒューは立ち止まる。


「その、瀧にずっと会いたかった」

「‥‥うん」

「でも、会いに行けなくて」

ヒューは握っていた瀧の手を再び顔に寄せると瀧の指先をそっと持つ。
差し出した瀧の左手の薬指にはタクシーの中で抜いた指輪の跡が残っていた。

「‥‥瀧は私を待っててくれた?この跡は私との指輪?」

先ほど左手を握った時、瀧の指輪の跡に気が付いたのだろう。ヒューの切なそうな青い瞳の眼差しの中には強く暗い色がある。

「それとも他の誰か?」

「‥‥‥ヒューのこと、待ってた」

瀧が胸ポケットから指輪を出しそれを自分の薬指に嵌めたとたんヒューはめいいっぱい瀧を抱きしめた。

「ずっとずっと瀧がもう他の誰かと幸せになってたらどうしようって、不安だった。気持ちだけが焦って‥。でも私は瀧の望みを叶えられないままで‥!」

瀧はヒューの腕の中で彼の言葉が理解できず困惑する。

「俺の望みって?」

「‥‥瀧を受け入れたかったけど私の身体は瀧を拒んでいたから」

瀧と言い争いになった夜、ヒューは自分が身体を開かないことで瀧の気持ちを不安定にさせているのだと知った。

悩んだ結果、すぐに瀧にこたえることができないヒューは距離を置くことに決めた。そばにいても自分がそれを許さない限りは瀧を傷つけ続けると思ったからだ。

ヒューはあの時、瀧に二人が暮らしたあのマンションで待ってて欲しいと言いたくて口を開いたのだが、それを告げることは瀧をさらに縛るように思えて言うことが出来なかった。

彼をみたいに扱ったつもりはなかったが、その言葉はあの喧嘩の時のように瀧の気持ちを荒立ててしまうようで恐かったのだ。


「さっきの彼‥、野田さんは私のカウンセラーなんだよ」

「カウンセラー?」

瀧と別れた後、ヒューは自分を縛る過去の思い出を乗り越えたくて、すぐに心理カウンセリングを受けた。しかし、彼の心の枷はなかなか外れてくれなかった。

「野田さんで三人目のカウンセラーなんだ」

ヒューはちょっとばつが悪そうに下を向いた。

「瀧を受け入れられるようになったら会いに行こうって気ばかり急いて‥」

それほどまでにヒューは自分のことを思ってくれていたのかと思うとどうしようもなく瀧の胸は高鳴り、二年間ずっと考え続けた気持ちを瀧はヒューに曝け出した。

「ヒュー。俺‥、ヒューを抱きたかった。好きだったから全部俺のものにしたかった。でも、本当はそれだけじゃなかったのかも」

瀧はヒューを征服すれば、ヒューに敵わないことに傷ついている自分の小さなプライドが満たされると心のどこかで思っていた。

けれど瀧はずっとヒューに理解して欲しかったのかもしれない。その自分の小さなプライドすらも。


「ごめん、ヒュー」

瀧はきつく抱きしめてくるヒューの背中に腕を回すと拳が白くなるくらい強くヒューの着ている上着を掴んだ。

「でも、好きなんだよ‥!」


瀧を抱き締めていたヒューはさらに息が溢れそうなくらいその腕に力を込めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

僕の恋愛スケッチブック

美 倭古
BL
悲しい別れをした橘直人と結城陽一が、8年振りに再会する。 二人を取り巻く環境は大きく変わっており、陽一は二児の父親で有名高級ホテルの社長になっていた。 そして、直人も望み通り有名な画家に成長してはいたが、陽一を失ってから描く直人の絵は以前とは違っていた。 二人が出会った甘くて切ない高校時代から、現代へと物語は進み、直人が描く美しい絵画の世界と共に、直人と陽一の愛が語られる。 様々な困難を乗り越え二人は再び結ばれるのか? 

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

職業寵妃の薬膳茶

なか
BL
大国のむちゃぶりは小国には断れない。 俺は帝国に求められ、人質として輿入れすることになる。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中

risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。 任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。 快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。 アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——? 24000字程度の短編です。 ※BL(ボーイズラブ)作品です。 この作品は小説家になろうさんでも公開します。

嫌われ者の長男

りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

処理中です...