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外伝

後日談 3

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    城の大きな廊下を並んで歩きながら、トリニティが口を開いた。
「アレクの気持ちも分からないでもないわ。……あたしも同じだから」
    衣装の仮縫いの事を言っているのだ。
    確かにそれは気が重くなるような事だった。アレクシスのように王宮以外の場所で生きてきたものには特に。
「塔に幽閉されてからずっと、毛織の貫頭衣だったし」
    アレクシスが始めて彼女に出会った時、そして、その旅の間中、トリニティは染色さえしていない、織の荒い貫頭衣を着ていた。
「そりゃ、昔は王族らしい服を着ていたけどね。でも、冬なんて着膨れて動きにくいったらなかったから、かえってあの服の方が便利でよかったわ。……今の服は、これでも窮屈よ。動きづらいったらないの」
「なんで皆、服の事をあれこれ言うのかしら。そりゃあ、威厳を保つためには必要な事だって事くらい、あたしにも分かるわ。特に、戴冠式の時くらい。──それだって、どうせたいした参列者はいないのだけれどね。それでも、体面は大事よ……ちゃんと分かってる。分かってるわ。……あたし個人の意見としては、馬鹿馬鹿しいと思ってたとしてもね」
    トリニティが塔に幽閉されたのは10歳の時。
    物心がつく3歳の頃までを勘定から除くと、彼女は人生の半分以上を、塔の中で過ごしたことになる。
    その間、彼女を忘れ去らなかったのは、幼馴染のウェリス・ベルクトスカのみ。この城に居る、それ以外の者はトリニティという存在を無いものとしてきた。
    彼女がそういった──見栄や対面といった──ものを、馬鹿馬鹿しいと考えていても仕方がないだろう。まさしく、そういったものの為に──彼女は社会的に消されてきたのだ。そしてそれは、彼女が城を出て、つい最近、返ってくるまで続いた。……いや……恐らく、前王の執政末期の虐殺の時期には、国民の殆どはこう思っていた筈だ。

『トリニティ王女のせいで、この地獄のような状況は生まれた』のだと。『彼女が国に叛旗を翻し』、『国民を呪い、魔王の軍勢に降ったことが、全ての悪の始まりだ』と。

    今もまだ、そう思っている民は──叛乱軍に参加した者達を除いて──多い筈だ。民草には、国の中央情勢がどうだったかを知る者などいない。
    国の中枢で政治に関わっていた者達ならば……今では、セリス王女が前王を弑したことも、前王が政治的な理由からトリニティ王女の廃嫡を望み、その為に自らの手で王女を手に掛けた事も……王女の『剣』が彼女を救い出し、九死に一生を得た事も、そしてアイゼンメルドへの派兵の理由も、全てが明るみに出て知っていた。
    クリスター卿が、国の今後の事を考えて、それらを白日に晒した方がいいと助言したのだ。
    だがそれでも、全ての民にその話が行き渡っているわけではない。だからこそ、王位に着くのはアレクシスの方が良いのではないかという話も出てくるのだろう。

    ──本当に、頭の痛い事だった。

   今、この城に居る貴族達に、トリニティが心から信頼できる者など居ないと言っていい。それは先の理由……トリニティが幽閉されていた期間、誰も彼女を救おうとはしなかった事からも明らかだ。誰も、『呪われた』王女などに、国の未来の担い手である事を期待などしなかった。むしろ、何故早く死なないのかと思っていた筈だ。わざわざ死にやすい場所に幽閉したのにと。
    それなのに今、貴族達は掌を返したように彼女の元を訪れる。……少し前、セリス王女の元に諸侯が日参したように。
    その態度が一層、滑稽さをもたらすだけだと分かっていても、そうしないわけにもいくまいが。
    ただ、そんな彼等を見つめるトリニティの瞳が、苦味を帯びたものである事が、アレクシスは気になっていた。叛乱軍が王城を占拠し、勝ち鬨を挙げたその後で、トリニティの乳母だという女がやって来た時の事をアレクシスは思い出した。
    トリニティの膝に泣き縋る女を、再会を喜ぶでもなく、複雑そうな様子で彼女は見下ろしていた。その時にも、そんな表情だった。
    当時の彼女を捨てた事も、一度も会いに行かなかった事も、何もかもがどうしようもなかった事も。そんな事は分かっている。分かっていはいる。……分かっているならば、だから、全てはどうしようもなかった事だとして、8年間の過去のことも、その間に味わった扱いも、感情も、何もかもをなかった事として、振る舞えと言うのかといえば……。それは酷というものだ。
    もちろん、なかった事には出来る。それら複雑な感情の全てを、苦渋とともに呑み込むことは。実際、そうせざる得ない事も、トリニティは百も承知だ。
    それでも、……この間に彼女が感じた感情の全てを消し去り、無かった事とする事はできない。何も感じなかった事にはする事は出来ない。それは、今の彼女を形造る重要なものだからだ。幽閉された8年間と、その果ての1年間が、今の彼女を形作っている。だから、これからのこの国の為にそれらを呑み込む事は出来ても、なかった事には出来ない。
    だからこその、あの、表情だ。

    だからこそ、アレクシスは、そんなトリニティを守る為にこの場にいるのだ。

「まあ、豪華な服を着ることくらい、我慢するさ。どうせ俺のは、黒一色だ。男物なんて、デザインに大した違いはない。むしろ、お前の方が大変だな。あんな豪華なドレス、当日、転ばないように気をつけるのが大変だろう」

    その台詞は正直な意見でもあったし、ちょっとした悪戯心でもあった。先を行くトリニティが振り返って、剣のある 表情でアレクシスを睨んだ。
「そんな事言うと、戴冠式の後の晩餐会で、アレクをダンスに誘うわよ!」
    どうやら、アレクシスの意図を正確に読み取ったらしい。アレクシスはトリニティにニヤリとした笑みを返した。
「魔導師はダンスなんてしない。それよりも、心配するのはお前の方なんじゃないのか。……練習は、大変のようだな?」
「うっ……」
    アレクシスの言葉に、トリニティは渋面を作って唸った。
    アレクシスはダンスなどしなくても済むだろうが、彼女の場合はそうもいかない。彼女は最近、ダンスの講師にしごかれていた。まだまだ先が思いやられるのだろう。トリニティは相当青い顔をしていた。
    ……とはいえトリニティを笑ってばかりはいられない。
    アレクシスもダンスを全く出来ない訳ではないが──ザルツラントにいた時、必要に迫られて無理やり覚えさせられた──戴冠式でトリニティに恥をかかせる訳にもいかないだろう。
    全くもって、気が重くなるような事ばかりだった。
    ダンジョンマスターだった以前は、こんな事を心配する必要などなかったのに。

    かつてのアレクシスは、己の未来を知っていた。そう遠くないうちに訪れる、来るべき未来を。自分が死ぬ日の事を。
    アレクシスが他の者と違っていた事があるとすれば、それは彼が己の死ぬ日がいつかを知っていた、という点だろう。もちろん、人というものは皆、その定めから逃れる事など出来ない。この世に生まれ落ちてきたならば、誰も皆、その瞬間から、死へ向かって真っ直ぐに生きて行くのだ。
    ただ、大抵の場合、自分がいつ死ぬのかを知らない。思いもかけず長く生きる者もいれば、ある日突然死ぬ者もいる。その未来がいつ来るのかわからないからこそ、人はそれに怯えるのだ。
    だがアレクシスは、その未来を自分で決めていた。だから、その日に向かって真っ直ぐに、惑う事もなく進むことができた。そしてそれが、アレクシスの強さであったのだ。アレクシスに限った事ではないが、己の死ぬ時を知るものは強い。

    だが、今のアレクシスは違う。

    それまで、彼は一度も、魔王を封じて以降の未来など考えた事もなかった。あり得ないことだ。魔王を封じた後に自分が生きているなどとは。
    呪いが解ける希望を持って生きてきたトリニティは、死すべき定めのその先についても考えていたが、アレクシスにはそれが全くなかった。
    世に生きる殆どの人間達が、これほど不確かで心許ないまま生きていたのだと、漸く彼は知ったのだった。
    だから、今のアレクシスの心の内の混乱、葛藤は、とても一言で言いあらわせるものではなかった。

    アレクシス自身としては、あまりにも情けないことだと思ったが。

「だがまあ、戴冠式は楽しみにしている。お前のドレス姿はきっと綺麗だ」
     アレクシスが自らの正直な気持ちを言葉にのせれば、トリニティは見る間に顔を赤くした。
    そんなトリニティの顔を見て、アレクシスの口元が緩む。コロコロと良く変わる彼女の表情は眩しく好ましかった。
    先ほど老魔術師には結婚はしないと言ったが、確約はできないような気がした。もちろん儀式的な意味での結婚はしないでいられるだろう。だが、現実的な意味での結びつきを我慢できるかと言われると──それは出来そうにない。

    トリニティがアレクシスを見上げながら、一歩前へ足を踏み出した。頰をほんのりと桜色に染め、きらきらとした瞳が嬉しそうに細められる。アレクシスが伸ばした手を取ろうと、彼女の両手が差し出される──。

「待ってぇ。待ってちょうだいっ」
「やれやれ全く。これだから油断も隙もない……」

    廊下の向こうから二人の魔王が姿を現した。
    アレクシスとトリニティは揃ってそちらに顔を向けた後、お互いの顔を見合わせた。軽くため息をつくタイミングまで見事に揃った。

「いらん邪魔が入ったな」
「彼らをまくのは難しいわよ」
「……だな」
「ええ」
    アレクシスは苦笑まじりに肩をすくめた。もう一度魔王達を見る。ほんの少し前までは、魔王はこの国にイシリ一人しかいなかった(そういう事になっている)が、今は二人だ。倍に増えている。ストーカーが倍だ。
    鬱陶しさも倍、災厄も倍、きらきらしさも倍。何もかもが二倍だ。
「……二人に増えちゃったわね……」
    トリニティも同じ事を思ったのだろう。
「この国の未来はどうなるのかしら……l
    未来の子孫の事を思えば、気の毒としか言いようがない気もしたが、アレクシスとワーナー程にはひどい事にならないような気はした。特に理由はないが、そんな予感がした。予感をもたらしてくれたのは、アレクシスのとなりに立つトリニティだ。アレクシスは隣に立つトリニティにちらりと視線を動かした後、再び二人の魔王へと戻した。
「まあ……それは今、俺たちが考えなくてもいい事じゃないか?」
「えっ?    どういう事……?」
「建国の王も、フェリアーの引きこもりに付き合ってやる事にした兄王子も、そんな未来の子孫達の事まで考えちゃ、いなかっただろうからさ。それは、未来の、そいつらが考えればいい事だ」
    アレクシスの無責任とも取れる問題発言に、トリニティは呆れた顔で彼を見上げた。だが、納得もできたのだろう。無言でコクリと頷く。
「そんな先の事よりも、目下の問題としてお前に取り組んでもらいたい事は
──魔導師はダンスを踊らなくても良い、という法案を作ってもらう事だな」
   何でもないことのように、そんな台詞をさらりと言うと、トリニティは再び呆れた顔をした。据わった目で睨め付けるようにアレクシスを見たが、それはすぐに人の悪い笑みに取って代わった。
   トリニティの口元が悪戯に弧を描く。
「──いやよ」悪戯な笑みは、いつのまにか艶やかで甘いものへと変わっていた。「だって、それじゃあたしが貴方と踊れなくなっちゃうじゃない。あたし、貴方とダンスが踊りたいわ」
 「ぐっ──」
    それはダメだろう、とアレクシスは思った。反則だ。思わず握りしめた拳を口元にやり、視線を逸らす。もう一度見下ろせば、そこには頬をほんのりと染めたトリニティが潤んだ瞳でアレクシスを見上げていた。

    観念するか。

    アレクシスは心の中だけで息を吐き出し、トリニティの腰を抱き寄せた。
    今日も空は晴れて高く澄んでいた。

    春はもう、近い。



(終)
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