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第2部 神の愛娘

第2章 雨に滅んだ街 1

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   アイゼンメルドは地平線を三六〇度望める乾燥した大地にポツンとある、さして大きくもない町だ。
 すり鉢状の盆地に作られた町は外部からの脅威に身を守るため、低い塁壁で外周を囲っており、中心には町で最も高い建物……神殿が構えられている。
 辺境の町のわりに賑わい活気に溢れているのは、この町に『奇跡の御業』の司祭がいるからだった。
 人々は救いと神の奇跡を求めて、危険も顧みず旅路にここを目指す。ただし──およそひと月前の出来事で町は半壊していた。

 ──トリニティの幼馴染みで宮廷魔術師のウェリス・ベルクトスカが、魔王ブラックファイアの封じられた守護石(アミュレット)ごと魔王を滅ぼそうとした結果がこれだった。
 魔王のダンジョンマスターであるアレクシスが、紋章(シジル)を使って魔王を再び守護石に封じたが──町は半壊、神殿も多くの建物が崩壊した。


 トリニティ、アレクシス、ルイス、セリスの四人の一行は町を眼下に一望できる場所に馬を立ち止まらせた。二頭の馬の傍に、人間に扮した天使と悪魔も佇む。
 追っ手を振り切ってここまで逃げ延びられたのは、単にトリニティ達一行が追っ手よりも早くルナシスを発ったからだった。
 この世界では夜、街道を往くことが出来ない。
 事前に十分な装備を整えた上で行程を管理すれば、両者の間が縮むことはなかった。
 ……おそらく、城の追っ手が一旦城へ戻ってから出発の用意を整えたとすると、ルナシスを出発出来る時間は午後を遅くまわっていたはずだった。
 城門を出る時間は日中でも、日が暮れるまでに次の宿場町へ着くことが出来ない。だから彼らの出立は翌日にずれ込んだはずだ。
 一方のアレクシスたち一行は無事夕暮れまでに宿場町に入れる。……最低でも一日の行程差が生まれた。
 初日はトリニティの体調を考えて宿を使ったが、それ以降は結界石を使っての野宿をした。危険極まりない行為だったが、距離を稼ぎ、自分達の目指す先の痕跡も消せるからだ。
 幸いにして、今回の旅では前回の時のように──ファイアドラゴンに出くわすような──事はなかった。最も危険な地域を通り過ぎて野営をするように、行程には細心の注意を払ったからだった。


 記憶の中に留まる姿そのままの町の眺望をトリニティは眼下に見下ろした。胸の内にさまざまな想いが去来する。

ここでベルクトスカを失ったのは、僅かひと月程度前のことでしかないのだ。
 トリニティの目前で一瞬にして飛散した幼馴染みの壮絶な最後は、トリニティの心に大きな傷を穿った。

 町の塁壁の外、やや離れた場所から細く長い狼煙があがり風になびいていた。
「……なんで狼煙なんてあげてるんだろうな」
 ルイスが不思議そうにつぶやいた。
「さあな」
 トリニティの後ろでアレクシスが油断なく答えた。トリニティが顔を上にあげてアレクシスを見ると、アレクシスは険しい顔つきで周囲を見回していた。
「まずいな。まさかこんなことになっているとは思わなかった。この分だと町もどうだか……」
 渋い様子のアレクシスに、ルイスが相槌を打った。彼にしては珍しく顔つきが真剣だ。アレクシスと共に多くの修羅場を潜り抜けてきた傭兵であるルイスが、心なしか……恐怖に怯えているようにも見えた。
「──だな。俺もそう思う」
「どういうことですの?」
 ルイスの後ろに座るセリス王女の顔には疲労の色が濃い。『濃い』というよりも、『張り付いた』と表現した方が的確だろうか。
 生まれて始めての遠方への旅に、夜に昼を継ぐような逃避行。野営に継ぐ野営。
 硬い地面の上で眠るのは、馴れた者でなければ辛抱出来ないほどに辛いはずだ。
 これが三度目の旅になるトリニティでさえ根をあげそうだった。
 セリス王女の頬はやつれ、半ば朦朧とした表情だった。今まで弱音も吐かず愚痴も言わなかったのは賞賛に値する意思の強さだったが、あるいは、ただ単に弱音の一つも口に出せないほど疲労困憊しているだけかもしれなかった。
 アレクシスが周囲の景色に向かって顎をしゃくった。
「気付かなかったか? 多くの植物が立ち枯れている」
「そういえば──確かにそうね」
「不思議には思っていました。アイゼンメルドに近づくほど、ひどくなるような気がしていましたが」
「気のせいじゃない」アレクシスは天使の言葉に同意した。「『血の雨』だ」
 ルイスが頷いた。
「それも、けっこう長いこと降ったな。……こりゃ、この地域一体ダメかもな」
「血の雨ですって?」
 トリニティは驚きの声をあげた。思わず身震いして馬の鬣にしがみつく。
「──血の雨? なんでしょうか、それは」
 地上での出来事に疎いアブリエルが胡乱げに問うた。一同が一斉に顔を見合わせると、天使はうろたえたように言葉を継いだ。
「私、何かおかしなことでも申しましたでしょうか」
 相変わらず美しい声だった。
 半分は耳から、半分は脳裏に直接響くような不思議な旋律は、歌うように言葉を紡ぐ。紡ぎながら、海のように青い瞳は繊細そうに……おどおどとした様子で馬上のアレクシスを見上げていた。
 自分がまた何かヘマをやらかしたと思ったらしい。
 ──世情に疎い天使は、僅かひと月の間に両手両足では足りないほどの失敗をして、主(あるじ)には呆れられ悪魔からは不評をかった。
 また失敗をしたのかもしれない。したのだとしたら、もう、自分はいったいどうしたらいいのか。そんな表情でアレクシスを見つめている。瞬きしただけで、涙の粒が落ちそうだ。
 そのあまりの純粋さにトリニティが助け舟をだしてやろうと口を開きかけた時、ディーバが意地の悪そうな笑みを浮かべて先に喋りだしてしまった。
「お前、ホントに何も知らないんだな」
 天使が言葉を詰まらせる。涙の粒の落下まであと五秒前、といった風情だ。
 トリニティが怒るように口を挟んだ。
「もう! ディーバったら! 天使様は地上で暮らしたことないんだから、そんなの知らなくて当たり前でしょ?」
「自分たちがしてる事さえ知らないなんて、いい気なもんだぜ」
 悪魔が口を尖らせそっぽを向いた。険を含んだ嫌味たっぷりのセリフは、天使の繊細な胸を抉るのには十分だ。しかも悪魔特有の声は、聞いた者の心臓を無理やり掴んで揺さぶるような迫力だからたまらない。
「わ、わわわ。私たちがしていることさえ知らないって、一体、どういうことなのでしょう?」
 あからさまに動揺する天使をトリニティは気の毒そうに見下ろした。……『血の雨』の話をすれば、この心優しい天使はきっと立ち直れ無い程落ち込むに違いない。それを知っていて、ディーバはアブリエルをからかったのだろう。
 トリニティはそれを天使に言ってもよいものかどうか迷った。
「天上で天使と悪魔の争いがあったんだ」
 非情な台詞を言ったのは、やはりアレクシスだった。
「争い、ですか?」
「──そうだ。丁度この上あたりでな。両者が流した血が地上に降り注ぎ、血の雨になる」
 アブリエルは思案げに眉を寄せた。
「そうか……そうですよね。私たちが流した血は、地上まで落ちてくるんですね。考えた事もありませんでした……」
「血の雨は大地に降り注ぎ、毒となりあらゆる生者を滅ぼす。動植物にかかわらず、だ。……ひどい時には大地をも枯らす」
「え──?」
 天使が弾かれたように顔をあげた。悪魔が小気味良さそうに口笛を吹いたので、トリニティがディーバを睨むと、悪魔は悪びれもせず肩を竦めた。
「天使は気楽でいいよな」
「だから『自分たちがしてる事さえ知らないなんて』とおっしゃったのですね?」
 その声が驚愕に震えていた。
「血の雨って言ったって、天使のと悪魔のとどちらが毒になるのか分からないじゃないの!」
 トリニティが悪魔に向かって噛み付くように言うと、悪魔はせせら笑った。
「高位の者の血ほど被害がひどいそうだぜ。二週間も雨が続けば、大地は枯れて二度と芽吹かない」
「そんな……」
 アブリエルは蒼白となって肩を落とした。
 トリニティが何を言っても、殆ど何も聞いていない。やはり、アブリエルにその事実は耐えられないような衝撃だったのだろう。
 アレクシスが手綱を引いて馬首を廻らせた。
「とにかく──ここで何を言っていても始まらん。アイゼンメルドへ行こう。行けばわかる」
 馬が嘶いて走り始め、トリニティは鬣を握り締めた。


(続く)
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