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第2部 神の愛娘
第1章 嚆矢 6
しおりを挟む「目が覚めたか?」
アレクシスがベッドに近づくと、トリニティはぼんやりとした表情で目を開けていた。目はうつろで、焦点が定まっていない。目は開けていても、何も見ていないのだろう。
目覚めたばかりのようだった。
トリニティはしばらく天井のあちらこちらを見ていたが、やがて、アレクシスを認めてにこりと微笑んだ。
矜持の高い彼女に似合わない──驚くほどあどけない笑みだった。
アレクシスはベッド脇に膝をつくと、トリニティの手をとり、その枯れ枝のような細い腕に額を押し付けた。
「すまない」
王女トリニティが呪われた身を何とかしようと家出したのは、アレクシスと会う以前のことだ。
だが、出会った以降のことは……。
今のトリニティの惨状を作り出したのは、アレクシスと出会ったからだと。絶対に違うと、言い切れるのだろうか。
トリニティと出会う以前に、既に多くのものを失っているアレクシスには、違うと言い切れる自信がなかった。
トリニティは持ち上げられた自分の腕を不思議そうに見つめながら言った。
「──どうして謝るの?」
「あんたがそんな目にあったのは、きっと俺のせいだからだ」
「あなたの?」
「ああ」
まだ意識がはっきりと覚醒していないらしく、トリニティの表情は夢ごこちだ。
「違うわ。あなたは悪くない。これはあたしが……あたしが、自分で決めた道を進もうとしてこうなっただけ」
トリニティが面白そうに小さく笑った。
「何がおかしいんだ?」
眉をひそめるアレクシスに、トリニティは更に含むように笑う。笑みは少し自嘲気味だった。
「……まだ一歩も進んでないうちに転んだわけだけど」
「お前が言おうとしていることが分かった」アレクシスは憮然とした。「──『俺ならそう言うと思った』と言いたかったんだろ?」
「そう」
トリニティの笑みは消えそうなほど弱々しかったが、彼女を助け出した時の状態を考えれば、手放しで喜んでいい程回復していた。
「……あのまま俺の腕の中で死ぬのかと思った」
アレクシスは苦渋に満ちた声を押し出すようにして言った。トリニティを闇の中で抱き上げたあの時。生きているのかいないのか分からない──死んでいるのと同じだといっていいほどの状態だった。
「……あたしもそう思ったわ。あのまま死ぬんだと。でも……」
トリニティの口元が綻んだ。
「ありがとう」
「は?」アレクシスは思わず間の抜けた声を出した。「なぜそこで俺に礼を?」
「だって──あなたのおかげだもの。あたしが死なずにすんだのは」
「俺?」
トリニティが頷いた。
「もうだめだって思うと、その度にあなたが頭の中に出てきて、あたしの事を馬鹿にするの。怒らせるようなことを言ったり、馬鹿にしたり……。お尻を叩くようなことばかり言うのね」
「それであたし、次にあなたにあったときに堂々と胸をはって『みてごらんなさいっ』って言えるように、根性だしてがんばったのよ。だから、お礼」
「そ、それは──……」
アレクシスはがっくりと脱力した。何といって答えを返したらよいのか。言う言葉も見つからない。
「そりゃ、良かったな」
まだ随分ぼんやりとはしているものの、アレクシスの知っている勝気なトリニティのままだ。……彼女を襲った過酷な運命も環境も、彼女を変える事は出来なかったらしい。
「それにしても不思議ね」
「何がだ?」
「暗いから何も見えなかったんだけど……あたし、もっとあちこち傷だらけじゃなかった? 体が軽いから、熱も下がってるみたいだし」
「ああそれか」
あちこち包帯だらけとはいえ、今のトリニティは城の地下牢で見つけた時のようなひどい状態ではなかった。肌は清潔になるよう拭かれ、膿んだ傷もずっと少なく、どれも症状は軽い。
「……アブリエルに感謝するんだな」
「天使様?」
「ああ」
「奇跡の力を使ってくださったの?」
「そうだ──それから、ディーバにもだ。感染症の類を消してくれたのは、たぶん奴だ」
アレクシスは部屋の隅のほうでそっぽを向いたまま絶対にこっちを見ようとしなかった悪魔の姿を思い出して、思わず吹き出したくなった。だからあの悪魔ははぐれ悪魔なんだろう、と思う。
「その包帯は──」
言いかけたアレクシスが、意地悪く笑った。
「俺に感謝しろ」
セリフを聞いたトリニティの口が、「は」の状態に開いたまま静止した。口だけはその形を取ったものの、実際の言葉は出てこない。
茫洋としていたトリニティの目つきが、一気に覚醒していくさまが、目に見えて分かった。
「そ、そそそそ、それは──」
その様子を見て、アレクシスが小気味良さげに笑った。
トリニティの顔が赤くなり、青くなり、ついには交じり合って紫になり──。
「──うそっ?」
トリニティは慌てふためいて身を起こそうとし、うめき声を上げて挫折した。
「うそっ! うそっ!」
顔を真っ赤にしてパニックをおこした。アレクシスはベッドの脇で腹を抱えて笑った。それを見たトリニティの顔色がサッと変わった。
「嘘ついたのねっ──!」
「は、は」アレクシスの笑いは止まらなかった。「感謝はグラディスにしろ。一応、俺は遠慮しておいた。そのくらいの気遣いはあんたにだってしてやらなきゃな。もっとも……グラディスも男だから、どっちの方が良かったかは疑問が残るが」
「嘘嘘嘘っ!!」
ベッドから起き上がることに失敗したトリニティは、今度は掛布を頭の上までかぶり、体全体を隠そうとした。
そこへ──。
「お姉さま?」
振り返ると、扉のところにセリス王女が立ってこちらを見ていた。
アレクシスの笑い声に、たまらずドアを開けたのだろう。両方の手を胸のところで握りしめ、喜びの顔でこちらを見ている。
「……セリス?」
妹の姿を認めたトリニティが、険しい目で睨みその名を呼んだ。
「──どうしてあんたがここに」
王女の声が険を含んで鋭い。力を込めて掛布を握り締めた手が震えていた。
「セリス王女は貴方を心配されて来られたのですよ。……城内で行方不明になられた貴方の行方を捜すよう私を頼って来られたのです」
セリス王女の後ろから勇者ワーナーが答えると、トリニティは一層怒りのこもった瞳で妹の事をにらみつけた。
「あっちへ行って! 出て行きなさいよ!」
トリニティは声を張り上げて、サイドテーブルにのせてあったゴブレットを掴むとセリス王女に向けて投げつけた。
「──キャ!」
庇おうと咄嗟にあげた両腕にゴブレットが当たって、床に落ちた。中に残っていた水が散った。
「トリニティ王女!」
「……大丈夫です勇者ワーナー。わたくしには殆どかかりませんでしたわ」
セリス王女は消えそうに細い声で言って、床に転がったゴブレットを拾い上げた。
「それに……いつもの事ですわ……」
震える声でそう言う。気丈にあげた顔には涙が滲んでいた。
「王女!」
諌めるように言うワーナーに向かって、トリニティは噛み付くように言い放った。
「本当は心の中で笑ってるくせに……! 余計なことなんてせずに、さっさと城へ帰りなさいよ!」
「──お姉さま……!」
身を小さく縮めたセリス王女が頬を涙で濡らし、堪らない、というふうに声をあげた。
「あんたのお得意の涙は、尻尾を振ってくれる男どものために取っておくのね! ……あたしには効かないわよ!」
「そんな……」
セリス王女が両手で顔を覆ってすすり泣いた。
室内を表現しようのない気まずい空気が支配した。
「あー。お取り込み中、悪いんだがね」
開いたドアを叩く音がして、聞き慣れた声が言った。
アレクシスが振り返ると、そこには傭兵姿の男が立っていた。
薄い色の金髪に柔和なハンサム。軽薄そうな表情で、なぜかやたらに大げさで意味不明なポージングをとって立っているのは──。
「ルイス」
名を呼ばれて、ルイスは片手を挙げた。
「よう。……相変わらず派手な事件に巻き込まれてるな。姫様もお久しぶり。元気そうで何よりだ」
前半は相棒に向けて、後半はトリニティに向けて言う。
「……何をどう見て元気そうだと判断するのか聞きたいところだわね」
トリニティは呆れるように言った。
「あなたも元気そうで何よりだわ」
ルイスは答えるように微笑したがすぐに真面目な顔つきになった。
「準備は出来たぜ。行くなら早い方がいい──」そう言いながら、後ろへ顎をしゃくった。「──お客さんだ」
ワーナーがぎょっとしたように通り沿いの窓の方へ顔を向けた。
「──つけられていたのか? まずいな」
「それに、早いわね」
マダム・ペリペが窓際に近づいて外の様子を窺った。
「本当。いるわ。──アレク。あなた達は裏から出なさい。……ルイスに馬と荷物を用意させたわ」
「そんな事をしていたのか」
「ええ。どのみち……王女暗殺の事件なんかに係わって、このままルナシスに居られるなんて思ってなかったんでしょう?」
「まあな──だが、何処へ?」
アレクシスは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
それこそが問題だった。
事がことだけに、何処へ身を隠せばいいのかの判断は重要だ。外は危険で、行き先を決めずに出るのは身の程知らずとしか言いようがない。
よく響くバリトンが簡潔に答えた。
「アイゼンメルドだ」
「アイゼンメルド? ──あの?」
ついひと月前に訪れた町の名だった。頭の固い司祭が治める街は、あの時の一件で半壊したはずだが。
勇者ワーナーは頷いた。
「ベルダ司祭に身の保護を頼むんだ。……彼はこの半月ほど、何度も王へ向けて書状を提出している。──トリニティ王女の幽閉を解く嘆願書だ」
驚くトリニティをルイスが軽々と抱えあげた。
「今日も役得だね……っと。失礼しますよ、王女様。アレク、お前、前ね。俺後ろ」
「私が表に出て彼らをひき付ける。その隙に行け」
ワーナーが硬い声で言って、店の表玄関へ足早に向かった。
「ええっ! 俺? 俺も行くのかっ?」
「そうだ」
「いつ決まったんだよそんなことっ!」
「さっき。──欠席裁判だ」
抱えられたトリニティが申し訳なさそうに見つめると、ルイスが深い深い吐息を吐いた。
「冗談だろっ。……頼むよホント」
心の底から嫌そうに、半ば諦め顔で肩をガクリと落とした。
「しょーがないなぁ」
「ごめんなさい」
「ああ、いいって。姫様のせいじゃないもん。すべてアレクのせい。──急ごうぜ」
ルイスがアレクシスを促した。
「……感謝する」
追手の騎士たちに対峙するために扉を開けようとしている勇者に短く言って、アレクシスは反対の廊下へ向かった。
「戻れ」
喚び声に応じて、天使アブリエルと悪魔ディーバが色彩の塊となって渦巻くように指輪へ戻った。
裏口の扉に手を掛けたアレクシスは右手を腰の後ろへ回した。体をわずかひねって、短剣の柄をまっすぐに引き抜いた。
左手でドアを押し開けると、体をかがめて外へ踏み出す。柄を握りかえながら短剣を振り上げるとドアのすぐ外で構えていた兵が声をあげて後方へ倒れこんだ。
そのまま、同様に待ち構えていた数人の兵を、相手の懐に飛び込むようにして斃していく。
短剣だけであっという間に敵を地面に捻じ伏せるその手並みは相変わらず鮮やかだ。
ルイスが口笛を吹いた。
「下品だぞ」
アレクシスが眉を寄せてふりかえった。
二人は厩に走って行き、用意してあった馬に乗って手綱を握った。
「わたくしも行きます」
厩の外にセリス王女が飛び出してきた。
「──はあっ?」
予想もしない事態に、ルイスが頓狂な声をあげた。
「おいおい。そりゃ無理ってもんだぜ……」
馬は二頭だ。アレクシスは構わず馬を進めようとすると、セリス王女は馬の足にしがみつかんばかりの勢いで追いすがってきた。──しとやかな外見に可憐な性格の姫に似合わず、こんな時にはすることが姉にそっくりだった。
「連れていってください……!」
通りを回って、さらに兵士がこちらへ向かって走ってきた。
「まずいぞ! どーするよ?」
ルイスにせっつかれて、アレクシスは嘆息した。
「……お前のに乗せてやれ、ルイス」
「えー」
そう言いながらも、役得だと言わんばかりに鼻の下を伸ばして、ルイスが王女の腰に手を回して馬上に引き上げた。
手綱を強く引くと、一気に馬が駆けだした。疾駆する馬は兵の間を蹴散らすように進んで、城門を目指した。
「それにしてもさ! お前に係わってると、なんかいっつもこんなんばっかりだな!」
ルイスが馬の蹄の音に負けないくらいの大声で怒鳴った。
何といっているのかアレクシスの耳にまでは届かなかったが、何かを叫んでいるのは分かったし、何といいたいのかは理解できた。
「俺って案外押しの弱いお人よしだよな! 『裏切り者』って二つ名は返上しようかなぁ……!」
ルイスはアレクシスの後ろをついて走りながら、ぶつぶつと不足を言った。
「ごめんなさい」
アレクシスの腕の中でトリニティがすまなそうに言った。憮然とした声でアレクシスは答えた。
「謝る必要なんてない──こういう時には、礼を言うもんだ」
トリニティが顔をあげた。
泣き出したいような、縋りつきたいような、そんな顔だった。
第1章 完 第2章へ続く
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