僕の愛した先生

荒北蜜柑

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      『理解することに努めなさい』

 先生は口癖のように言っていましたよね。
 流石に、すっかり姿が変わってしまった先生のことを理解することは出来ませんでした。
 初めて、先生の教えを破った瞬間でもありましたね。
 僕はその日、先生に相談はせず、家に帰りました。
 迎えてくれたのは罵声と、暴力でした。この恥知らずが、とか、お前なんて産まなければ良かった、とか。精神的暴力はあっても肉体的暴力を振るわれたのは初めてでした。父に胸ぐらを掴まれて、食器やら置物が飾ってある棚に投げつけられました。背中の激痛に気付く暇を与えないというように左の頬に激痛が走りました。
 酷くなっていく父の暴力を、母は止めようとはせず、むしろ僕をゴミを見るような目で見ていました。
 ゴミはどっちなのだろうか。父の暴力で揺れ続ける頭の中で考えました。身体は悲鳴を上げているのに頭の中は妙に冷静だったんですよ。
 僕の母は医者で、父も医者です。どちらも大変忙しく、家にいることなんてほとんどありません。家のことは家政婦がやっていました。けど、たまに家に帰ってきて休んでいる姿を見ていました。
 僕が幼い頃、ある天気の良い日、家に帰ってきた時でした。玄関に母の靴があり、帰ってきてるのか、と。久しぶりに母に会えると無垢で、無知だった僕は喜びました。
 僕が帰ってきたことを知らない母を驚かせようと声を潜めて母の姿を探しました。
 母は何処にもおらず、きっと寝室で寝ているのだろうと思い寝室へ向かうと、微かに寝室から声が聞こえてきたのです。
 寝室の扉が少し開いていて、僕はそこから母がいるかどうか覗きました。
 そこには、今まで見たことのない醜い母と知らない男の姿がありました。
 下品な声で男に媚びを売る母。
 僕はいつのまにか、公園のベンチに座っていました。空はすっかり夕暮れの色に染まっています。
 夢でも見ていたんだ。と、僕は気持ちを切り替えて家に帰りました。
 家に入ると、僕は誰かに口を塞がれました。それも一瞬のことで、すぐ口は解放されました。
 恐る恐る塞いできた人物を見ると、そこには帰ってきていた次男がいました。
 次男は口の前で人差し指を立て、静かにするように指示し、僕を次男の部屋へ入るよう促しました。
 部屋に入ると、次男は何故、部屋にこもったのか全て話してくれました。
 母は不倫をしていたのです。しかも、父がいない日を見計らって自宅で。長男と次男は以前から知っていたのですが、僕は幼かったので教えることはせず、母の不倫を隠そうとしていたそうです。
 しかし、隠すことにも限度があり、予想外なことに今日、母は僕が帰ってくる前に不倫相手を連れてきていたのだと次男は言っていました。
 僕はこの時、なんて、最低な生き物だろうと思いました。自分の子どもを愛すことのできる感情が備わっている生き物が、不倫をし、パートナーには隠そうと必死になっているが、子どもには隠そうとせず、心を傷つけていく。子どもはそれが何なのか気付いた時、絶望するのです。もし、兄弟がいて、兄ならば弟を守ろうとする。何故、親ではなく幼い兄弟が助け合っているのか。
 この生き物は、何故子どもを産んだのか。
 兄達は僕より酷い扱いを受けていなかったとはいえ、母から愛情を貰っているところを見たことがありませんでした。
 母にとって、僕たちは飾りに過ぎず、いてもいなくても構わない母自身の評判を上げるために造られたた存在なんです。
 父にもまた、同じことが言えました。不倫はしていなかったとはいえ、愛情なんてなく、言葉の暴力ばかりを浴びせてきました。
 ただ、幼い僕にとって母は女性で、家族という名前があるだけで子ども特有の大好きが溢れていました。
 その大好きがあの一瞬見ただけの出来事で全て崩れさり、母が気持ちの悪い生き物になったのです。
 次男から話を聞かされた後、母が帰ってきている日は不倫が日常的に見えるようになっていました。相手は同じ日が続いたり、別の人だったり。兄達がこれまで頑張って僕を守ってくれていたことがよく分かりました。
 僕は日を重ねるごとに、母は気持ち悪い生き物という考えから、女性は気持ち悪い生き物なんだという考えになっていっていることに気がつきました。
 

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