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狐の章 8

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八兵衛の仕事部屋で、一匹の狐が凛の前で仰向けにされている。
その狐は、中年女に化けていたお紺だ。
通常、誇り高い化け狐は人前で腹を見せるような無防備な姿をさらけ出したりしないのだが、これには訳がある。


凛の手には櫛が握られており、お紺はこれから我が身に降りかかる災難を想像して震えている。
今から始まるのは、凛の姿に化けて三之助に色仕掛けをしたお紺への仕置きだったため、凜は容赦なくお紺の毛を櫛で梳き始めた。


「ひぎゃ……長! お願いだからお凛ちゃんを止めとくれ! じゃないと化け狐としての誇りがぁ……」



八兵衛はお紺に助けを求められても聞き流し、自分の目の前で起こっている光景に気を取られることなく、書類仕事を続けていた。


「ひゃああ、やめ、やめてやめて…! くすぐったい…! うぎゅう…」



凛の巧みな櫛づかいは見事で、お紺はその心地よさに天に召されるかのような感覚を覚えてしまう。

狐里の化け狐たちは非常に誇り高い一族であり、獣の本能を暴かれることを恥としている。

しかし、お紺にとって凛に毛づくろいされる時間は、誇りを忘れさせる誘惑と心地よさが入り混じったものだった。


「うう…やめとくれよう……」


お紺は毛並みを整えらえる心地よさで化け狐の本来の誇りを失い、自分がただの狐に成り下がってしまうことを恐れていた。


「本当にやめていいのかい? もう少し我慢すれば昔のような美しい女狐に戻れるかもしれないのに」


櫛で梳くたびに、お紺のくたびれていた黄金色の尻尾はもふもふ感と輝きを取り戻していく。


「うう……」


凛とお紺の奇妙なやり取りを後ろで見ていた三之助は、戸惑った表情を浮かべていた。


「お嬢、俺は一体何を見せられているんすかね……」
「御覧の通りさ。私がお紺さんの毛づくろいをしてもふもふを堪能している様を、指をくわえて見ているんだよ。このもふもふを好きなだけ触れるのは私の特権だからね」


三之助は真顔で自慢げに応える凛を見て、微笑んだ。

凛は狐里で育った影響なのか、密かに狐たちの毛づくろいを趣味としている。
櫛で梳くと、狐の毛皮はふわふわで滑らかになる。
10歳ほどの時にその快感を知ってしまってから、凛は暇さえあれば狐たちを捕まえて毛づくろいに明け暮れていたのだ。

最初は凛に従っていた狐たちも、年々毛づくろいの腕前が上達していくにつれ、困惑を覚えるようになった。

このままでは獣の本能が無防備に晒されてしまう。

それは至福でもあるが、屈辱でもある。
化け狐の一族は、誇りを捨てて至福を求めるか、至福を遠ざけ誇りを守り通すかの究極の選択を迫られていた。

そして彼らは八兵衛の指導の下、凛の毛づくろいを原則的に禁止することに決めた。

もふもふの癒しを奪われた凜は八兵衛に不服を申し立て、特別な祝い事がある時と軽犯罪者への仕置きの際に限り、毛づくろいが許可されることになったのだ。





「そうっすね、お嬢に大切にされているお紺さんを羨ましく思います」


お紺は三之助を恨みがましく睨んだ。


「三之助はんも仕置きを受けるべきだよ! なんでわっちだけ…! ふにゃあ…」


凛の櫛づかいに、お紺が完全敗北した瞬間だった。
お紺はふにゃふにゃと脱力して至福の余韻に浸った。


「ほれ、終わったよ。これで仕置きはおしまいだ」


三之助は、お紺の毛皮の美しさに感嘆の息をもらした。
度重なる出産と育児の疲労でかつての輝きが失われていたお紺だが、毛づくろいの後には黄金色の毛がキラキラと輝きを放っている。


「人間の俺でも、今のお紺さんの美しさが尋常じゃないのはわかりますよ」

「まったく。面倒がらずに手入れを続けていれば、お紺さんはそんじょそこらの美姫にも負けないくらいの美人狐だってのに」


お紺の美しさが損なわれていたのは母狐として子育てに奮闘してきた証でもある。

彼女の連れ合いのゴン助は浮気性で気まぐれに帰ってきて、またふらりとどこかへ行ってしまうような薄情な男狐だ。

お紺が子育てを一手に引き受け、浮気して帰って来たゴン助を叱りつけることは日常茶飯事だったのである。



そんなお紺を見て、大半の者は「そんな男とは別れてしまえ」と言い続けてきた。
しかしお紺は「惚れた弱みで突き放しきれない」と返事をするのだ。





凛はお紺の尻尾を撫でながら、八兵衛を見た。


「八兵衛殿、お紺さんとゴン助殿の痴話喧嘩はいつものことだから静観しているつもりだったけど、今回ばかりはそうも言えなくなった。まさか三之助を当て馬にしようとするなんてね」


八兵衛はゆっくりと首を回して、ため息をついた。


「そうだな」


三之助は凛と八兵衛の話題の中心に自分の名が出てくるとは思っておらず、困惑した。


「お紺さんはちょっと悪戯して憂さ晴らしをしたかっただけじゃないんすか? そんな大事にしなくても俺は別に」

「そうじゃない。狐里の門前で、三之助はお紺さんに同情して手を触れそうになっただろ?」


三之助は、凛に「一生みてやる覚悟もないのに流されて狐妻に気を許すんじゃないよ」と警告されたことを思い出した。



「もしかして、あの時、お紺さんに触れてたらなんかまずかったんっすか……?」
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