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44,ルージュの色は……

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 はじめてのオペラは楽しくて、傍らにヴィクターの存在があることにもレナはすっかりと舞い上がっていて、幕間にボックス席を出るのが遅くなってしまった。

ロビーは紳士、貴婦人たちで彩られていてその中を出来るだけ優雅さを失わないように急ぎ足でパウダールームへと向かった。

だから…………

気がつかなかったのだ。

その人の存在に。

「こんばんは。レディ レナ・アシュフォード」
その声はごくごく近い所から、そして甘い香りにふわりと鼻腔をくすぐられ、魅惑的なその刺激が反射的にゾクリとさせた。

「あなたは……」
『リディアーヌ・モンフィス ラモン伯爵夫人よ。はじめましてね』
にこっと頬笑むリディアーヌは、美しい上に艶やかで色っぽく、女性としての賛美をすべて冠している。

『貴女と話してみたくて、つい話しかけてしまったわ。ごめんなさいね?』
滑らかなフルーレイス語は彼女の声や雰囲気によく似合っていて、同性でもドキドキとしてしまいそうだ。
『なぜですか?』
レナがそう返すと、リディアーヌは目をパチパチとさせ、その睫毛の長さを強調させた。
『だって、ヴィクター・アークウェインの婚約者だもの。彼を見て貴女を見るととてもお似合いの可愛らしいカップルなのね』

その肯定的な言葉は、嫌みは入っていないようでレナは身構えていたのに、肩透かしを食らった気がした。
『ヴィクターはすごくあんな恵まれた外見をしているのに、真面目よね。すごく』
『ええ……ヴィクターは昔から見えない所で凄く努力するんです』

リディアーヌの言うように、レナはヴィクターはとても根は真面目なのだ。
例えばチェロの基礎練習を一人で何時間も続けている事を知っていた。
人前ではさも練習なんてしてなくても何でもこなせる、という風に装っていながらもだ。それは他の事にも共通していた。
『貴女も、きっとイングレス人らしくお堅くて真面目なのね』
『さぁ……普通、だと思いますわ』
そう答えると、リディアーヌはクスクスと笑った。
『わたくしね、貴女たちのそういう所、とても好きみたいだわ。それに……』
リディアーヌは軽くレナを見て
「会って話してみて、貴女の事も好きみたいだわ。だってね、婚約者と噂になってる女の話をきちんと聞いてくれるなんて貴女は凄いわ。真っ直ぐに人の事を見ることが出来るのね」
「わたしが?」

「自分の目で見たことが大切なのね。それって、この社会ではなかなか難しい事ででしょう?社会が人の評価を決めるものだもの」
確かに、コーデリアも同じような事を言っていた気がする。

「それはきっとわたしが田舎育ちだからだわ」
リディアーヌは首を軽く振った。
「いいえ、いいご両親に育てられたのね」
言いつつそっと一歩近づかれて、レナはそのぶん軽く下がる。

『ルージュは…もう少し艶があるものがいいわ』
そう言ったのは、レナの手に淡い珊瑚色の口紅があったからだろう。
リディアーヌは手にした彼女の口紅を優しく唇に滑らせた。

「馴染ませて、ほら。この方がずっと似合うわ」
彼女の薬指で口紅は馴染ませられ、そして色っぽい忍び笑いをさせるリディアーヌの言葉につられてレナは鏡を見た。

赤でもピンクでもない、大人すぎない艶々としたチェリーのような色合いは可愛らしさもあり、どこか色っぽくもある。

「あのね、何が言いたかったかと言えば……わたくしね、ヴィクターが可愛らしいから連れ回してしまってるけれど、貴女が心配してるような事は何もないの。だってヴィクターって紳士・・すぎるのだもの。昨日……頬を見たから、誤解を解きたくなったの。年上の旦那様と結婚すると、若くて美形の男の子とついたくさん話してみたくなるものなの。でも貴女にしてみれば嫌な噂を聞くことになってしまったわよね?ごめんなさいね」
リディアーヌはきゅっと手を握って覗きこんでくると、
「引き留めてごめんなさい。一言謝りたかったの」
と、呆気にとられたレナをそこに残して、笑顔を向けてそのまま立ち去ってしまった。

あまりのことに、混乱が生じていた。

素直に謝られると、どうしていいのか分からない。

あまりにもぼんやりしていたのか、見知らぬ婦人に大丈夫なのかと尋ねられてしまった。それでようやく我にかえって、レナはボックス席へと向かうべくパウダールームを後にした所で、心配そうに立っていたヴィクターを見つけた。

「レナ、どうかしたのか?」
「ううん、なにも………」

なかった訳じゃないが、どう説明するのが良いのか分からない。

ヴィクターの方こそ、何もないというのは信じていいことなのかとまた戻ってしまう。

「気分が悪いなら帰ろうか?」
レナはその言葉に首を思わず縦にしそうになり、慌ててヴィクターの腕を取った。

「違うの……そう。ただ、思いがけない事があって少し動揺しただけなの」
「思いがけない?」
ヴィクターは心配そうにレナを見下ろしている。
「この、香り。まさかラモン伯爵夫人か?」

香りだけで、誰かとわかるなんてそれだけ親しいのかとついつい余計な考えが浮かんでしまう。

「だけど、嫌なことを言われた訳じゃなくて」
「何を話した?途中だけど、ここを出て場所を変えてゆっくりしよう」
あくまでも心配そうなヴィクターに、レナはやはり信じきれずにいるちっぽけな自分を見つけてしまった。

「ヴィクター、今帰るのは良くないわ。わたしたちはとても注目の的なのよ?途中で帰ったりしたら、今度はどんな憶測を呼ぶか分からないわ」
「レナ、そんなのを気にする事はない」
「気にするわ。わたしはこれ以上、グランヴィルの家に良くない噂を与えたくないの」

やっと……父との関係を、良い形に自分なりに納める事が出来出した所なのだ。それに、まだデビュー前の弟妹たちもいる。
本来ならアシュフォードの血を引かない自分が家名を傷つけたくはないのだ。

ここでもしも、帰ったとしたなら、ヴィクターと喧嘩でもしたのか、とか、はたまたふさわしからぬ事をしているのではないかとか。
前半に埋めていたボックス席空けるとなると、そんな噂を広められてしまうかも知れない。
この上、話題を提供する事はない。

ヴィクターはふっと息を吐き出すと、
「何を話した?」
「気になるのね……そんなにあの人の事が」
「彼女の事じゃなく、気にしてるのは君の事だ。レナ」

「ルージュの色が似合っていないって。この色の方が良いって。彼女はそう言ったの。どう思う?ヴィクター」
まじまじと見つめてきたヴィクターは、

「正直に言えば、夜のメイクをしてる今よりも、ナチュラルな昼の方が俺は好きだ」
ヴィクターの答えにレナはクスクスと笑った。
「はぐらかした、とても上手く」
「鮮やかな口紅は、キスすると……俺にもついてしまう」
囁かれてレナは、ゾクッとしてそして、嫉妬やら独占欲やら、醜い感情が影を除かせて

「じゃあ今ここで……彼女のルージュを取って」
すでに人気はなくなってるとはいえ、大胆な事をしていると分かっていた。
レナはヴィクターのコートの襟元に指をかけて背の高い彼を傾がせた。

初めは緊張を感じさせたヴィクターだったけれど、次第に深く合わさって行く。それはどこからか足音が聞こえるまで、何度も溶け合いそうなほどに。

離れて、ヴィクターの緑の瞳を見た時にはレナは改めて「この人が好きでどうにかなりそう」………よく小説でありがちな、乙女の言葉が泉のように沸き上がってきて、息さえ不自由になりそうで喘がなくてはならなくなった。

愛されたい。

行こう、と腕を差し出すその肘に指をかけながら、レナはどうしようもなくそんなことを思った。

ヴィクターは一度も、好きも愛してるも告げた事はない。ただ大切にしてくれている。

なんて厄介なのだろう。
それで充分だと思えない時が来るなんて………。レナはなんて欲張りで、婚約までして大切にされているのに、なんて欲深い女になってしまったのだろう。

「ヴィクター………覚えていて。わたしはあなたが好き……それから愛してる……」
レナの言葉にヴィクターは歩みを止めた。

「だからこんなにも、あの人との事が気になってしまう。だから、駄目なの………あのひとと話をしてるのを考えるだけで醜い気持ちになってしまう」
「俺は……レナが大切だ、とても」
それは言われなくても感じる。
ヴィクターはいつも優しい、気遣って大切に扱ってくれている。

でも、それでは不満だなんてどうして言えるだろう?

「――――わかってる」

ヴィクターのがっかりする言葉にレナは苦笑してしまった。ボックス席の扉を自ら開けてさっさと座った。

なぜ、ジョルダンが王都へ来たときに白紙にしなかったのだろう……。
はじめてレナはそんな風に思ってしまった。
こう思うだろうという事をジョルダンは分かっていて、ああ言ったのだろうか……。
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